3-8.
どこまで人は限界を超えられるのだろう。
もうだめだ、の先はどこにあるのだろう。
私はまだ、それを知らない。そして、知らないことは知っていく必要がある。人より知識を持っているという事は、圧倒的な武力と並ぶ強さになる。
ある日、廊下で生徒たちが集まっていた。何かと思って人混みをのぞき込めば、一人の少女が蹲って泣いていた。
それはデリカの取り巻き四人のうちの一人。
彼女は人目も気にせず頭を抱えて、ぶるぶると震えながら、ぶつぶつとしきりに何かをつぶやきながら、ただ、そこにいた。
教員が立たせようとしても、他の生徒が声をかけても、反応がない。世界が隔絶されたかのように、何も届いていなかった。
「デリカ様早くでてきてください私が悪かったです私が少なからず貴方のことを馬鹿にしていたからお飾りの令嬢だなんて思ってたから無理して二年も早く入ってきたお馬鹿だなんて愚痴ってたからそのことに対するバツのつもりなんですよね流石デリカ様は頭がいい頭がいいから優秀だから私が馬鹿で阿呆だから早く出てきてくださいお願いします何でもしますからとにかく顔を見せてください」
焦点の合わない目から感じたのは、狂気。
羅列された言葉は意味があるようで、意味がない。謝っているつもりだろうが、目の前にその相手がいない謝罪なんて、ポーズでしかない。
「……手紙が届いたんだって」
その子を取り巻く生徒たち。ざわめきが広がっている中で、私の耳はその言葉を聞いた。
「親から、デリカ様の近況について知らせるようにって。多分、どこからか、デリカ様が消えたことが親に漏れたんだ。親たちも噂の確証が持てないから、体裁上は近況報告って形で連絡を贈ってきたんだよ」
「……答えられないよね。まさか噂は本当で、デリカ様がいなくなって一週間も経ってるなんて」
「あの子、護衛も兼ねて一緒にいたんでしょう? 親から命令されてたんでしょう? 誰かに誘拐された、事故に遭った、それなら罰を覚悟して答えられるけど、何も知りません、なんて、護衛が言える? 一番言えないことよね」
「抱え込んじゃったんだ……」
なるほど。
親からのプレッシャー、影もつかめないご主人様の行方、彼女ほど被害を受けないから本気で探さない周り。手をこまねく教員。恐怖の対象のアッシュベイン家。まるで四面楚歌にも似た現状だ。
結果。
考えて怖くて不安になって、彼女は狂ってしまった。
なるほど。
人は自分で処理できないことで頭がいっぱいになると、壊れてしまう。壊れるってことは、正常な動きができないということ。普通だったらしないことをしてしまうということ。壊れれば、何も考えなくていいから、ある種助かっているのかしら。
限界の先は、狂気。
思考を失う、地獄。
知らなかった。知れてよかった。
でも。
それだけ?
それだけじゃあ、ないでしょう?
たったこれだけで終わるなんて、勿体ない。ここまで大きく事が広がっているというのに。
「じゃあ、責任の先が次に向かうのは、あの子ってこと?」
ざわめきが収まる一瞬。一旦他の生徒たちの会話が終わった隙間。
私はぼそりと小さな声で、されど全員に聞こえるように言った。
視線の先には、デリカの取り巻きの他の子。
「え」
介抱しようとしている手が止まった。全員の視線が自分に集まったのを見て、絶句する。
――ああ、良かった。
全員の視線は言っている。圧倒的な圧力と、同調をもって。
――まだ自分は悪くない。今一番悪なのは、あの子だ。ああ、良かった。私じゃない。
――デリカ様がかわいそう。そういえば、あの取り巻きはデリカ様を快く思っていなかったよね。半年前も見捨てたし。デリカ様が出てこないのは、あの子たちのせいなんじゃないの? もしかしたらデリカ様は実家に戻っていて、アッシュベイン家が怒っていて、これはデリカ様を放ってしまったあの子たちへのバツなんじゃない? だったら、私たちは悪くないね。悪いのは、あの子たちだけだね。むしろ、私たちだって彼女たちを罰しないといけないんじゃない?
ぞっとするくらいの同調は、余波となって広がっていき、圧力となって少女を押しつぶす。この場所にある十数の視線は、敵意と悪意をもってその子に集まった。
「え、なんで、ちがう……」
真っ青な顔になって震えだす少女。
私は笑いを噛み殺した。
残念。貴方は”被害者”になり損ねたの。
不思議。本来なら、強い者が強いはず。デリカの周りにいた少女たちは、身分でいえばこの中でも高い人間だ。本来であれば身分の低い少女たちを従えて、ふんぞり返っているはずなのに。
今は、逆。そして、虐。
多数に入り損ねたから。可哀想な側に入れなかったから。
被害者は弱いはずなのに、何もしていない人間は何もしていないだけのはずなのに、今はそれが強者だった。きっとそれは多数派で、そういう被害者ぶってる人間が大多数だから。同じ意思をもって意識を統一して数を従えた最弱な被害者が、最強だった。
不思議。本当に不思議。被害者面をするだけで、強いと錯覚できる矛盾した状況。
「貴方も謝った方がいいんじゃない?」
誰かが言った。
誰かはわからない。
でも、だからこそ、強いのだ。
「貴方も頭をつけて謝りなさいよ」「あんたも震えて後悔しなさいよ」「デリカ様が可哀想でしょう。貴方の怠慢のせいで今もきっと震えているのに」「この子だって可哀想。貴方が謝らないから、狂ってしまったのよ」「貴方が悪い」「貴方が元気でいるから悪い」「貴方が無事だから悪い」
まるで暴力。数多の言葉はたった一人の少女に向けられる。
数多の視線と言葉を受けて、その子は涙を流して、体をこわばらせて、口から泡を吐いて倒れてしまった。
「良かったわね。これで貴方も被害者よ」
今度は誰にも聞こえないように呟いた。
また、標的が変わる。
多数派が少数派になるまで、これは続いていくのだろう。強者がこの学校からいなくなるまで、終わらないのだろう。
人は人が周りにいると強くなったと勘違いしてしまう。同調する意見に乗れば自分も強いのだと錯覚してしまう。
とっても、単純。
そして、とっても残酷。誰もが自分が被害者だと思い込んで、加害者であることを知らない。否、加害者だと思う思考を捨てている。
つまり、考えがなくなっている。怠慢に、反射的に、業務的に、人を傷つける。
全員、狂ってる。最初から、途中から、最後から。
その場から離れる。
もう見れるものは見たし、知りたいことは知れた。
さて、もうつまらなくなってきたし、幕を引こうかしら。これ以上何か面白そうな、予想外なことも起こりそうもないし、皆が待ち望んでいる救世主を呼び込もうかしら。
そんなことを考えながら、廊下を歩く。
と。
目の前から、集団がやってきた。男女の入り混じった十人ほどの集まり。体格は大人に近しいから、上級生だろう。
そんな中一際目立つのは、重そうな装飾のいっぱいついた、豪奢な座椅子。その上に乗る少女と、それを担ぐ生徒たち。灰の女王と、その奴隷。
座椅子に乗っているのは、バレンシア・グレイストーン。私も何度か見たことのある、デリカと同じ公爵令嬢。
金髪金眼。公爵家は王家の傍系らしいから、見た目はアースやデリカと似ていなくもない。当然美人で、大人の女性に片足を突っ込んでいるからか、妖艶でもある。細められた目は、眼前を歩く生徒たちの表情を舐め回すように見つめていた。
廊下を歩く他の子たちは、バレンシアの姿を見るや即座に廊下の端に寄って首を垂れた。恐れと不安に肩を震わせている。
特にここで目立つ必要もないし、デリカの事件の収集のつけ方を考えたいし、私もそれに倣う。
しかし、路傍の石ころに徹したはずの私の意志に反して、声は私の目の前で響いた。
「くっせえですわ」
その言葉を聞いた時、私は思わず自分の匂いを嗅いでしまった。昨晩抱きしめあったイヴァンの良い匂いが染みついているけど、いい匂いのはず。
下げた視線の先、バレンシアの率いる集団が立ち止まっていた。
顔を上げると、バレンシアと目が合った。見下げる視線。高圧的な態度。
「くっせえ、乳飲み子の匂いがするんですわ」
初めて交わすバレンシアとの会話。初めてにしてはひどい言われよう。生憎、私は乳を飲んだ記憶がないんだけれど。
私は笑う。彼女を刺激しないように、少しの卑屈を込めて。
「失礼いたしました、バレンシア様。昼食のミルクが消化しきれていないのかもしれません」
「そういうことじゃねえですわ。てめえ自身の匂いではねえですの」
「と、言いますと?」
「てめえの背後から、ちび助の匂いがするって言ってんですわ」
少し、驚いた。
まさか私が疑われるとは。
誰も私を疑いもしないのに、やり玉にも上がったことはないのに、流石は公爵家というわけか。どこか、私の知らないところで諜報員でもいたのかしら。もしくは、イヴァンみたいに、本人の鼻が利くのかしら。
楽しくなってきちゃう。
動揺をおくびにも出さず、私は微笑んだ。
「ちび助、というと? 私が子猫か何かを飼ってるか、という話ですか?」
「そうだっつてんですの。ぴいぴいうるせえあいつですわ」
「確かに私は子猫を飼っています。私の部屋に住み着いているんですが、とっても可愛いんですよ。バレンシア様も子猫はお好き?」
「うるせえのはうぜえですわ。あいつはずっと鬱陶しいと思ってたんですの。勝手にするといいですの」
鼻を鳴らす。
バレンシアはわかっている。わかっていて、関与しないと言った。思惑はわからないが、額面通りに受け取れば、デリカには嫌悪感しかないのだろう。それはそれで寂しいことだ。デリカはあんなに可愛いのに。
バレンシアはどうでもいいというように手にした扇子で振った後、目つきを鋭いものに変えて、口元を隠した。
「――で、カウルスタッグ家は何を企んでいるんですの?」
その言葉に一瞬だけ表情を止めてしまった。
バレンシアがわざわざここに止まった本意はここにあった。でも、その本意の行先が私にはわからない。カウルスタッグ家というのが何か、私はわからない。
バレンシアも私が返答しないのを不思議に思ったのか、表情を硬くする。
二人、互いの顔から情報を引き出そうとするが、互いにそれは叶わなかった。
「……ま。いいですわ。これくらいでゲロるような雑魚がここにいるわけもねえですし」
バレンシアは顔を引いて、座椅子を掲げる男子生徒の頭を蹴り飛ばした。男子生徒は一度悲痛な顔をした後、ゆっくりと歩き始める。
「良い面をしてますわね。あいつにそっくりの、くそむかつく顔ですわ。いずれまた会うでしょう、マリア・カウルスタッグ」
去っていくバレンシア。
カウルスタッグ。
知らない。
知りたくない。
何故だか知らないけれど、胸中がざわついていく。
私を形容する色んな表現。それは望むべき事。私は私を定義してほしい。
でも。
なんでその言葉に、かつてないほど心を乱されるのだろうか。
知らないはずの単語が、こうも鼓膜を揺らし続けるのだろうか。
わからない。
そして今ばかりは。
私の形を、教えてないで。