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1-7. 将来の形






















 私の耳は、その音を捉えた。


 コンコン、と小さな力で扉を叩く音。孤児院の裏口の扉からだ。

 私は目を覚まして身体を起こし、隣で本を読んでいたイヴァンの身体を揺らした。


「誰か来たわ」

「へ?」


 イヴァンは口をへの字に曲げたが、私がその手を引っ張ってベッドから降りると、何も言わずについてきてくれた。

 同じベッド上、私の腹部に両手を回していたシクロも、半ば引きずられるようにして一緒に行く。


 孤児院の一か所に、鍵の壊れた窓があることは知っている。そこから三人で、月が照らす真夜中の庭に出た。

 夜風は私の頬を優しく撫でた。冷ややかで穏やかで、しかし、そこには鉄の匂いが混じっていた。


「……」


 イヴァンはしかめ面で鼻をつまんでいた。


「……マリア。戻ろう」

「どうして? 確かに聞こえたのよ」

「違う。マリアの言っていることが真実だから言ってるの」


 私の耳が良いように、イヴァンが鼻が利く。そんな彼女の顔が警鐘を鳴らしていた。

 シクロは夢うつつのまま、「ひょうれすよ。へましょう」と呂律の回っていない舌で言っている。


 確かに、外の世界では何が起こるかわからないらしいし、イヴァンの言う事も一理ある。

 だけど、私の好奇心は抑えられない。

 だから私は少し遠いところから、裏口に向けて声をかけた。


「貴方は誰? どうして扉をたたくの? もしかして、泥棒なの? 人さらいなの?」

「ちょっと」


 イヴァンが私の口を塞いだ。

 気になるのだから、しょうがない。

 このままじゃあ眠れないよ。


 返事は、すぐには返ってこなかった。しかし、私の耳は何者かが息を飲む音を聞いた。


「……マリア?」


 そしてその声は、過去に聞いた声だった。

 少し前、この孤児院を出ていった少女のもの。


「アンナさん」


 ほっとする。邪な思いを抱えた他人ではないらしい。

 裏口に近づいていって、扉の鍵に手をかけた。


「マリア。やめよう。嫌な予感がする……」


 イヴァンが珍しくも怯えた声を出していた。脳が覚醒したらしいシクロも、「血の匂いがする」と眉根を寄せていた。


「でも、アンナさんが来たのよ。シクロは知らないだろうけど、イヴァンはよく知ってるでしょう? 聞き間違いじゃないわ。もしかしたら孤児院に帰ってきたのかもしれない」

「それはない。それはないんだよ、マリア。だって、アンナさんは、売られたんだもの」


 引き取り手が見つかったアンナ。

 少し不安そうだった顔。大切にしてもらえるかと悩んでいた。

 残念だけど大切にしてもらえなくて、悲しんで帰ってきたのかもしれない。


「どういう理由でも、戻ってきたのなら、歓迎してあげないと。ここは、そういう場所でしょう? 特別な子たちの、家なのよ」

「違う、違うの、マリア……」


 イヴァンは必死だった。目に涙を浮かべて、私の腕を掴んでいる。しがみついている。


「ここはそういう場所じゃないの。私たちは、”人”じゃないの。ここを出たら、私たちは人ではなくなるの」


 よく、わからなかった。

 私は人ではないのかもしれない。いまだ何物かわかっていないのだから。

 けれど、少なくとも、アンナは人だった。何かができて、何かができない、人だった。


 イヴァンだって、シクロだって、人だ。他人とは違うかもしれない。けれど、二本足で立って、両腕を駆使して色んなことをして、互いに共有する言語を話す。

 人間以外でなんだというの。


 ただ、イヴァンは真剣だった。冗談の気配は一切ない。

 そして、イヴァンが言う事は、少なくとも私よりは正しい。


「……”特別”って、そういうことなんだよ。私たちは、”人としては売られない”。ここは家なんかじゃなくって、小屋なんだよ」


 イヴァンが私に抱き着いてきた。その体は震えていた。イヴァンがこんな風に怖がるなんて、私は知らなかった。

 私はイヴァンのことも、わかっていない。

 イヴァンに押され、私の背が扉に当たった。鍵は解かれていたから、扉はゆっくりと開いていく。


「……そうですよね」


 私の背後に広がっている光景を見て、シクロの口元が歪んだ。


「私は、知っていました。ここは、そういう場所だと。だから、私はここにいるんです。こんな私でも、”売れる”んでしょう。奇抜な見た目だから、欲しがる人はいるんでしょう。そして、将来、きっと”こうなる”んです」


 シクロの性格は、最近明るくなっていた。私とイヴァンと一緒にいることで光を宿していった瞳。それがかつてのように濁っていく、汚れていく。


 濃い。

 それは。血の匂い。この孤児院で嗅ぐことはない匂い。

 私は、振り返った。


「……ああ、まりあ」


 そこにいたのは、人ではなかった。

 少なくとも、二本足で立ち、両腕で人を抱きしめ、笑顔を作ることのできる生物ではなかった。


 真っ赤な、ナニカ。


 肘から先のない両腕は強大な力でもがれたかのように杜撰な断面図を曝け出し、右足は鋭利な切断面から大量の赤を垂れ流していた。残った左足も全体に赤色が露出していて、肌と呼べるものが存在していなかった。


「……」


 確かにこれでは、人とは呼べない。

 私の知る人ではない。


 顔の部分は腫れ上がり、ところどころ血塗られていた。殴打と切断が繰り返され、元々何と呼ばれていたのかもわからない。


 ただ、空いた穴からこぼれ出る声は、どうしようもなくアンナだった。

 優しく照れながら微笑んでくれた、少女だった。


「……まりあ。よかった」

「……どうして?」


 どうしてそんなこと言うのどうしてそんな姿になってしまったのどうしてここに戻ってきたのどうしてどうしてこの孤児院を出たのどうしてそんなことをできる人がいるのどうして私はアンナを認識したのどうしてこれが人だと言えたのどうして孤児院はアンナを売ったのどうしてアンナを引き取ったのどうして幸せになれなかったの。


 重なって積んで重くなって。

 私は、よくわからないまま、笑った。


「あなたに、さいごにあえて、よかった……」


 蚊の鳴くような小さな声。

 それは動かなくなった。呼吸音も無くなった。


「……」


 私は、とりあえず笑った。

 アンナが褒めてくれたから。私の笑顔が素敵だと言ってくれたから。

 私と会えてよかったなんて言ってくれたから。

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