4-5
たった一の影響で、環境はがらりと変わるものだ。
湖の中に投げ入れられた一石。ぽちゃんと水しぶきを上げるそれは、普通に考えれば湖に影響を及ぼすとは誰も思わない。
けれど、その石の材質によっては汚れが染み出し、大きさによってはぶつかった魚が死に、形によっては甲殻類に突き刺さって殺してしまい、その環境に大きな影響を及ぼすだろう。そしてそれは予測できないために、投げ入れないと結果は出てこない。
学院の中に入ってきたたった一人、ミリア・カウルスタッグ。
その一人は学院に大きな波紋を生み出した。彼女のせいで、私が二年をかけて積み重ねてきた幸せな学院生活にヒビが入りかけている。
「ま、マリア。今日はその、機嫌はどう?」
遠慮がちにデリカが近寄ってくる。
いつもは遠慮なしに抱き着いてくるのに、上目遣いでご機嫌を窺うようにやってくる。
「機嫌? もちろん問題ないわよ」
「良かった。……その、この前はすごい圧があったから」
その言葉を聞いて、深く反省した。
ミリアの顔を初めて見た後しばらく、どうも私は我を失って、全方位に敵意と殺気を振りまいていたようなのだ。Cクラスの他の子にも同じように、同じようなことを言われた。
やってしまった。
私の知らない私が、こんな私だとは思っていなかったのだ。
予想外。いつもは嬉しいそれが、今回ばかりはひどく煩わしい。
積み重ねてきた好感度を一気に減らした気がしてひどく気分が悪い。
落ち着けるように、息を吐く。
未知に振り回されたこと、それ自体は仕方がないことでしょう。
問題は、それによって私のイメージに少しの揺らぎがあったことだ。
庶民なのに可愛くて強くて優しくて余裕のある美人。誰にでも分け隔てなく接して、弱気を助け悪を退ける英雄、それが私の姿。だから全員、貴賤の差なくありのままの私を受け入れてくれたのだと言うのに。
たった一日で、がらがらと音を立てて崩れてしまった。
マリアの本性って短気? なんて声も聞こえるくらい。
マリアとカウルスタッグ家には深い確執があってそれに触れてはいけないだの、林間学校の時もバレンシアの時も公爵家関係の力が働いたのではないかだの、挙句の果てにマリアはカウルスタッグ家の密偵で学院を監視しているのではないかという噂まで立つ始末。
よくよく考えてくれれば、いずれも矛盾を生み出す下らない噂なのに。
全員がそういった虚実に振り回されてしまっている。
私と言う存在が、積み重ねてきた私が、揺れ始めている。
皆、私をまっすぐに見てくれない。過去の出来事も、私の英雄譚も、すべてに裏があったのではないかと疑われている。
確かに私がミリアに過剰反応したのもいけなかった。知らぬ存ぜぬでいつもの笑顔の私でいれば、こんなに沸き立つこともなかったのに。ミリアに向けた溢れ出る感情が、周りに伝播してしまったのだ。
私が考え込んでいると、デリカは慌てたように手を振った。
「で、でも、大丈夫。誰だって不機嫌なときはあるわ。そういう時は、ぱあっと発散しましょう。外出許可をもらって遊びにでも行く?」
デリカはいつものように私の腕に抱き着いてくる。
けれど、少し不安げだった。抱き着く力が弱い。
眼は語る。
『マリアは、マリアよね』と。
みんなの知っているマリアで間違いないよね、って。
言葉にしないけれど、皆、私を疑っている。私の中のマリアを疑っている。
うるさい。
うるさいうるさいうるさい。
私だってわかっていないマリアを、他人である貴方たちにどう証明しろというのか。
私だってこうなることはある、そういった単純な話のはずなのに、私は有名になりすぎた。優秀だと思われ過ぎた。私の始まりなんて、箸にも棒にも掛からぬ何にもない泣き虫な女の子なのに。
「ごめんね、デリカ。少し考えたいことがあるの。出かけるのはまた今度でいい?」
手を優しく解くと、デリカは捨てられた子犬のような顔になってしまう。
心が痛い。デリカをこんな顔にさせてしまう自分が悲しく、好き勝手に言い連ねる周りに腹が立つ。
私が時間をかけて幸せを築いてきた学院を汚して、
苦労して綺麗な液体を注いできたコップにヒビを入れた。
そんな、ミリア・カウルスタッグに腹が立って仕方がない。
「ほら、マリア。また顔が怒ってる」
デリカと別れた後、つん、と頬を突かれて、私は視線を横に投げた。
イヴァンが従来の眠そうな顔で、私の頬に指をさしている。
「……怒ってない」
「怒ってるよ。少なくとも、皆はそう思ってる」
「笑ってるでしょうが」
「そうじゃなくて、雰囲気と言うか、オーラというか。ほら、いつもは周りのみんなが笑顔で挨拶してくれるのに、今はどこか怯えてるでしょ。怒ってるマリアも、私は好きだけどね」
廊下の先を見ると、同級生下級生問わず、私からそそくさと目を逸らすところだった。少し前まで皆、抱き着くような勢いで挨拶してきたのに。
これではまるで、バレンシアへの反応のようだ。
叫びだしたくなる。
私はそうじゃないのに。
わかってよ!
今まで私を見てきたでしょう。理解してくれてたでしょう。
それがたった一度間違えただけで、こうも手を翻すものなの?
私は満点をずっと、ずうううっと生み出していかないといけないの?
絶叫を抑えて、唇をかみしめる。歯は簡単に唇を突き破って、廊下に赤を垂らしていく。
「マリア。大丈夫ですか?」
シクロが慌ててハンカチを取り出して口に当ててくれた。心配そうな顔。いつも通りの顔。
少なくとも、シクロは私をきちんと見てくれている。呆れたように、されど寄り添うように私と手を繋いでくれるイヴァンも同様。
結局、一番煩わしい反応をしているのは、私と接点の薄い外野。簡単に振り回されるのは私の責任。
私は大きくため息をついた。
「……そうね。反省するわ。頭に血が上ってるみたい。二人ともごめんなさい」
「落ち着いて。少なくとも、私とシクロはマリアのことを知ってる。今出てる下らない噂が全部噂だってわかってて、今までのマリアをしっかり見てるから。わかってるから」
イヴァンの言葉に、少し心が軽くなった。
「そうよね。イヴァンとシクロは私のことを知ってくれているもんね。ずっと、ずっと、見てくれてたもんね。マリアのことを、知ってるよね」
ずっと、一緒だったから。何があっても、私が何であっても、変わらないでいてくれる。
良かった。
安心して、ついつい聞いてしまう。
「マリアって、どんなだっけ?」
私は素直に聞いたつもりだった。揺らされて、ぶれてしまった、いつもの姿を実直に聞いたつもりだった。
が、イヴァンからは驚いた顔が返ってきた。
「え?」
「え」
イヴァンの驚いた顔に、私も驚いてしまう。
二人、見つめ合ってから、一拍置いて、「あ。ああ」とイヴァンは口を開く。
「いつものマリアは、笑顔で、綺麗で、そうだね、優しい雰囲気があったよ」
「こんな感じ?」
私はにっこりと微笑んだ。
慈しむ様に、貴方のことが好きよって伝えるように。
イヴァンが頷く前に、
「そうですよ。それがいつものマリアです」
シクロが私の腕の中に入ってきて満面の笑み。
「良かった。しばらくは気をつけないとね」
周りが変わっても、彼女たちは変わらない。それがとっても安心した。
◆
気分が優れないと言って一人で寮に帰っていったマリアを見送って、イヴァンは息をついた。
気分は重い。とっても。
「で、用事ってなんですか? 私はマリアと一緒に帰りたかったんですケド」
二人きりの教室内、目の前には不機嫌を隠さないシクロ。
――マリアもこれくらいわかりやすかったらなあ、と嘆息。沈みかけのぼんやりとした陽は、イヴァンの心情そのものだった。
「わかるでしょ、マリアのことだよ」
「マリアは今日も綺麗でしたね。年々可愛さより美しさが勝ってきて、とっても女性っぽくなって、でも逞しいところもあって、毎日好きになっちゃいます。マリアと一緒に生きていけること、歳をとっていけること、それが幸せで、私のすべてです」
恍惚とした表情。
シクロは徹頭徹尾、マリアの信者だ。
「そうだね。でも、最近不機嫌なんだよね。綺麗な笑顔が霞んじゃってる」
「それもマリアの魅力です。むしろ邪魔なやつらが逃げていって、いい気味です。少しマリアの微笑みが霞んだくらいで足踏みするなんて、マリアに好意を向ける資格もありません」
怒れる白黒。
その牙はイヴァンにも向いた。
「イヴァン。貴方まさか、そんなくだらないことで私を呼び止めたんですか? 貴方もマリアの微笑みが陰ったことが気に食わないって? だとしたら、一生の軽蔑ですよ。マリアがどうなろうとも、私は彼女への愛を惜しまないでしょう。マリアの表面しか見ていない外野と、ずっと一緒だった貴方が一緒だとは思いたくないですよ」
シクロの良いところは一直線なところ。
シクロの悪いところは、短慮なところ。
イヴァンは呆れをしっかり表に出してため息を吐いた。
「心配しなくていいよ。私はマリアがその綺麗な見た目を失っても、私は愛し続けるから。マリアのことを愛しているのは自分だけだと思わないで」
「そうでしょう。少し安心しました。では何用です?」
「マリアがマリアを見失ってる」
イヴァンは自分で口に出して怖くなった。
自分を見失うとはどういうことだろう。記憶を失えば、確かにそれは自分を失うという事。けれどいつも通りに笑えていて、自分がわからなくなるということは一体……。自分を明確に定義できていないマリアだから起こることなのだろうか。
わからないことは多いけれど、わかっていることもある。不安定なマリアは、いつもの笑顔すら忘れかけている。
「何を言ってるんですか?」
「私も断定はできないけど、少しマリアが変わってきてる。いや、変わることはいいことだし、マリア自身もそれを望んでる。わかってるんだけど、今は……」
正直に言うと、怖い。
それはマリアの能力にも起因する。
バレンシアの一件の時にマリアが見せた力。それは常識外と言ってよかった。イヴァンはマリアがただの人間ではないことをその時は喜んで、そのことにマリア自身も喜んでいたけれど。
誰にでもなれる。瞳に映した誰をも真似する。
じゃあ、マリアって、何? どれ?
そして恐怖の本質は、
「マリアが変わっていったとき、私はマリアだと気づけるの?」
吐き気がした。
もし、もし。
マリアがマリアでなくなったら。姿を変えて、性格を変えて、思考を変えて、嗜好を変えたら。
それはマリアなのか。自分は以前と同じように抱き着けるのか。いや、抱き着けると断言できる。だが、それがマリアだと気づけない可能性もある。
「イヴァンは心配性ですね。マリアはマリアですよ」
「そうだよ。でも……、」
不安は晴れない。
この不安を晴らすためには、マリアをより良く知らないといけない。
幼いころから一緒だからすべて知っているというのは怠慢だ。マリアには、マリアすら知らないマリアがいる。
マリア以上にマリアを知ることが、必要だ。
「ミリアに会いに行こう」
イヴァンは毅然と言い放つ。
シクロは眉を上げて、渋面を作った。
「マリアに相談もなく? マリアは少なくとも、ミリアに好意を抱いていませんよ。関わりたくないというのが本音では?」
「知ってる。だからこれは、マリアには内緒」
シクロは口をへの字に曲げた。
「なんですかそれ。私はパスします。そんなことしてマリアが悲しくなったら嫌ですし。今私たちがすべきことは、寮に戻って一緒に晩御飯を食べることでしょう」
シクロはイヴァンに背を向けて歩き出した。
その背中に、イヴァンは声をかける。
「私はマリアとずっと一緒にいたい」
「知ってますよ。私もです」
「でも、いられなくなるかもしれない」
「一体全体なんですか、さっきから。ストレートに言ってくださいよ」
イヴァンは一度口を閉じて、ミリアの顔を思い出した。
マリアと全く同じ顔。不明だったマリアの出自。一緒に孤児院で過ごした日々。
これから起こりうる、イヴァンにとって最悪なこと、それは、”隠れていた事実”が明らかになること。
「マリアとミリアはそっくりでしょ。噂じゃなくて、それは明らかな事実なの。だから――もし、マリアが本当にカウルスタッグの家の子で、手違いで孤児院に来ていたとしたら? カウルスタッグ家がマリアを歓迎してしまったら? 公爵令嬢として私たちと道を違えてしまったら?」
シクロの肩が跳ねて、振り返る。
「マリアが公爵令嬢。ありえなくは、ないでしょうね。あの孤児院には貴族落ちの少女もいましたし、あそこはそういった訳アリを売買する場所でしたから。……でも、そうだとしても、マリアは私たちを見捨てません」
「マリアが見捨てなくても、公爵家が、王家が認めないよ。マリアが貴族だとしても、私たちは変わらない。覚醒遺伝持ちの人間、化け物なんだから」
「バレンシアと同じでしょう」
「バレンシアは公式上は死んでる。世間から抹消されたんだよ。マリアが助けなかったら実際に死んでた。公爵家の人間だって、次期党首とされていたって、王家は異分子を許さない」
「……、それでも、マリアならなんとかしてくれます」
「でももう、私たちに、今みたいな笑顔は向けてくれないよ」
「~~もうっ! なんですか! じゃあどうすればいいんですか!」
シクロはその場で地団駄を踏んだ。
「だから? このまま黙ってマリアが私たちのところからいなくなるのを看過しろって? 貴方はそう言うんですか? 耄碌しましたね、イヴァン。そうなったら私は王家だろうが全員殺してやりますよ。マリアと一緒にいることだけが私の正義ですからね」
「先回りしようよ」
鼻息荒いシクロの前で、イヴァンは口の端を歪めた。
どんな事実でも、聞こえなければ事実ではない。話さなければ虚構も同じ。聞いた言葉だけが、事実になる。
イヴァンはマリアの隣で、それを学んだ。どんなに歪んでいようが、外側が綺麗であれば、都合が良ければ、人は安心してそれを事実として認める。
嘘は生きて、真実になる。
「先回り?」
「そう。マリアすら知りえないマリアの情報を、先に集めるの。マリアはきっとまだミリアとは向き合えない。だから、真実は誰も知りえない。私たちが先回りして真実を得て、マリアに伝えればいい」
「……私たちの口から伝えたところで、結局変わらないんじゃ?」
「違うよ。そのまま伝えるなんてことはしない。例えば、実際にマリアがカウルスタッグ家の人間で、捜索願が出されてれば、マリアにその情報がいかないよう塞いでしまえばいい。または婉曲して伝えればいい。逆にマリアがカウルスタッグ家から放逐されていれば、それはそのまま伝えて、溝を深めてしまえばいい」
真実を得た者だけが、それを脚色し、調理し、滅茶苦茶にする権利を持つ。
イヴァンの居場所は、マリアの隣。一番マリアを見てきたのは、イヴァンであった。
「金の果実が実ってたら腐らせて、汚い果実が転がっていればそれを渡すの。マリアがカウルスタッグ家を憎む様に仕向ければいいんだよ」
「なるほど。どちらにせよ、カウルスタッグ家に戻らないようにすればいいんですね?」
「そうだよ。マリアの眼が私たちだけに向くようにするの。私たちが、私たちだけが家族なんだから、他はいらないでしょ」
イヴァンは笑った。
本心から、心の底から。
「マリアには幸せになってほしい。”私の隣で”。私はマリアを幸せにする。”私が”するの。他の人間が今更しゃしゃり出てくるなんて、そんなの許されないよ」
奥底から、笑うことができた。
唯一。イヴァンにとってマリアは唯一なのだ。
他の子が好意を寄せてくるのは許せる。
お互いに身体を寄せ合うのも許せる。
快感を与え合うのも許せる。
敵対していた化け物が仲間になるのも、夜中に嬌声を響かせるのも、色んな子を好きになっちゃうのも、全部ぜんぶ許せる。
ただ。
イヴァンは。
他はいらないと言って、捨ててもいいから。
一個だけ、ほしかった。
――私から離れちゃうのだけはだめ。
マリアの隣は自分の場所だという自負がある。誰よりも一緒にいて、誰よりも笑いあって、気持ちよくなった自信がある。
だから、例えマリアが本当の家族と一緒にいた方が幸せかもしれなくても、それを望んでいたとしても、それを捻じ曲げる。
もうすでに家族がいるんだから。愛する人がいるんだから。これ以上を望むのは、贅沢でしょう。
「”私が”、絶対に、間違いなく、どんな手を使っても、幸せにしてあげるんだから。下らない話に振り回されてほしくないの」
マリアが困惑しているのは、きっと自分の正体が見えてしまったから。色んな人の色んな感情が透けて見えてしまったから。意外とあの子は弱いから、そういうところで震えてしまう。
いいのに。
それが真実でも嘘でも、どうでもいいのに。
私が隣にいれば、他はどうでもいいはずなのに。
イヴァンは吸血鬼。マリアの血をもらった吸血鬼。マリアと同じ血を持つ、吸血鬼。
そしてシクロも、大きく頷いていた。
「やっぱり私、イヴァンの事、大好きです。もちろん、マリアとの間は天地ほどありますが、マリア以外で考えれば、圧倒的に大好き。そういう発想ができる頭のいいイヴァンが、本当に好き」
「私はここまで言わないと伝わらないシクロは、そこまで好きじゃないけど」
「なんでですか!」
イヴァンとシクロは笑いあって、同じ方向を見つめた。
「でも、言えばわかってくれるところは好きだよ」
「何年の付き合いだと思ってるんですか。貴方と私の根底の考えが一緒なのは自明でしょう。もう、貴方がいない時の方が思い出せません」
陽が落ちて、夕焼けに染まる教室内。
真っ赤に染まった日常の中で、少女たちは嗤いあう。
「状況によっては」
「よっては?」
「何人かの口を、永久に封じる必要があるかもね。例えばいきなり、マリア姉さんがいるの! なんて不届きな言葉が出た時とか」
「送る先は、土の中か、水の中か、森の中か。エリクシアとバレンシアにも協力してもらいましょう。あの二人だってわかってくれます。でも、ふふ。相手は公爵家ですよ」
「それくらいの覚悟があるってこと。王家を殺しても、私はマリアが欲しい」
「私もです。マリアが王国を、世界を敵にしても、私はついていきますよ」