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傾国令嬢 アイのカタチを教えて  作者: 紫藤朋己
二章 学生二年目
57/142

3-16














 ◆



 デリカ・アッシュベインは目の前の状況に少し引いていた。


 バレンシア・グレイストーンの凶行。それは当然許されるものではない。全校生徒を不安に陥れ、学院の存在意義すら揺るがすような行動。彼女が何を考えて行動を起こしたのかはわからないが、思い返すと幼少より頭のねじの外れた人間だったので、デリカは考えるだけ無駄だと割り切った。


 そんな彼女を止めるために、騎士号を発令した。もしも両親に知られたら誹りを受けるかもしれないが、自分が個人的に出した仮初のものであるし、自分以外にできることではなかったので、後悔は微塵もなかった。デリカに求められているのは、とにかく平和。同級生でも国民でもある少女たちを守ることなのだから。

 そうして結成した白百合騎士団。マリアを長にした対バレンシアの対抗部隊。目下、その任務はバレンシアに与する上級生たちを鎮圧し、黒幕であるバレンシアを止めることだった。


 ”だった”。

 すべては過去。


 バレンシアを除いた上級生たちは、数分もしないうちに鎮圧されきっていた。今現在、地に組み伏せられ、あるいは気絶させられ、身動きが取れない状態になっている。


 バレンシアの部下は当然優秀だ。幼いころより英才教育を施されて、頭も体もどこに出しても恥ずかしくない傑物たち。そのため、そんな少女たちとぶつかることで、ある程度の流血は覚悟した。どうあろうとも責任はとる、そんな決して軽くない覚悟と共にここに立っていたというのに。もっと苦戦すると思ったのに。

 現実はあっさりとデリカの葛藤を打ち破った。


「……えっと」


 デリカは視線を周りに向けた。自分の近くにいる四人の少女たちは、同じようにぽかんとしていた。彼女たちだって決死を覚悟していたはずなのに、肩透かしを食らった形。


「どういうこと?」


 バレンシアの私兵が手加減をした? 本気を出せない理由があった?

 いや、デリカが見た限り、そんな様子は見られない。

 お互いが全力を尽くし合った結果が、そのまま表れているだけ。


「じゃあ私はマリアのところに行ってくるから」


 イヴァンは普段の調子で声をかけてきた。その顔には上級生の優秀な人間を無傷で制圧した自信も驕りもなかった。簡単な問題を解いたような、なんでもない感じ。


「えっと、終わったの?」

「見ればわかるでしょ」


 イヴァンは呆れたように校庭を見渡した。

 今、白百合騎士団として参戦した少女たちは勝鬨を上げている。校舎の方でも歓声が上がっていることから、傍目にもデリカたちが勝ったことは間違いない。組み伏せられている上級生たちが拘束から逃げようと暴れていることからも、これは単純な勝負に勝ったという証左だろう。


 デリカはこの数分にあったことを思い返す。

 あれよあれよという間に攻撃を受けて転がっていく相手だけは覚えているが、それ以外はよく見えなかった。


「見えなかったわよ」

「それくらい圧倒的な差だったってこと。勝負にもならないよ」

「貴方たち、その、強いのね」

「ああ、あんたは初めて見るんだっけ?」


 イヴァンは一瞬だけ恍惚の表情を浮かべた。


「Cクラスは林間学校の時から成長したからね。全部、マリアが指示したんだよ。多分マリアはこうなることがわかっていた。どこかで林間学校の時の様な戦いがあると予想していた。だから自分たちの騎士団を作り上げたんだ」


 特にアネット、エイフル、アルコ。林間学校で辛酸を舐めた三人は普通の人間では相手にできないほどの成長を遂げている。上級生だろうが、優秀だろうが、生まれたのが一年早いくらいの人間に苦戦するはずもない。


「マリアはこの戦いと、この結果を予想していたの?」

「それは違うと思うよ」

「え?」

「マリアは、”どうなっても良かった”んだよ、きっと。自分にとって楽しそうだから皆の特訓に付き合った。楽しそうだから騎士団の結成を促した。どれもこれも、楽しそうだからやっただけ。多分、このまま負けていても、マリアにとっても楽しいことだしね」


 デリカは首を傾げながらも、納得する気持ちもあった。

 マリアから微笑みが剥がれる瞬間が想像できなかったのだ。いつだって楽しそうに幸せそうに嬉しそうに微笑んでいるマリア。天使と形容するにふさわしい。

 それはきっと、全部が楽しいから。

 虫が飛ぶのも、雲が流れるのも、人が争うのも、等しく同じで楽しいだけなのだ。


「この戦いに勝てば、自分の騎士団の名誉が上がるし全校生徒が喜んでくれるから楽しい。負けてしまえばマリア自身が彼女たちをぼこぼこにして騎士団を助けて皆が喜ぶから楽しい。全部、マリアの楽しむ通り。つまりマリアは、物事を自分の好きなように操るのではなくて、物事のすべてを楽しめるだけなんだよ」


 自分のおもちゃ箱を披露するように笑うイヴァン。

 デリカはその楽しそうな顔を見て、呼応するように笑う。


「それは、最強ね」


 何が起きてもいいだなんて、最高の楽しみではないか。


 デリカはこの戦いで負けたくなかった。負けてしまえばバレンシアの圧政が続いていくし、発端となった自分は拷問されていたかもしれない。周りからも勝手に動いてくれるなと誹りを受ける。勝ち以外に楽しむ方法は見つけていない。

 それなのに、マリアは負けてもいいと思っていたなんて。


 デリカは首のチョーカーを指でなぞって首を振った。もっと”ご主人様”のことを知らないといけないと思った。


「マリアはどうしてそんな風に思えるの? 普通は負けたくないし、失いたくないでしょう」

「マリアには、何もないから」


 ぼそっと呟いたイヴァン。

 デリカははっとした。


「家も、家族も、素性も、何もなかったから。そう、マリアには生まれた時に何も持っていなかった。立場による責任もないし、血筋による苦しみも悲しみも最初からなかった。だから、何もないことが怖くて、与えられるものすべてが嬉しいと言ってたんだ」


 生まれた時から孤独。孤独じゃない時間の方がわからない。

 それは先ほどの考えとは真逆で、決して楽しいものとは思えなかった。


「でも、今は違うじゃない?」


 マリアの境遇を考えると、心が寒くなった。デリカはいつも笑っているマリアの心情を推し量って、唇を噛む。


「今は、皆がいる。同級生がいて、友達がいて、親友の私だっている。同じ孤児院出身の貴方たちだって家族みたいなものじゃない。マリアの近くには皆がいるわ」

「そうだね。だから私たちはマリアに色々上げないといけないんだ」


 空っぽの瓶に注ぐように。溢れるくらいになみなみと。

 その中身が真っ黒であろうと、淀んでいようと、入っていることを喜ぶのがマリアだから。


「さて、私はマリアのところに行ってくるよ。大丈夫だと思うけどね」

「わかったわ。私も」

「いや、デリカはここで騎士団を統制しておいて。私とシクロで行ってくるから」

「……まあ、わかったわ」


 デリカは不承不承な顔を崩すことなく、頷いた。



 ◆



 自分には剣の才能がない。

 幼少の頃から薄々と思っていて、されど認めたくなかった事実。自分が根底から崩れて行きそうな気がしたので放っていた議題。

 剣を振れば振るほど自分の立ち位置がわかってしまって、自分より上の存在に気が付いてしまって、壁の高さが如実に理解できて――。でも、それを認めてしまったら今までの自分が自分ではなくなることもわかっていた。


 深い深いジレンマ。

 だから、不安に蓋をして剣を振った。 


 そして思想もなく目標もなく闇雲に剣を振っていたら、その剣は砕かれてしまった。ほかならぬ同級生の手によって。

 最初はどうしてそんなことをするんだと恨んだりしたこともあったが、今ようやく、その意味を知った。


 剣は振るうだけが価値ではないと。


「我々の勝利だ!」


 ロウファ・カインベルトが剣を空に掲げると、勝鬨の声が上がった。一緒に戦った戦友から、校舎から見ている観客から。

 剣は敵に向けて振るうものだとばかり思っていたが、違う。剣は味方を鼓舞するのにも、一つの指針にも活用できる。

 ロウファは自分の剣に意味を見つけた。


 バレンシアの護衛たちとの戦闘は、あっという間に終了した。

 ほとんどはCクラスの面々が動いていたが、Bクラスの少女たちもよく戦ったように思える。正義を掲げた悪との戦い、この瞬間ばかりは普段のおっとりした様子も排して自信を顔に漲らせ、一騎当千の兵士であった。

 周りはロウファが正しいと思っている。自信とともに剣を向けていると確信している。ロウファが剣を差し向ければ、敵は悪になる。少なくとも、自分たちが正義で相手が悪だと思い込むことができる。


 ――そう、私の剣は正義の剣。味方に正義を与える剣。


 思うと、ぞくぞくと言い様のない震えが体を襲う。自分の剣は人を斬れない鈍重な剣。まるで飾り物のよう。けれど、飾り物は見た目が綺麗なゆえに、他人に勇気を与えて、敵を斬らせることができるのだ。


 意味のなかった剣に意味が付く。

 この使い方がむしろ、騎士団の団長の才覚ではないか。


 自分の剣一つで数百の兵士に剣を振らせることができる。絶対の悪に対して正義を翳すことができる。それこそが自分の生きる道。いや、なすべきこと。

 きっとマリアはそのことを教えてくれたのだ。早々に剣をへし折ったのは、兵士ではなく将としての才覚を目覚めさせるため。


「何が彼女に追いついてみせる、だ」


 自嘲。

 けれど負の感情はなかった。清々しい気持ちが胸を占めている。

 結局自分はマリアに踊らされただけ。結論として自分の生きる道を教えてもらった。燻っているのではなく、輝いている道を。


「勝てるわけがないな」


 青空に笑って、ロウファは歩みを進めていった。

 目の前では、シクロが服についた汚れを落としている。


「シクロ君」


 声をかけると、つまらなそうにこちらを向いた。マリアに向ける視線との落差に、思わず笑ってしまう。


「何ですか?」

「いい動きだった。君がいたおかげで問題なく敵を排除することができた。確かに君は強い。以前の私はおこがましかっただろう。謝りたくてね」

「別にいいですよ」


 興味なさそうに森の方に顔を向けた。


「まあ、そう邪険にしないでくれよ。私はわかったんだ。君と戦ってマリアと戦って、剣を折られたその意味を。私に兵士としての道を諦めさせてくれたんだろう? 私の剣は斬るものではなく掲げるものだと教えてくれたんだろう?」

「はあ?」


 シクロはほとほと呆れたような顔。


「んなわけないでしょうが。私からすれば、貴方の剣は見るに堪えなかっただけですよ。それ以上もそれ以下もありません」

「あれ、そうかい? でも、マリアの方は違うと思うけれど」

「マリアは……考えているかもしれませんけど」


 マリアの話になると、シクロの顔が綻んだ。わかりやすいな、とロウファは眉尻を下げて笑った。


「何と言ってもマリアはすごいですから。なんでも可能にしてしまう天才です。この私はマリアがおねしょをしてた頃から、そのすごさを見てるんですからね」

「すごいすごい」

「完璧なマリアです。貴方のことも見越していた可能性も、当然あります。誇ってもいいんじゃないでしょうか」

「そうだね。そこは僕の誇りになる」


 いざとなれば、マリアのために指揮をしようと、そう思えた。


「でも、完璧なマリアでも一個だけ可愛いところがあります。それは寂しがりやなところ。寂しいとすぐに抱き着いてくるから、そこがとっても可愛いんです」


 うっとりするように言って、すぐに顔を引き締めた。


「だから私は一刻も早くマリアのところに行ってあげないと。バレンシアを倒して一人寂しがっているマリアを抱きしめに行かないと。貴方と話している暇はないんですよ」

「ごめんよ。ただ、君には謝罪とお礼を言っておきたかったんだ」

「マリアに言ってあげてください。あ、いや、私が代わりに伝えておきます。貴方はマリアに近づかないで結構」


 言って、そそくさと森の方に歩き出してしまった。途中でイヴァンが合流して、二人で森に向かっていく。

 その背中を見つめた後、ロウファは剣を振り上げた。


「さあ皆。まだ戦いは終わっていない。バレンシアの配下を拘束したまま連れていくぞ」



 ◆



 エイフル・テルガーデンは自分の強さに酔いしれた。


 右手と左足。林間学校の時の戦いで機能不全になってしまった自分の四肢。そこには今、義手と義足がはまっている。

 魔術の応用で自在に操れるこれは、しかし才能と努力が必要だった。魔術に精通したアルコでも微細な操作が必要になるし、腕っぷしの強いアネットでも重いと感じるくらいの重量。


 使いこなすのに半年かかった。

 でも、半年でここまでこれた。


 エイフルをここまで動かしたのは、悔しさであった。悪いことをしているはずの相手が笑っていて、正しいことをしている自分たちが虐げられる状況が、世界が、たまらなく嫌だった。それを排斥するためならば、血反吐を吐いても構わないと思っている。

 そしてその思いはようやく現実となった。


 過去の自分より圧倒的に強い敵。覚醒遺伝持ちの人間とまでは言わないけれど、体がよく動いていた目の前の少女。それに負けずに手足は動いてくれた。義手は普通の腕より硬くて攻撃も防御も可能になるし、義足は瞬発的な動きに対応できる。


「マリアに感謝だな」


 リハビリに付き合ってくれたこと、傍で応援の声をかけ続けてくれたこと。

 そして今、正義をくれたこと。


「ああ、私は今、正義だ。絶対で圧倒的な、正しいことをしている。そして、正しいことが実現できている!」


 眼前の少女を見下ろす。痣を作り、疲労に塗れ、立ち上がりもできない、自分に負けた相手。

 この少女たち、そしてバレンシアは、学校を恐怖の底に陥れた。教員すら外部すら手出しができないようなことを平気で行った。悪化すれば、死者だって出ていたかもしれない。


 それは絶対的悪。

 逃れようのない邪悪。

 懲らしめなければならない。


 これが悪だと全員に明確に定義してくれたのはマリアだ。

 自分が許せない悪。この世から消し去りたい悪を定義し、自分たちを正義に仕立て上げた。

 世界が正しい形になっている――それはなんて素敵なことか。


「誓うよ、マリア」


 エイフルの声を、誰も聞いていない。

 でも、それでよかった。


「私は君を絶対の正義だと確信する。これより私の生涯、君を邪魔するあらゆるを悪だとして成敗すると、今ここで誓おう。君の目的の妨げになるすべてを正義の名の下に殺し尽くそう。君だけが、唯一で絶対の正義たりうるのだから。君は安心して正義を執行してくれ」


 陶然と、口の端で笑う。

 そんな陶酔に浸ったまま、エイフルは蹲る少女を蹴り飛ばした。


「さあ、悪よ。懺悔の時間だ。なぜに貴様は悪に染まった? 正義の代行者たるこの私が聞くだけ聞いてやろう」


 がたがたと震える少女。

 エイフルは最初、自分に怯えているのだと思った。圧倒的力の差を教えてあげて、傷をつけてあげたのだ。怯えるのは当然。


 が、違う事に気が付く。


「ごめんなさいバレンシア様、役立たずでごめんなさい。どうか、どうかご慈悲を……」


 少女はここにはいない自分の主人に怯え切っている。


「何を自分の主人にそこまで怯えている。貴様とバレンシアは同じ枠組みで括られる悪だというのに。それに、そんなに心配しなくてもいいさ。貴様の主は、今頃マリアが断罪している」


 エイフルは林間学校の時を思い出す。

 あのときだって、マリアは圧倒的強さを持った覚醒遺伝持ちの人間を圧倒していた。万が一すらあり得ない力がマリアには存在する。暴力での解決ならば、間違いなくマリアは負けない。お嬢様ごときに後れを取る人間ではない。


「貴方は知らないんだ」


 少女の眼がエイフルを射抜く。エイフルの方が強いはずなのに、その目はいやに暗く座っていた。


「心の底から震える恐怖を。死すら生ぬるい地獄を。あれの近くに置かれたことがこの世の最たる地獄であることを知らない。だからそんな風に脳天気に笑える。知らないことのなんて幸せなことか。バレンシア・グレイストーン。あれは人間じゃない。人間じゃないから、――人をあんなに無残に扱える」

「人間じゃない? はっ、まさか悪魔か何かとでもいうつもりか?」


 エイフルは鼻で笑った。

 この世にそんなものはいない。

 覚醒遺伝持ちと戦った自分。腕を足をもがれたあの時に比べれば、彼女の言っていることはおままごとだろうと思った。


「そうよ」


 されど、少女はなおも返す。


「バレンシア・グレイストーンは人の皮を被った悪魔よ。力も、考えも、全てがおかしい。あれは、人を殺すことに何の罪悪感も抱かない。人を切り刻むのに、何の感情も持ち合わせない。

 誰もいないところに連れていかれて、貴方の大切なマリアちゃんは、今頃百ものパーツに分解されているでしょうね。今のうちに生きていた彼女の顔をよく思い出しておくといいわ。もうこの先、肉塊となった彼女しか見ることはできないから」


 

 ◆



 ぞっとした。

 眼下の光景はエリクシアの今迄を破壊するに十分だった。


 樹上、エリクシアは森の中でマリアとバレンシアの戦いを見つめていた。

 二人の動きは、ようやく目で追える程度。瞬きをした後には次のシーンに移り変わっている。あの中に自分が入って何かができる気がしなかった。


 ――なるほど。


 ただ、焦燥感に襲われる胸中、納得できることもあった。


 ――マリア様は、そういうことか。


 今までマリアの正体は朧気でしか掴めていなかった。恐らくこうだろう程度の認識。

 だが、バレンシアの姿と動きを見て、憶測は確信に変わった。


 ――そこまで”上”の話だったのか。


 バレンシア・グレイストーンの生家、グレイストーン家。そして、同じような公爵家。王家の傍系。それらに共通する、金髪金眼。王家と公爵家のみが婚約を繰り返し、種を未来に受け継がせて、存続していく王家。

 憶測であれ、マリアに言わなくてよかったと改めて思った。

 どうあれ、マリアはそのことを知らなかったがゆえに今まで生きてこれたのだろう。


 バレンシアの身体が変わっていく。

 体中に獣らしい金色の毛を纏わせ、頑強な皮膚と筋肉を有するその姿を、エリクシアは見たことがない。けれど、祖母から聞いたことがある。


 ――裏切者の、金獅子。


 祖母の口から怨嗟と共に吐かれたその言葉。エリクシアの中で、様々な予想と憶測が正しい形になってぴったりと重なった。

 人間の世の中になって今なお存在する、化け物。


 だとすれば、エリクシアがすることはただ一つ。マリアを連れてここから一刻も早く離脱すること。エリクシアの考えていることが確かなら、マリアはバレンシアには勝てない。擬態を剥ぐことを覚えなければ、惨殺されるだけ。


 翼を広げて機を窺う、が。


 一瞬だった。

 瞬きの隙間。


 エリクシアの脳が動く一コンマの内に、マリアの腹部が吹き飛ばされていた。


「あ」


 豆腐を裂くようにバレンシアの拳が貫通して、皮膚が飛散し、臓器が後方に吹き飛んで行って、真っ赤な血が緑を汚す。


 エリクシアが茫然としたのと同じタイミングでマリアも動き出した。

 ふらりと揺れて、膝をつく。口を動かそうとしているが、血が溢れるだけ。茫然とした顔は、いつも笑顔の彼女らしくない。


 エリクシアは逡巡した。

 ここからマリアを連れて逃げるか。逃げて回復術師のところに連れていくか。いや、あの怪我はそのレベルのものじゃない。即死してもおかしくない。それに、今のバレンシアから自分が逃げられるのか。ここから降下してマリアを抱きかかえて飛び去るまで、一秒はかかる。

 一秒。バレンシアの力をもってすれば、何回他人を殺せる時間なのだろうか。


 ここまで、エリクシアが想像していた最悪だった。最悪な予想が現実になった。顔は真っ青になっているだろうし、自分だってここから無傷で逃げ切れるかどうか。


 でも。

 予想外が一つ。

 エリクシアの予想を裏切った存在が一個。

 エリクシアだって知らなかった者が一つ。


 彼女は、

 死んだはずの彼女は、

 いつものように

   キレイに

    笑って、起き上がっていた。


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