5-6. 想うは姉妹愛
「お久しぶりですわ、マリア」
撒き餌につられてやってきたのは、ピレネーだった。
以前私が撒いておいた餌。テータに伝えさせたバレンシア生存の情報。まだそこまで時間は経っていないように思ったけれど、意外と早くグレイストーン家は動いてきたみたい。
ピレネー・グレイストーンは仏頂面を張り付けて、下町の我が家の扉を叩いていた。
「あら、貴方が来るのね」
「……どういう意味でしょうか」
「どうもこうも、貴方の立場は公式上はグレイストーン家ではないんでしょう? ミリアの護衛だものね。バレンシアが見つかった報を受けて、グレイストーン家とは関係のない貴方が来ることに、他の人は納得するの?」
「この訪問は公式ではないからです」
つまりベイク・グレイストーンは、バレンシアが見つかったとの報告を議会に上げずに、彼の手で元で握りつぶしたということ。公表すれば魔術研究所襲撃の犯人がはっきりして、悩みの種が消えるメリットがあったのにね。
でも、隠匿したのもよくわかる。バレンシアが生きているなんて知れれば、失脚するのは彼の方。実の娘だから生かしたのだと手心を疑われ、グレイストーン家は化け物の一族になる。糾弾を抑えきれずに王家から排斥される。
バレンシアは、グレイストーン家が孕んだ特大の爆弾。ベイクだってその重要性を理解しているはずだし、だからこそ、私は当人が来ると思ったのに。ピレネーが当主代理を張れるとも思えないし。
「で、マリア。これは以前交わした約束の通りということでいいんですのね? バレンシアに会わせてくれる代わりに、貴方の悪行を見逃せという約束。お父様を説得して私が来るように仕向けるのは、相当骨が折れましたわ。もっと素直に教えてくれればいいのに」
その言葉で、ピレネーが少し勘違いをしていることに気が付いた。以前、私はピレネーにバレンシアと会わせてあげると約束した。これはその約束の延長だと思っているみたい。
ちょっと違うけど、便乗しちゃお。
「大切な約束だものね。忘れるわけないじゃない。貴方に送る合図について色々考えたんだけど、卒業生の私は学院の生徒である貴方とは簡単に接触はできないし、こうなっちゃったの」
「……まあ、確かにその通りではありますわ。こんな重要事項、手紙は検閲の恐れもありますし、こういった手段をとるしかないですの。これなら機密は最低限で守られるし、理にかなっていますわ」
後追いの思考となるけれど、私がテータに情報を流すという行為は密談に等しい。知りえるのは、テータ、その上司とベイクのみ。諜報員だもの、そこいらの口が堅いことは間違いないし。
偶然にお礼を言って、私は門の扉を開いた。
「そういうことなら、入って。バレンシアに会わせてあげる」
「え、家の中? 一緒に住んでるんですの?」
「そうよ。貴方には教えてあげる」
ピレネーには正直に言っても問題ない。ピレネーが私を告発したとしても、彼女の家の方が多大な被害を被るから。
お互いがお互いの弱みを握り合う関係は素敵ね。中途半端な仲間より、よっぽど仲間らしい。
ピレネーは我が家の敷地に入ってくる。私は門を閉めようとした、……ところで、ピレネーの背後に、他に人がいることに気が付いた。今迄壁の後ろに隠れていたのだろう、その子は金髪を日光に反射させて、ピレネーと同じように門をくぐろうとする。
「お邪魔します」
「ちょっと待ちなさい」
家の敷地を跨ぐ瞬間、私はその腕を掴んだ。
きょとんとした顔は、私がしたい顔だ。
「なんで貴方が入ってくるのよ」
「えっと、入るときに何か特別な作法でもあるの?」
「ええ、家主の了承が必要なのよ」
「……」
ミリアは首を傾げて、「入れて?」と少しだけ頬を持ち上げた。普段ほとんど表情を動かしていないからだろう、ぎこちない表情だった。それでも、ほとんど初めて見る彼女の感情。
反射的に、言葉が舌を転がっていった。
「いやだ」
「どうして?」
「貴方とはもう関わりたくないの」
「なんで?」
「……貴方が能天気だからよ」
私はカウルスタッグ家に、……捨てられたのだ。同じ原初を有しているミリアの存在が証拠。そんなカウルスタッグ家の一人娘が私と関わり合いを持てば、面倒くさいことになるのは目に見えている。
それに、ピレネーは身分が知られていないからまだいい。ミリアみたいな公爵令嬢がこんな下町に現れれば、その豪奢な見た目が、手入れのいき届いた髪が、好奇の視線に晒される。私はね。彼女関係の未知は知りたくないの。
「私は、貴方と関わり合いたい。もっと、貴方を知りたい」
私を見つめるミリアの眼は、心なしか輝いているように見えた。学院時代はいつ見たって湖の底の泥の様な色の眼をしていたのに、何かあったのかしら。
「私は知りたくないわ。さあ、お引き取りください」
「ピレネーはいいのに、なんで私はダメなの?」
「貴方はミリアで、ピレネーではないからよ」
「変わらないでしょう。同じ背丈だし、家が小さくても入れるよ。迷惑はかけないから」
「そういう問題じゃないの。貴方はもっと人付き合いを学んでよ」
「じゃあ、教えて。マリアが教えて」
ああ言えばこう言う状態。私をじっと見つめる視線は、簡単には折れそうにない。こんなにしつこい子だとは、知らなかった。
お互いに譲らない問答にため息をついたのは、ピレネー。
「マリア。駄目ですの? ミリアはここ最近、ずっとマリアの話ばかりしてるんですの。今回だって実はミリアが、将来的に国を治める公爵令嬢として下町を見たい、という体で学院を抜け出してますの」
「よく二人きりで来れたわね? そういえばリオンとクロウは?」
「勿論王国から派遣された護衛がいますわ。沢山ね。けれど、下町に入る前に途中で撒いたんですの。リオンは無暗に騒ぐだろうから、一緒に置いてきましたの。クロウには事情を話して子守をお願いしていますわ」
「……」
大問題じゃないの。久々に絶句した。
ミリアは公爵令嬢。それも、とんでもない箱入り。カウルスタッグ家の両親は彼女にすべての愛情を注いでいると聞いた。それが行方不明になれば、捜索網の範囲はとんでもなく大きくなる。事が明るみになれば、兵士総動員での捜索活動が見える。この家だって調査されるかも。そうなれば、色々と隠してきたことが明るみになってしまう。
私に何十人、何百人、何千人の口を閉じさせることはできるかしら。……多分、難しい。
やっぱりミリアは、私にとっての疫病神だ。
「じゃあ猶更早く帰りなさいよ。私だって暇じゃないの」
「なんで?」
「マリア。今回の護衛の隊長は保身が強い人間ですわ。まだ公にはしていないはず。それまでに戻ればいいんですの。ちょっとだけですから」
「そう言ったって……」
「それよりも、早く中に入れてくれた方が早い」
言い合いする私たちの間で、ミリアの眼が怪しく瞬いた。
「今、こうしている間にも、他の人に見られてる」
ここに居を構えてしばらく経つ。ご近所にも顔を覚えられて、子供たちともども認知され始めたころ。金持ちっぽい服装の二人と言いあっていたなんて、噂の種になって、大きな火種になりかねない。
「~~っ」
入れたくない。この子を、私の大切なものの中に混ぜたくない。
だって絶対に、良くないことになるもの。今までだってそうだったから。彼女が絡んで楽しかったことなんか一つもない。
あるいは、ここでミリアと遭った時点で、もうすでに悪手に片足を突っ込んでいるのかも。最悪。
「……わかったわよ」
「やった!」
楽しそうにその場で跳ねるミリア。さっきから何度も思っているけれど、こんな子だったかしら。
「ただし、変なことはしないこと」
「はい」
「ここで見たことは全部忘れること。さもなくば、公爵家もそうだし、ピレネーにも迷惑がかかるわよ」
「わかってる」
「用事が済んだら、さっさと帰ること。護衛の人には私たちのことは言わないように。上手く言いくるめるのよ。できる?」
「大丈夫」
「あと、」
「お姉ちゃん面がすごいですわ」
私はそんなピレネーの言葉に口を閉じた。
「……わかった。もういいから、入りなさいよ」
ミリアの腕を引っ張って。家の中に引き入れた。扉を閉じる。
思いっきりため息をついたのに、ミリアは「疲れてるの?」なんて聞いてくる始末。彼女はため息の意味すらわからないのかもしれなかった。
◇
「……げ」
そんな声は、イヴァンから。ちょうど子供たちに服の袖を引っ張られながら家の外に出てきたところだった。
「なんで彼女たちがいるの?」
視線は、ミリア、ピレネーを経由して、私へ。私だって頭を抱えているの。
「……私が聞きたいわ」
「イヴァン。お久しぶりですわ。相変わらずマリアとべったりですのね」
「おひさしぶり、イヴァンさん。お邪魔します」
ピレネーとミリアの挨拶を受けてなお、イヴァンは困惑していた。
「……どういった反応が正解?」
「無視でいいわ。イヴァンは普段通りしていて。彼女たちはバレンシアに用があるだけで、用が済み次第帰らせるから。バレンシアはどこにいるの?」
「裏で寝てると思うけど、大丈夫?」
イヴァンの懸念も尤も。この家には知られてはいけない秘密が多い。
「大丈夫よ。抱えている爆弾は私たちよりもあっちの方が大きいから。いざとなれば、私たちは押し付けてしまえばいい」
爆発したときの被害は、公爵家に軍配が上がる。失うものの大きさも同様。
それに、これ以上話しても疲れるだけだし、私は諦めたわ。
「マリアがそう言うなら……」
「イヴァン、この人だれ?」
イヴァンに纏わりついていた子供が聞いた。
ピレネーは同じ高さに目を合わせて笑った。
「お姉さんたちは、とある方に会いに来ただけですわ。邪魔しないから、安心してください」
「……」イヴァンの背に隠れてしまう。
「……まあ、いいですわ。私の目的はこの子たちではないので」
少しの傷心を引きずってピレネーの脚は前に向いた。イヴァンの指さした方向に歩いていく。
イヴァンと別れてピレネーについていくと、ミリアもついてくる。
「ねえ、マリア。さっきの子たちは?」
「親のいない子たちよ」
「知り合い? どうして一緒に住んでいるの?」
「孤児って言ったじゃない。帰る家がないから、一緒に住んでいるの」
「帰る家がないってどういうこと?」
「だから、親がいないの。頼れる人もいないの。そんな中、子供たちが一人で生きていけるわけがないでしょう。独り立ちするまで、私たちが面倒を見ているの」
どうしてわからないのかしら。きっと王宮で、寝ているだけで食事が運ばれてくる生活をしていたからだわ。むかつく。
「すごい」
ミリアの眼がまた輝く。きらきらと効果音が聞こえた。
「マリアたちが面倒を見ているの? みんなの生活を支えているの?」
「……できそうな仕事を振ったり、一緒にご飯を食べているだけよ」
「すごい! 私にはできない。やっぱりマリアはすごい。私ができないことを、いっぱいできるんだ」
その瞳には尊敬の色が混じる。最初は皮肉かとも思ったが、そうではないみたい。この子は本気で私をすごい存在と見なしている。
「すごいなあ。マリアってすごいな。私はマリアに比べれば、まだまだだ。もっと勉強しないと。もっと人を見ていかないと。やらなくちゃいけないことが、いっぱい」
「……うるさいわね」
決意を新たにするのは勝手だけど、それを見せられた私は苛々して、むずがゆい。この感情は、今まで味わったことのないものだった。
早く手放してしまいたいのに、なぜか勿体なさが残るような、めんどくさい感情。これだってきっと、またどうせ碌なことになならない激情になる。一旦それに名前をつけるのはやめて、私は歩みに集中した。
家の裏口。日指の影で、ちょうど日光が届かない涼しい場所。そこに、一人の少女が寝転がっている。大の字になって、惰眠を貪っていた。
怠惰にも程があるわね。後で言って聞かせないと。
「……お姉さま」
ただ、ピレネーはそんな姿を見て、私とは異なった感情を抱いたみたい。私から見える背中は、小刻みに震えていた。
「バレンシア。起きなさい。お客様よ」
「……あ? 客?」
バレンシアは目を擦って起き上がる。目の前にいるのが見慣れない人物だとわかると、その口の端を歪めた。
「ああ? なんだこいつは」
「あ、お、お姉さま。お久しぶりです。ぴ、ピレネーですわ」
「知ってるよ、くそ妹。何の用だよ」
感動の再開、とは少し違った。ピレネーは感極まっている様子なのに、バレンシアは気にしている風もない。めんどくさそうに欠伸を噛み殺す。
「誰かと思ったら、グレイストーン家から追い出された雑魚じゃねえか。なんだ、てめえが私を殺しに来た刺客なのか? で、なんでコレをマリアが案内してくんだよ。何が起きてんだ?」
バレンシアは困惑と共に私を睨みつけた。
「そういう約束をしていたの。色んなことに目をつぶる代わりに貴方に逢わせる、って」
「きひひ。勝手だな」
「この先に貴方好みの面白いことが待っているわよ。少しでいいから相手してあげて」
「そりゃあ楽しみだ。だけど相手するって、いいのか? 私の認識だと、私はこいつには一番見られちゃいけねえと思ってたんだが」
「問題ないわ。貴方が生きてること、それが知られると一番まずいことになるのは、私たちではないもの。むしろ公表でもしてみる? 一番慌てるのはどこだと思う?」
「ああ、そういうことか。おもしれえじゃん」
バレンシアは笑んだ。
そう、バレンシアは面白いことが大好き。面白いことっていうのは、他人が困ること。父親だって、元々の家族だって、彼女からすれば他人なのでしょう。
「で、それを踏まえて、てめえは私に何の用だ? 私が生きてることを知って、当主様にでもチクるのか?」
バレンシアは立ち上がってピレネーと相対した。二人が並ぶと、確かによく似ている。ピレネーは髪の色を茶色に染めているから印象が違うが、顔のパーツがそっくり。
「あ、いや、えっと」
しどろもどろになるピレネー。普段の堂々とし佇まいと全然違うじゃない。
「んだよ、はっきり言えよ」
「なんで、グレイストーン家を出たんですの?」
震える声は、恐れから。そして、好意から。相手に嫌われたくないという思いが、身体を普段通りにさせてくれない。
「はあ?」
「……お、お父様も、他の兄弟も、困っていますわ。戻ってきてくれませんの?」
「馬鹿か、てめえ。私は公式にはそのお父様に処理されてんだよ。戻る戻らないの話じゃねえ」
「それなら、私が説得しますの。最悪、私と同じように髪を染めて、見た目を少し変えて、どこかの護衛にでも潜り込んで」
「それじゃグレイストーン家に戻るって話じゃねえだろ。てめえ、もっとよく考えてものを言えよ」
バレンシアの圧。ピレネーは俯いてしまった。
確かにピレネーの言っていることは一貫していない。バレンシアは公爵家には戻れない。化け物と醜態を晒したのだ、それは間違いない。かといって他人のふりをして復帰させるのは、生存が明らかになる危険を孕んでまでやることかしら。
しばしの沈黙。
あともう少しでバレンシアがキレるだろう、数秒前で。
「……うう~~」
ぽろぽろと、大粒の涙が地面に落ちて跳ねた。
「え」という声は、私とミリアから。私はもちろん、ミリアにとってもピレネーの涙は意外だったみたい。
「い、いいじゃありませんの。どこだって、なんだって、いいじゃありませんの。なんでそんなに冷たいこと言うんですの」
「うぜえな。泣けばいいと思ってる餓鬼は嫌いなんだよ」
「私は、お姉さまが生きていてくれて、とっても嬉しかったのに!」
涙ながらの訴えは、半分逆切れだった。
「お父様とか、兄弟とか、グレイストーン家とか、全部どうでもよくて、私はお姉さまみたいになりたかったのに。お姉さまが目標だったのに、なんでもそうも簡単に私を裏切ってしまうんですの。どうでもいいなんて言うんですの!」
「……知らねえよ」
「いつもお姉さまは勝手ですわ。前だけを見て、私なんか見てもくれない。自由に不器用に、どんどんどこかに行ってしまう。私は追いつこうと頑張ってるんだから、雑魚は雑魚なりに必死なんだから、少しくらい、待ってよ。置いていかないでよ……」
悲痛な叫びは、嗚咽交じりに。ため込んでいたものがあふれ出たような言葉だった。
冷静に傍から聞けば、ただのわがまま。いくら姉妹だからといって、相手の行動を縛り付けることはできやしない。ピレネーがどんな思いを抱えているか知らないけれど、バレンシアの困惑の方が正しい。
でも。
人間の心の底から出た思いに絶縁を叩きつけるのは、私のやり方じゃない。ピレネーが本気なのは、十分にわかったから。
「バレンシア」小声で話しかける。
「抱きしめてあげなさい。それだけで済む話よ」
「なんでだよ」
「易しい言葉をかけてあげなさい。これで、ピレネーは思うがままよ」
ピレネーの想いに応えたい反面、打算もある。
ここでピレネーを懐柔すれば、グレイストーン家、ひいては公爵家へのラインができる。これからベイクが何をしようが、ピレネーをうまく使えばいずれも先んじることができる。
大好きなお姉ちゃんに抱きしめられてピレネーは幸せ、ピレネーを想うがままに操ることで私たちは幸せ。
世界は両者が得になる様にしないと、不公平。二人とも幸せなら、争いなんか起こらない、素敵な世界が待っている。
「……なるほどな。仕方がねえ」
バレンシアはため息を吐いて、ピレネーを抱きしめた。
「うぜえ妹だな。わかったから泣き止めよ。私が悪かったって」
ピレネーの腕もバレンシアの身体に回る。ぎゅっと。バレンシアは離そうとしているが、ピレネーは頑として離れようとはしなかった。
「……お姉さま。それじゃあ、一緒に帰りましょう。もう離しませんわ」
「なんでだよ。戻れるわけねえだろ。他のやつらに顔なんか会わせられるか。それに、私はここでやることがあんだよ」
「じゃあ私も学院を辞めてこっちに来ます。グレイストーン家も捨てますわ」
「はあ? 馬鹿か」
「お姉さまは知らないんですの。貴方が死んだと聞いた時の、私の気持ちを。二度と会えないと思っていた貴方に会えたこの喜びを。あんな思いをしないためなら、何だってしますの」
強い執着。ピレネーがここまでお姉さんのことが好きだったなんて、知らなかった。
どんな思いが、彼女をここまで駆り立てるのだろう。家族というものは、姉妹というものは、そこまで強い絆で結ばれているのだろうか。それとも、単純にピレネーはバレンシアのことを愛しているのだろうか。姉のいない私はわからない。
バレンシアは困った顔で私を見た。狼狽している様子は珍しい。けしかけたのも私だし、助け船を出してあげましょう。
「ピレネー。貴方にはやってほしいことがあるわ」
「……いいか、ピレネー。てめえに仕事を言い渡す」バレンシアは口角を歪めた。「偉大な当主様を、監視しろ。てめえの知りうる範囲で、情報をこっちに流せ」
「え……」
「そうすれば、ここに来てもいいぜ。情報を得るたびに、私に知らせに来い。グレイストーン家よりも私の方が大事だっていうのなら、できるよな?」
悪い顔。
でも、ピレネーの顔は明るくなった。
「わかりましたわ。そうすれば、ここにお姉さまに会いに来てもいいんですのね?」
「ああ、全力で抱きしめてやろう」
ピレネーの顔が恍惚に笑んだ。あの顔は、本気でバレンシアに惚れてるみたい。姉妹だというのに、家族以上の愛情を抱えていそう。実家を簡単に裏切るなんて言うくらいだもの、ざぞかしバレンシアが死んでとの報告はショックだったのだろう。その絶望が反転して、バレンシアに従順になった。
落ちれば、それだけ空は遠くなる。地の底で太陽に微笑まれれば、なんとしてでも近づきたくなる。
これも、学び。落として、上げる。どっちも嬉しい。
一件落着ね。
と思ったら、服の袖を引かれた。ミリアが感嘆の瞳を私に向けていた。
「どうしてピレネーが抱きしめてほしいって、わかったの?」
「見てればわかるでしょう」
「わからない。ピレネーがあんな風に泣くなんて、それも知らなかった」
「知らない、わからないじゃないでしょう。貴方はわかろうとしていないだけ」
人に興味がない。その瞳に他人は映らない。
「そうかもしれない。今まで私は、何も見ていなかった。でも、マリアが何を考えているかはわかった」
じいっと、私を見る目。金色の双眸。そこには私がはっきりと映っていた。
「皆に得ができるように、誰も損をしないように、皆が幸せになれるように、行動してるんだ。だからマリアの周りには人が集まって、皆楽しそうなんだ」
きらきらと瞬く金色。満面の笑みも、楽しそうな動作も、きっと可愛らしいのだろう。私にとっては、少し鬱陶しい。
「わかった。マリアは自分のしたいことと、他人のやりたいことがわかってるんだ。二つの意見が食い違わないように、どちらも生きるように、考えてる。そういう、良い眼と頭を持っている」
「……わかったような口を利かないで」
「ねえ、私の気持ちはわかる? 私も、幸せにしてくれる?」
そういって、ミリアは両腕を開いた。楽しそうな笑顔、腕の間の大きな隙間、誘うような目。
理性は言っている。バレンシアと同じだ。ここで彼女を抱きしめれば、彼女の評価は上がる。公爵令嬢を、デリカと同じように、私の手ごまにできる。抱きしめたほうがいい。私の夢に、また一歩近づける。
でも、本能はそれを否定した。いやだ、いやだ。私は、彼女がいやだ。
初めて他人に抱く、本物の拒絶。愛情の反対。
「わからないわね」
「……なんで?」
ミリアの眼に失望が落ちた。
なぜ。
なんで。
どうして。
そんなこと、とうにわかっている。
彼女が、私に一番近いからだ。そして、一番遠いから。血も体も一緒。でも、育ちも周りも違う。彼女を見るたび、こうなれていたかもしれない自分”を想起する。過去に存在していたかもしれない、明確にわかれた選択肢を懸想する。
どうしようもないのに、心がずたずたにされる。
今が幸せなはずなのに、後悔が這い寄ってくる。
何かできていれば、私は別の場所にいたんじゃないか。私の何かが原因で、私は抱きしめてもらえないんじゃないか。私という存在が、存在してはいけないんじゃないか。
すべてを持っている貴方と、何も持っていない私。
ああ、いやだ。
彼女との違いが、私をダメにする。
「それくらい、自分で考えて」
だから、私はミリアを抱きしめない。抱きしめられない。ピレネーに対するバレンシアのようには、してはいけない。
「マリア……。冷たい。私にだけ、冷たいよ。どうして? 私がいけないの? 私はマリアのことが、……好き、なのかもしれない。ずっと、貴方のことを考えてる。貴方にだけ、興味を持ってる。貴方だけは、ずっと見ていられるの。初めてなの、だから」
「……やめてよ。私は、応えられない」
「ねえ、マリア」
「……」
「……いえ、縺雁ァ峨■繧?s」
ミリアのその言葉に、私は咄嗟に叫んでいた。
「私は貴方の縺雁ァ峨■繧?sじゃない!!」
やめて、その顔で私に詰め寄るのはやめて。
恨みたくなんかない。私はここで、幸せに生きていくんだ。アースと共に、世界を良くするんだ。そこに、負の感情はいらない。過去は全部水に流して、今の楽しい自分で生きていたいんだ。
汚い過去は、足かせになるだけ。貴方の存在は、私の知りえない過去――私を捨てた両親を思い起こさせる。貴方と仲良くしたら、私は絶対に後悔する。十五年の人生を、楽しかったはずの人生を、泥の中のものだと勘違いしてしまう。貴方の綺麗な人生と見比べてしまう。
嫌なの。嫌なの。私は今、幸せなんだから。
「……ごめんなさい」
しゅんとしたミリア。
バレンシアが近寄ってきて、「なんだ、喧嘩か」なんて茶化してくる。
「もう、帰って。用は済んだでしょう」
私は二人を家の外に追い出した。寂しそうなミリアの眼だけが、脳内にこびり付いて離れてくれなかった。