5-2. 帰る家
それは久々の感覚だった。
仕立ての良い衣服に身を包み、王子の斜め後ろを静々と歩く私にとっての。
前に進むたびに色んな人とすれ違う。そのたびに彼らは王子を見て、グラン、私へと視線を移す。私を見る時間は、王子を見る時よりも随分と長い。驚き不思議がり、そして視線の色を変える。私に興味を惹かれているのだ。
劣情の大小はあれど、これは競売の時と同じだった。私を買おうと値踏みしていた人たちと同じような目つき。少し感心したのは、大多数が私の中の性ではなく人間性を推し量ろうとしていたところだろう。王子の配下に突然現れた少女、それが何かを判断しないと自分のところにも火種が飛んでくるかもしれないしね。気持ちはわかる。
どちらにしたってじろじろと不躾な視線だけれど。
王都、その中心に存在する王宮。そこは王国の根幹を担う場所だった。王国の未来を決める議会、王国を守護する騎士団と魔術師団、この世の善悪を判断する法務局、そして、王家に連なる人間の住居となっている。
そんな大事なところだから、当初私が足を踏み入れるのは一苦労だった。身ぐるみを剥がされて、身体検査をされた。私が私を知っていなかったら、そこで化け物だとバレてしまっていただろう。私の原初は姿を変える原初。今となっては、私の下半身の化け物だって、隠し通せてしまう。
いろいろと問題を起こしかけたけど、顔を覚えてもらった今では特に問題なく入れるの。一度入って顔を覚えてしまえば、もう私を咎める声はない。アースの後ろにいる存在、グランと同格だと認知された。
廊下を抜けて、アースの執務室までやってくる。
学院の教室ほどの部屋に執務机と応接椅子が置いてあり、十分に大きい。壁に飾られた絵や調度品は、この部屋の持ち主の格を如実に伝えてくる。たった一つ庶民なら一生遊んで暮らせると聞いた時は、いくつか盗もうかと画策すらした。秘密だし、やらないけど。
奥の机についたアースは、大きく息をついた。
「……想像以上だな」
その眼前ではグランも頷いていた。「ええ。本気ですね」
学院を卒業した王子には、二つの仕事があった。
一つ、王国の長の息子として、国の治世に関わること。担当業務をこなしたり、式典に顔を出したり、違法な行為を裁いたり、それらを行うための会議をしたり。
でも、それらはアースの悩みの種ではなかった。学院入学前だって彼は真面目に業務に取り組んでいたのだから、手馴れたものだった。
問題は二つ目の仕事。学院を卒業して急に降って沸いた面倒ごと。
「三人の王子の中で、王になる、か」
それが、次期国王を決めるというものだった。どうも王は三人の王子だけで決めてほしいと思っているらしく、基本的に不干渉を決め込んでいる。王子たちは自分で、または周りの力を使って、王座に身を乗せないといけない。
周りの力と言っても、様々ある。使うのは暴力か、同意か、倫理か。
三人のうち、末の妹、トリエラ。彼女が選んだのは暴力だった。
「トリエラ……あれは、あれで本当に王になりたいのか」
アースがため息をつく気持ちもわかる。
先ほどまで、騎士団、魔術師団の新規入団者の式典があった。騎士団にはロウファ、魔術師団にはアルコの姿が見えて、意外とすぐに再会できたことを喜んでいた私。そんな気持ちをぶち壊したのが、トリエラだった。
アースとトリエラが参加していた式典。新人の家族や既存の団員も集まった、そこそこ大きな催し。こともあろうにトリエラは、そんな場所でアースに向かって魔術を放ってきた。
一直線に飛んできた炎の魔術。任命式の最中で、全員の視線が新人に向いている時。小声で呟かれた呪文は、されど十分な殺傷性を秘めていた。
背後からの一撃で、当時のアースも気づいていなかったが、後ろに控えていた私が鎮火した。トリエラからの明確な殺気は、背中にびしびしと感じていた。
「ち」という醜悪な顔は忘れられない。金髪金眼、可愛らしい顔つきをした幼い彼女は、肉食獣が如き苛烈な視線を私に投げていた。
他の誰にも聞かれないような小さな声が、私の鼓膜を揺らした。
「あんた誰?」
「初めまして、トリエラ様。アース様の侍従のマリアと申します」
「どこの女?」
「名乗る姓はございません。生まれも育ちも下町でございます」
「はあ? 何それ。そんなやつがなんでここにいんの? こんな女を連れ歩くなんて、いよいよ兄も腐ったわね。前から覇気も何もない下らない男だと思ってたけど」
「わかりませんか? 近くにいるのがこんな女だから、アース様に価値が付くのです。私を知っている人からのアース様の評価は上々です。身分もないマリアだけど、才能はあった。アース様はそこを認めていて身分で人を選ばない、人の才覚を見てくださる人だ、と」
「あっそ。雑種の意見なんかどうでもいい。それよりも、邪魔しないで。私は王になりたいの」
「そうですか。頑張ってくださいね」
「なんで他人事なんだよ。どけっつってんだよ」
「私の仕事はアース様を王にすることです。それ以外は職務にございません」
「うざ。たかだかあれくらいの魔術を打ち消したくらいで調子に乗らないでよ。あんたを殺すなんて簡単なのよ」
「ふふ。それは楽しみですね。せいぜい頑張ってみてください」
「……殺せ。静かにな」
そこからはトリエラの背後にいた護衛二人から攻撃を受けながら、その式典を過ごしきった。途中から攻撃の対象がアースではなくて私になっていたのは少し面白かった。
今に話を戻しましょう。思い出し笑いをしている私に、アースは呆れた目をしている。
「あいつならやりかねん話だ。まさか無事に終わったと思った式典の間、そんなことをやっていたなんてな。ただ、おまえ、無暗に挑発するなよ。妹は短気なんだ」
「気をつけるわ。でも逆に、貴方は暢気すぎだけどね。殺意を向けられたのにそんな調子じゃあ、生き残れないわよ。もうすでに賽は投げられているんだから。優しさと易しさは全然違うの。貴方は、易しすぎる」
優しさは、相手を想ってのこと。
易しさは、自分を守ってのこと。
同じ読み方だけと、意味は全く違うの。アースは与えられた仕事はきちんとこなすけれど、満点しか取れない。与えられた問題、解答以上を求められる状況に来ているのよ。
「……そうだな」
「でも、安心して。私が貴方の傍にいる間は、何が起ころうと貴方は死なないわ。私が守ってあげる。その代わり、しっかり王になって、この世を良くしてくれないとね」
私は所詮、身分もない、”こんな女”。私が変えられるものは、せいぜいが手の届く範囲。
でも、アースは王子。私と違って、手が届く範囲だけではなく、声が届く範囲の人間を変えることができる。状況によっては強引にでも、世界に干渉できる。
その力を、皆のために振るってほしいの。
「わかった。俺は前だけを見る。おまえは俺を守れ」
「ええ。それが私の、貴方の、理想のためよ」
私たちが頷き合うその隣で、グランは渋面を作っていた。
「殿下。以前から何度もお聞きしてしまいますが、よろしいので?」
「何がだ」
「貴方が身の回りに置いている女、これは魔女ですよ。これに関わるなと、他ならぬ貴方が言っていたことではありませんか」
言い方には棘があった。アースがグランに何を吹き込んでいたかは知らないけど、碌なことじゃなさそう。
「状況が変わったんだ。俺はこいつと協力して実現したい夢ができた」
「協力って……。覚えていないのですか。この女の犯したことを」
「覚えているさ。だが、それを加味しても、俺は王になる。ならないといけない。今迄漠然としていた目標に色が付いたんだ。こいつの化け物みたいな能力と、巧みな話術は、俺が王になるために有益になる」
「先ほどトリエラ様と早速いざこざを起こしていましたが……。むしろトラブルメーカーになるかと」
「どうせ全員倒すんでしょう? だったらさっさと楔を打っていた方がいいわ」
胡乱な瞳のグランに私は手を広げて見せた。
「それにね、最初の印象なんかどうでもいいのよ。どうあれ、印象付けることが大事。さっきのやり取りで、トリエラの眼にはアースよりも挑発した私が映るようになったの。それはつまり、相手はまず私を攻撃してくるという事。アースは二つ目の目標に格下げになったわ」
そして私は壊れない。
圧倒的化け物で、彼女の前に立ちふさがる。
「私の評価は、貴方の評価。私の強さはアピールした。王宮で働くすべての人への笑顔も怠っていないし、暇があれば話もしているわ。当然、好感度も上々。アースの手には、強さと好感度の手札が集まった。王になる道は、着々と進んでいるわ」
「おまえはトリエラの護衛の攻撃も軽々あしらって見せた。戦力差も伝えて見せたわけだ。あっちはやきもきしているだろう。俺はどんなやつを雇ったんだと」
「勝ち方は貴方に任せるわ。文句を言わせない暴力でも、多数による好感度でも、ぐうの音も出ない正論でも。私はすべてを用意してあげる」
そう。
今まで生きてきたやり方が、すべて通用する。
私という化け物は、圧倒的に強くて、人の信頼を集めて、倫理の穴を突く。林間学校では心すら砕き割る圧倒的暴力を、バレンシアの暴力事件では生徒たちをまとめ上げる先導力を、魔術研究所の時にはクロードを倫理と理論の間で挟み込んだ。
生きていく間で、学んできたの。私は私の活かし方を。手に入れたの。目的に必要なあらゆる力を。
この王宮だって同じ。私はどんな手を使われても負けることはない。
「そうだな。考えておく。民に嫌悪されるようなやり方では駄目だからな」
「それほどまでに王になりたいと? 過去の貴方を否定してまでもですか」
「そうだ。俺には、目的ができた」
アースは神妙な面持ちで俯き、グランから目を逸らす。グランにはこの世界の真実は伝わっていない。だから、私とアースの持つ熱量とは、乖離があった。
だが、グランは真摯な目でアースを見つめていた。
「承知いたしました。差し出がましいことを言って申し訳ございません。貴方が王になりたいとおっしゃるのなら、私は全力でサポートいたします」
「ありがとう、グラン」
「そして、マリア嬢。貴方も、本気でアース様を王にすると誓ってくれるのですね? 他意はないと?」
「言ったでしょう。私とアースの目的は同じなの。他意も何もないわ」
「信用しますよ」
「ええ、信じてくれて構わないわ」
「わかりました。そうだとすれば、確かに心強い味方ですね。貴方は誰もが振り返る美人で、トリエラ様たちの魔術を簡単に返す力もある。私ではどうしようもできないことをやってのける力があります。共に殿下を王にしましょう」
差し出される手。私はそれを握り返した。大きくて固い手は少し震えていて緊張の色が見えた。私のことを信頼しきれてはいないらしい。
でも、私はそんな貴方を否定しない。
考えのすべてには、権利が存在する。
「ええ、共に頑張りましょう。でも貴方は私を疑ってくれていていいわ。私はアースを王にする剣。貴方はアースを守る盾でいてちょうだい。私だって守れない時や物はあるのだから」
「当然です。私は命に代えても殿下を守る」
強い意志のこもった瞳。
私たちはアースを王にするという目標に向けて、決意を新たにした。
◇
私には帰る家がある。本来なら二十四時間アースの近くにいて護衛しないといけないんだけれど、お願いしたら許してもらえた。アースだって馬鹿ではないし、このために後ろ盾をいくつか有している。彼を守る味方は私やグランだけではない。
だから私は解放された。大きく伸びをする。
お勤めを終えて、陽も傾いた一日の終わり。王宮から道を歩いていく。王宮周りは舗装されていて、歩きやすい真っすぐな道。途中から景観を排除して利便性だけを追い求めた凸凹道になって、最終的には土や石の転がったままの、砂利道に出る。
聞こえる喧騒も、上品なものから下品なものへと変わっていく。吐く息の匂いすら気にする世界から、唾を飛ばして笑うような世界へ。徒歩で世界ははっきりと変わっていく。
こうして周りを見て、知らなかったことを知っていく。王国というだけでも、たくさんの人がいて、たくさんの職業があって、たくさんの生活がある。私はまだまだ、井の中の蛙だった。
物思いにふけって歩いていると、目的地にたどり着いた。
周りを高い壁で覆われた、物々しい場所。以前は中の子供たちを外に出さないようにするための檻だった。今は、邪な思いを持つ大人から子供を守る、盾である。
壁の境目、木製の扉をたたくと、誰かが駆け寄ってくる音がした。
すぐに扉が開いて顔を見せたのは、アルマだった。
「おかえり、マリア!」
頭頂部についた耳をせわしなく動かしながら、私に抱き着いてくる。とっても上機嫌で頬ずりもおまけ。
「おかえり、アルマ。いい子にしてた?」
「当然よね。私、ここじゃお姉さんだから」
「お姉さんがこんな甘えんぼでいいの?」
「マリアはもっとお姉さんだからいいの」
にっこりと笑って、私の手を引いて歩き始めた。
「ちょうど夕食の時間よ。もうすぐマリアが帰ってくるって、皆で待ってたんだから」
「ありがとう。お腹空かせてごめんね」
「マリアと食べたいからいいの」
跳ねる様な大股歩きについていって、家の扉を開く。
そこには光が広がっていた。
入り口からすぐには広間がある。以前はそこで読み書きの勉強をしていた。今では居間になっていて、家族団らんの場所になっている。二十人余りの子供たちがはしゃぎまわっている光景。全員がとっても楽しそう。
私のことを見ると、「おかえり」と声をかけてくれる子供たち。嬉しい。私はここに帰ってきていいんだわ。
「おかえり、マリア」
浸っていると、エプロン姿のイヴァンが大皿に乗せた料理と共にやってきた。
銀色の髪に、朱いエプロンはよく似合っていた。
「ただいま。やっぱりその姿、似合うわね」
「……何、所帯じみてるって言いたいの?」
「お母さんみたい」
私は母を知らないし、もちろん想像上の話だけど。
アルマは頷いて、得意顔。
「イヴァンはね、私たちに色んな事を教えてくれるの。私たちのお母さんなのよ」
「うるさいよ。いいから運ぶの手伝いなさい」
「はーい」
台所に歩いていくアルマ。イヴァンは料理をテーブルの上に置くと、ため息をついた。
「マリアのせいだからね。こんな大勢の子供の相手しなくちゃいけないの。本当に孤児院時代を思い出すよ。本人は日中いないし」
「そう、恨みがましい目をしないでよ。イヴァンだって納得してくれたじゃない」
「マリアの夢だから応援するけど、そのせいでマリアと離れる時間が増えたのは聞いてない」
ふん、とそっぽを向くイヴァン。拗ねちゃって可愛い。
「ごめんなさい。後で埋め合わせするから。ね?」
「大分恨みつらみは溜まってるからね。シクロじゃないけど、離さないから」
顔を膨らませたまま、イヴァンは台所に戻っていった。
確かに、私の夢なのにイヴァンには少し無理をさせてしまっている。でも、ああ言いながら子供の面倒を見ることが好きなのも私は知ってる。
「マリアぁ、戻ったかぁ?」
と、裏口の方から素っ頓狂な声が上がった。振り向くと、顔を赤くしたバレンシアがにやにやしていた。
「……ただいま」
「きひひ。おかえりマリアちゃーん」
私に抱き着いてくるバレンシア。口からはアルコールの匂いがした。
「……上機嫌だと思ったら、また飲んでるの?」
「きっひひ。くそ親父たちが驕ってくれんだもーん」
「上機嫌なのはいいことだけど、子供たちに飲ませたり、暴力を振るわないでよ」
「しねえしねえ。それに私だってただ飲んできてるだけじゃねえよ。ここに住んでんならショバ代寄越せとうるせえやつらはきちんと締めてきたから安心しろ。今回の酒代は、ここらを仕切ってる雑魚を懲らしめた御礼だってさ」
「ならいいけど、バレンシアだって美人なんだから、変なことに巻き込まれないでね」
「なになに、心配してくれるの? マリアちゃんは可愛いなあ」
頬ずりまでされる。まったくもう、面倒な絡みね。
酔っぱらいは面倒くさいわ。楽しそうだからいいけど。
「ほら、ご飯だってよ。席に着きなさい。エリーとミラージュは?」
「ミラージュは地下だ。熱中してるみてえで、当分出てこねえな。エリクシアは外。もうすぐ帰って……ああ、噂をすれば」
戸口が開いて、エリクシアが顔を出した。私を見て、「マリア様。おかえりなさい」過去、侍女をしていただけあって、綺麗なお辞儀だった。
「すいません。ここ周辺にいる覚醒遺伝持ちとの話し合いが長引いてしまって。すぐに夕食の手伝いをします」
「どうだった?」
「ええ。概ね協力的です。この辺りは王国の法よりも個々の力が優先される場所ですから、有事には我々に協力してくれると」
「代わりに、私たちは彼らを守るのよね」
「はい。私たちの持つ戦力を伝えると、むしろ乗り気でしたね。バレンシアもここらの頭取を抑えたので、着実に我々の世界は広がっています」
思想を、力を、知らしめていく。
まずは小さいところ。誰も気にも留めないようなところから。そこから、私たちの理想の世界は広がっていくの。
「ありがとう、エリー。苦労をかけるわね」
「いえ。これは私の夢でもありますから。私の方が、マリア様の夢に便乗させてもらってるんです」
嬉しそうに微笑む彼女。
良かった。皆、楽しそう。この孤児院を買い取って暮らしていくのも私のわがままだったから、少し不安だったの。
エリクシアは笑顔で私に頷いて、しかし眉を寄せて鼻をつまんだ。私にしだれ掛かっているバレンシアを睨みつける。
「この匂い、バレンシアか。貴様臭いぞ」
「んだと。酒のどこがくせえんだよ」
「臭いだろうが。だからあれほど飲み過ぎるなと言ったんだ。強くないんだから」
「ああ? やんのか?」
「喧嘩しないの。ほら、ご飯だってば」
二人の手を引いて、広間に戻る。出来上がった夕食のテーブルを見て、あの子がいないことに気が付く。
「あ、シクロを呼ばないとね」
私は身を翻して二階に上っていった。
奥の部屋。昔三人で暮らしていた部屋。その扉を開くと、そこは真っ暗だった。真っ暗で、奥の奥。小さい塊が震えていた。
「シクロただいま。ご飯よ」
「……マリア?」
顔が上がって、眼がこちらに向いた。
次の瞬間、私の腕ははじけ飛んだ。べちゃ、と床に転がって、消えていく。
「あ、ごめん、ごめんなさい、マリア」
泣きそうな声は、いつものこと。私の身体なんて、すぐ元に戻るからどうでもいいのに。
「いいのよ。私は化け物。痛くないわ」
「ごめんなさいごめんなさい。私がもっとうまく力を扱えていれば……」
暗闇に目が慣れてくると、その部屋の惨状が良く見えた。机、椅子、ベッド、置かれていた備品がすべて粉々になってしまっている。壁にもいくつか何かがぶつかった跡があって、それでも部屋の形を保っていることが奇跡だった。
「元々自分の中にはなかった力だもの、しょうがないわ。それを治すための薬をミラージュが創っているんだし。何よりも、貴方が無事でよかった」
「ごめんなさい。もっと皆みたいにマリアの夢の手伝いをしないといけないのに、手伝いたいのに、こんな体たらくで」
「ゆっくり慣らしていけばいいわ」
私の血を飲んで、最近ようやく元に戻ってきたシクロ。少し前までうめき声しか出なかったけれど、ようやく人の形を取り戻してきた。
でも、力は安定しなくて、少しの感情の変化で目の前の人間を殺してしまう。私やイヴァン、エリクシア、バレンシアなら治るからいいけれど、他の場所でやったら大変。
「本当は、マリアと一緒に卒業したかったんです。一緒についていきたかったんです。でも、今の私は全員を殺してしまう」
シクロは暗い顔で項垂れてしまう。
私は近づいていって彼女を抱きしめた。その際にいくつかの部位が弾けたけど、些末事。
「ほら、シクロ。私の血を飲んで。もっと私に近づいて。身も心も、私だけになって。私は無敵。私は傷つかない。だから私の血を飲めば、貴方は自分を制御できるわ」
私は指を噛みちぎって、先端をシクロの口にもっていった。私の指をくわえ、ちゅうちゅうと音を立てて血を飲み込んでいくシクロ。可愛い。
ごくごくと喉が上下するたびに、シクロの眼に光が宿っていく。私が、宿っていく。
「ああ、そうでした。私の中には、マリアがいるんでした。私は、マリアなんでした。だったら、大丈夫ですね!」
さっきまでの弱気はどこへやら、眼を輝かせて立ち上がるシクロ。
私の原初が濃くなれば大丈夫だと確信している目だった。
実際、私の血の量が不安定だとシクロの心も不安定になってしまうのだろう。まだ上手く力の原初と私の原初との均衡点が測れていないみたい。もしくは、病は気から。ブラシーボ効果も手伝ってるのかもしれないけれど。
どちらにせよ、シクロは私。私がいないとどうすることもできない。私がいれば、なんでもすることができる。
歩いていくシクロを後ろから抱きしめた。
「大丈夫よ、シクロ。私がついているからね」
「何を言ってるんですか。不安なんてありませんよ。私はマリアの家族ですからね」