4-21. 心の中の化け物
◆
クロード・ザスティンにとって、人生とは苦痛だった。
才能と幸せは結び付かない。
幼少期より魔術が扱えた彼は、近所の子供との喧嘩で負けたことはなかった。大人すら相手にならない才能を持ちつつも、魔術を横暴に使ったことはない。真面目な母親からはその力は弱きものを守るために使うものだと教えられ、その通りにした。正義の味方に目を輝かせた時期もあった。結果、いじめっ子もいじめられっ子も離れていき、周りから遠巻きにされた。
その時点でクロードは人を嫌いになった。
しかし、母親からの教えを守り抜き、弱きものを助ける信念は曲げなかった。
ある時は相手が悪かった。住んでいる地区の主の娘が相手だった。家庭の事情で新しい衣服を着られない貧困な一人の少女が、少女の集団に暴行を受けていた。
割り込んで助けると、集団からは勿論、助けた少女からもやめてくれと言われた。挙句の果てには、母親までもが下らない正義感を振りかざすなと注意してくる始末。
自分の力は弱きを掬うに能わず。
人は自分よりも上の人間が嫌いで、
女性は自分を取り巻く環境だけが大事で。
何のための力かもわからない。何をすればいいかもわからない。
そんな世の中に辟易していた時に出会ったのが、ミドル・ライゼフという男だった。
当時魔術師団のエースだった彼は、ふさぎ込んでいたクロードを完膚なきまでにぼこぼこにした。最後には俺も同じだったと笑って手を差し出してくれた。
その暖かい手が、好きだった。
「魔術研究所が燃えたんですって」
朝、クロードが学院にやってくると、そんな話が職員の間で行き交っていた。
「建物が丸焦げで、資料も燃えてしまって、復旧は不可能に近いそうよ」
「昨夜研究所に残っていた所長、副所長は行方不明ですって。大丈夫かしら」
「他に残っていた職員は、怪しい人物が入ってくるのを見たって。金髪金眼の女性だったらしいわ」
「そのほかにも、偉丈夫が入ってきていて、殴られたんですって。そっちの方は見つかって、今は取り調べの最中だって」
「その男性が犯人でしょう?」
「どうも証言者の言っていることも信ぴょう性に欠けていて、断定はできないそうよ」
「怖いわね……」
「この件について、クロード先生は何か知っていますか?」
向けられた質問に対して、クロードは迷いなく首を横に振った。笑顔を作る。
「いえ、知りません」
「そうよね。魔術師団の案件ではないですし、クロード先生は今は先生ですのものね。あれ。でも、マリアさんが魔術研究所に職場見学に行っていなかったかしら?」
「ええ。ですが、彼女たちが魔術研究所に行ったのは昼間で、夕方には帰宅を確認しています。関係ないでしょう。むしろ、事が起こった時にその場にいなくてよかったです」
「そうですね。あのマリアさんが関与しているわけもないし。タイミングが悪ければ巻き込まれていたかも。本当に無事でよかったわ。すでに確認が終わってるなんて、流石クロード先生ね。生徒思いですわ」
「私ももう、先生になってから大分経ちましたからね」
女性職員に笑顔を返して、クロードは席を立った。
「朝の授業の前に、一服してきます」
職員室を出て、廊下を歩く。勝手口から校庭に出て、空を仰いだ。懐から巻きたばこを取り出して、魔術で火を点ける。揺蕩う紫電はゆらゆらと立ち上って、青い空をくすんだ色に変えていく。
まっさらな空。青く澄んだ空。クロードには、そう見えた。
「おはようございます」
目線を下に降ろすと、金髪金眼の少女がそこにいた。少し下から、上目がちな視線を投げている。
「おはよう」
「そっけないですね。もう少し絡んでくださいよ」
「……なんだ、さっさと教室に行けよ」
「そう、無下にしないでくださいな。今や私たちは同じものを愛する同士じゃないですか」
「何を言ってる」
「嘘、欺瞞。私たちは、それらの愛好家。または、共犯者」
その少女は謳うように口ずさんで、クロードの隣に立った。
同じ方向、同じ空を眺める。
「ありがとうございます」
「……何のことだ?」
「何のことでしょうね。ただ、御礼を言いたい気分でした」
「貴様がやったのか?」
「何のことでしょう」
小首を傾げる少女は楽しそうだった。うふふ、だなんて、貴族の令嬢そのものの気品に満ちた笑みを浮かべる。見る者によっては、これは絶世の美少女。まさかこの女が魔術研究所を燃やしただなんて、思いもしないだろう。
だが、クロードは知っている。この女の恐ろしさを。
「……だから女は嫌いなんだ」
「ふふ。それは良かった」
クロードは頭を抱えた。
この女は、普通ではない。普通、異性を嫌う人間なんて、迫害されて当然なのに。普通は可愛らしい女性が近くに来れば、嬉しくなってしまって当然なのに。この女は、こともなげに、隣にいる。
相手は自分の恩師をぼこぼこにした。自分の大切な人を傷者にした。でも、隣にいて違和感がない。その事実に、言いようのない感情が巻き起こる。
「貴様は……」
「なんですか?」
「ち。なんでもない」
丸い金色の眼は、吸い込まれそうになるくらいに澄んでいた。
紫煙を吐いて、話題を変える
「その機嫌だと、シクロは大丈夫だったみたいだな」
「いいえ。駄目よ。シクロは、壊れてしまったわ」
クロードが慌てて振り向くと、金色の眼は茶目っ気たっぷりに笑んでいた。
「……嘘かよ。ふざけんな」
「いいえ、本当よ。彼女は、実験の犠牲になってしまった。力の原初の血を入れられて、その副作用で何度も死んで、生死を何度もさまよって、頭がおかしくなってしまったの。私の原初の力でなんとか身体は戻ったけど、脳は元には戻っていない。ショックが大きすぎたのよ」
重くのしかかるその言葉。
クロードは息を飲んで、なんとか頬を持ち上げた。
「冗談にしちゃ、笑えないな。揶揄うなよ。……貴様、それが真実だとしたら、どうしてそんな風に笑えるんだ?」
金色は、輝いていた。
綺麗に磨かれた、琥珀のように。
「――わかってるくせに」
にやり。
そんな音がするくらい歪に、口が歪んだ。
「シクロはね、朦朧する意識の中でも、私のことははっきりとわかるの。私の事だけを覚えていて、私の事だけを愛してくれて、私だけを見てくれるの。そう、シクロの中は、私でいっぱいになったの」
ぞっとするくらい綺麗で、
見とれるほどに気味が悪い。
「シクロは私だけのもの。私がいないと生きられない。私以外、どうでもよくなった。私だってシクロがいないと生きられないんだもの、等価交換よね。前々からシクロはそう言ってくれたけど、名実ともにそういう状態になってくれたの。なってしまったの。それが、狂おしいくらいに嬉しい」
空を仰ぐ、美しい少女。
その眼は本人が言うように喜色に満ちていて、けれど同時に薄暗い色を孕んでいた。
どうしてそんな彼女の感情の機微に気づけたといえば――
「貴方も同じでしょう?」
のぞき込んだ瞳、金色がクロードを瞳に映す。
すべてを見透かすような瞳は、恐怖と安心を引き起こす。
「……何を言ってる。僕が貴様みたいな化け物と同じなわけないだろう」
「本当は、嬉しかったんじゃないの?」
ぐしゃり、ぐしゃり、と不明瞭な音。
心に土足が踏み込んでくる音。
「ミドル先生が、ぼろぼろになってしまって」
クロードは眉をしかめて、少女の胸倉を掴んだ。
「何を言ってもいいわけじゃないんだ。口を慎めよ。僕があの人にどれだけ世話になったと思ってる。どれだけ助けられたと思ってる。貴様のように思うのは、貴様だけだ」
「だから、世話をしてあげたいんでしょう? 助けてあげたいんでしょう?」
みしり。
それは、クロードを支えていた倫理感が上げた悲鳴だった。
「大切な人が傷つくのは嫌よね。わかるわ。でも、傷ついてぼろぼろになって、自分だけを頼りにしてくれる状態になったとき、貴方はどう思った?」
みし、みし。
ぴき、ぴき。
「身体も心も傷ついて、ぼうっとしてしまった愛しい人。でも、私が声をかけると、満面の笑みになるの。私だけが、あの子をこれから幸せにできるの。私だけが、あの子の人生の一番になれるの」
ぐらぐら。
ふらり。
「あはははは。最低、最低ね。愛しい人には幸せになってほしい。でも、結果的に愛しい人が傷つくのは、私の幸せなの。アイって何? 私はわからない。だから理性ではなく感情で語るしかできないの。私は、正直に言って、シクロが私色になったことが、とっても嬉しい。死にそうなくらいに、幸せ、とんでもない、化け物ね」
ぐしゃり。
砕けた。
「だから私は貴方を否定しない。”同じように”化け物な、貴方をね」
クロードは眼前が真っ暗になった。
ミドルがやられたという話を聞いた時、その時は間違いなく怒りと悲しみが胸の内を支配していた。それは間違いない。どんな化け物が相手だろうと仇をとると、本気で誓っていた。
でも。
実際にベッドで横になる彼を見た時。
――僕は。
思い出す。考え直す。
クロードは、笑っていた。
過去、いつだって忙しそうにしていた彼。お互いの立場から中々会うことができなかった関係。
でも、病室に行けば、必ず彼に会うことができた。時間は問わず、関係性も問われず、文句もなく、大手を振って彼に会いに行けた。
別に彼と体を重ねたいわけではなかった。この好意に性的な匂いはない。ただ、一緒にいたかった。隣にいたかった。会話をしたかった。そんな時間は、簡単に作れるようになった。
お見舞いに行くたびに、困ったように笑う彼を見て、とても嬉しくなった。イーリス女学院に赴任することを伝え、仇を討つと告げた時に自分が心配されたことが、心地よかった。
「……僕は」
「否定してはダメ」
金色は眼前を覆い尽くす。真っ暗だった世界が、金色に変わる。
「貴方は確かに非人道的な発想をしているわ。でも、私も同じよ。そして、そういう人はもっといっぱいいるんだと思うわ。好きな人に私だけを見ていてほしい。そう思う事の、何がいけないの? 貴方は罪悪感を覚えて当然だと思っている。でも、それは誰が言ったの?」
少女の声は心地よく、心を蝕んでいく。
「貴方を攻め立てる、それは常識。くだらない固定観念。いいの。貴方は自分の思いを大切にしていいの。人間社会の常識なんて、意味をなさない。だって貴方は今、それのせいで不幸せになってるじゃない。捨て去って、自分に素直になりましょう」
「……」
すぐには応えることのできないクロードに、彼女は笑顔を残す。
「大丈夫よ。ゆっくり受け入れてあげればいいわ。貴方の中の化け物を、大切にしてあげて。ありのままの貴方を、愛してあげて」
少女は金色の髪を翻して、その場から去っていった。