3-5
◆
ロウファ・カインベルトは現騎士団長の娘。幼い頃より兄たちと共に訓練を詰んできているため、同い年の少女の中では強い方だと聞いている。イヴァンほど噂話に詳しくないシクロでも、それくらいは知っていた。
そんな彼女は、最近よくマリアと一緒にいるところを見かける。武芸の稽古だと言われているが、一度その様子を盗み見たシクロから言えば、まるでおままごとのようだった。マリアと共に何度も本当の訓練を行ってきたシクロだからわかった。
くだらない茶番劇。
女優に居座る少女もくだらない。
マリアは彼女本来の強さの百分の一くらいしか発揮していないのに、ロウファは満足そうにマリアの強さを語るのだ。さも自分だけが知っているかのように。
滑稽。
浅ましい。
でも、そんなおままごとでも、マリアと一緒にいられるのは単純に羨ましかった。最近、シクロは寝る時くらいしかマリアと一緒にいない。大切な時間が、切り取られていく。
ぐつぐつと、また、燃える。
ばちばちと、弾けていく。
「マリアはやはりすごいね。眼がいいんだ」
そんな鬱屈とした日々を過ごしていたある日、トイレに向かおうと廊下を歩いていると、そんな声が耳朶を打った。
「絶対当てられると思った攻撃も、躱されてしまうんだ。マリアは自分の身体の使い方がわかってるから、最小限の動きでこっちを無力化することができるんだ。こんなこと、初めてで新鮮だよ。流石の才能だね」
廊下の先、ロウファ・カインベルトが数人の同級生と一緒にこちらに歩いてくる。談笑の中身は、当然、シクロの想い人。
「ああ、そうさ。やっぱりこの女学院に来れただけあるよ。でも、僕も段々とその背中に近づけている気がするんだ。この前の全体訓練では、教師にも一本当てられたしね。あとはどうにかしてマリアから一本取れればいいけれど」
とれるわけがない!
マリアはおまえが何人、何百人、何千人いようとも、苦にもしない。それくらいの力の差がある。訓練という形すら有していないままごとのくせに。
なのに。どうして。
そんな弱いおまえの方がマリアの近くにいられるのだ。
「うん、そのこともわかってる。忘れてないよ。毎回勧誘しているし、うまく口説き落とさないとね。彼女が僕の部下になってくれれば、最高だ。これから先、部下として、師匠として、僕と一緒にいてくれる。彼女だって騎士団に入れば準貴族だ。悪い気はしないだろう」
胸の中に、虫がいる。
うるさくて小さくて数の多い虫だ。
ざわざわと、体の中を這いずり回る。
――一緒に?
誰と、誰が?
そう予想して、それが現実になるはずがないとわかっていながらも、それが本当にゼロの可能性かと言われれば首を縦に振ることができない自分に気が付いて、そうなったら自分はどうなるのかという将来を考え直して、この学院を卒業した後の自分の隣にあの人がいないかもしれないなんて想像して。
そんな私に価値があるのか。意味があるのか。
生きている意味があるのか。
目の前に赤と黒が過って。
抑えきれなくなって。
気が付けば、ちょうど真横を歩いて通り過ぎようとしたロウファの後頭部を掴んで、顔面を壁に叩きつけていた。
バキ、と音がして、木造の校舎が揺れる。
その音に何事かと周りが視線を向けてくる。
水を打ったかのように一瞬、周りが静まり返る。
耳が痛いくらいの静寂にシクロは我に返って、そして震えた。
「……痛いなあ!」
自分の行動に動揺したシクロに向けて、木刀が振り抜かれた。それを後ろに跳んで躱して、当人と向かい合う。
額から血を流している麗人、ロウファはシクロを睨みつける。
「……大変なご挨拶だね。どういうつもりかな、シクロくん」
「え、えっと……」
それはほとんど反射の行動だった。
なんでこんなことをしてしまったのか。
理由は脳内でまとまりきらない。
何度も心に思うところはあったけれど、今まで表立った行動をしてこなかったのは、マリアの迷惑になると思ったから。彼女に嫌われてしまうと思ったから。だから、脳内にいる魔物をなだめすかして静々と生きてきたのに。
これじゃあ、マリアに迷惑がかかってしまう。嫌われてしまう。それだけは絶対にダメなのに。
真っ青になった脳内に過るのは、イヴァンの言葉。
――マリアは、予想外が好き。
考え直す。ポジティブに。
イヴァンの言う通りなら、マリアはこの行動にだって、喜んでくれるかも。仕方ないわね、なんて笑ってくれるかも。
そうだ。マリアはいつだって笑ってくれる。
笑ってくれなかったことなんかないじゃないか。
シクロは、確証が得られていない。不安はいつだって隣で親し気に手をつないでくる。
でも、後に引くつもりはなかった。
「ぎゃあぎゃあと姦しかったので、つい」
顔を上げて、口角を吊り上げる。
清々しい。
こんな気持ちになるのなら、もっと強く叩きつければよかった。そのうるさい口が二度と開かないようにすれば、私の中の魔物の溜飲も下がっていたのに。
「……なに?」
ロウファの眉間にしわが寄るのも、お構いなし。
「貴方はね、調子になりすぎなんですよ。マリアと少し一緒にいたくらいで、あの人を理解しないでほしいんですよね。あの人は、貴方の何倍も強いんです。貴方の目の前なんかにはいないんですよ。それなのにいけしゃあしゃあとマリアが近くにいるだの何だのと、恥を知ってくださいよ。ださくて気色悪くて格好悪いんです」
ロウファは一度頬をひきつらせた後、鼻を鳴らした。
「なるほど、単独犯か。可哀想に、同情するよ。飼い主を取られたペットみたいな目をしてる」
「はい?」
二人して敵意をぶつけあう、剣呑な雰囲気。周りの生徒たちのざわめきも広がっていく。
ロウファは周りを見て舌打ちを一回、
「ここじゃ騒ぎが大きいな。今日の午後、訓練場を取ってある。かかってこい。おまえの言う言葉がどれほどくだらないか、確かめてやる。それまでこの怒りは忘れてやろう」
シクロは考える。
この場であいつの口を塞いでも問題ない。激情のままにぼこぼこにしてやろうか。でも、確かに、大騒ぎにし過ぎるなと警鐘を鳴らす自分がいることも事実。
シクロは薄く微笑んで頷いた。
「……貴方の土台に乗ってあげますよ。ぼこぼこにしてやる」
◆
数時間後、シクロはロウファと訓練場で向かい合っていた。
他に誰もいない、静謐な空間。
ロウファは手に持った木刀をシクロに放り投げた。からん、と乾いた音を立てて、シクロの目の前の床が鳴る。
「使うといい。どうせ野蛮な君は剣の一振りも持っていないだろう」
シクロはその木刀を蹴り飛ばした。
「いりませんよ。そんなもの、弱い人間の持つものです」
「ああ、君は覚醒遺伝持ちだったね。じゃあ手加減はいらないのかな」
「……むかつくんですよ」
ロウファだけじゃない。
全員、全員。
周りにいる、全員。
今までため込んでいた憤懣が、口から溢れ出ていく。
「表だけを見つめて、それで満足して、中身をまるで見ようとしない貴方たちが。マリアは、そんな人じゃないんです。強いけど弱くて、優しいけど怖くて。一面だけを掬い取って満足してマリアを知っているだなんて嘯く貴方たちが、嫌い嫌い嫌いです」
それは愛じゃない。
妄信だ。ただ、自己愛だ。
脳内で作り上げた妄想だ。そんな汚いおまえの妄想で、マリアを汚すな。
「証明しましょう。私が、私だけが、マリアの隣に存在し得ると」
マリアは、化け物。
私も、化け物。
そう。そうだ。そうだった。
自分は異常。マリアも普通ではない。だから、自分はマリアの傍に存在しうるのだ。こんな、綺麗で純粋で脆弱な人間は、マリアの近くにいてはいけない。マリアが、汚れてしまう。
「綺麗なマリアを、貴方ごときが汚さないでください」
ロウファは呆れを隠さないで嘆息した。
「言いたいことはそれだけ? いくよ」
ロウファが駆けて、シクロの前で剣を振るう。「あ」その剣はシクロの予想よりも速かったので、慌てて身体を捻って避けた。追撃も躱して、シクロはロウファと距離をとった。
「どうした? でかい口を叩いた割には防戦一方じゃないか。君こそ、マリアの傍にいるには役者不足じゃないか?」
「……」
青筋が立つが、大きく息を吐いて堪えた。
少しの油断。
シクロは息をついて、ロウファを見つめ直す。
「……少し訂正します。貴方が千人もいれば、流石のマリアも傷を負うでしょう」
万人は言い過ぎた。この半年間マリアが指導していたのだ、どんなに才能のない人間だって、ある程度は強くなっているだろう。
でも、ここが普通の少女の限界。マリアの指導を受けてなお、これくらいの速さなのだから、先は見えている。
「……相変わらず、君の言う事はわからないね」
困惑している様子のロウファに、言葉を継いだ。
「焦らなくても、これからそれを教えてあげますよ。私も、貴方があと百人はいないと一太刀も負いませんから」
「言ってろ!」
再びの一閃。
けれど、先ほどと違うのは、シクロの目算。さっきよりも十倍強い相手だと認識して、その剣を見つめる。
普通の少女の十倍は早い。けれど、マリアの千倍は遅い。
遅い。
遅すぎる。
振り下ろされたその剣を掴んで、真横に放り投げる。ロウファは健気にも剣から手を離さなかったので、一緒になって訓練場の床の上を転がっていく。
「遅すぎて、蚊が止まりますよ」
「……」
ロウファの顔が歪んだ。立ち上がるが、その顔に先ほどまでの気迫はない。
「マリアの本当の剣は、その一億倍速いですよ。本気になれば、貴方の剣をつかみ取れる私の脳天など一瞬でかちわれます」
「……そんなことあるはずがない。マリアの剣はいつだって僕よりも少しだけ早くて、少しだけ重くて、そんなこと、意識してできるわけが」
「マリアは蟻を殺さないで踏めます。そういうことです」
「ありえない。マリアじゃなくて、覚醒遺伝持ちの君が、君だけが、」
「往生際が悪いですね。ああ、なるほど、貴方、マリアに馬鹿にされたんですね。訓練というおままごとに、あの人は付き合ってあげていただけなんですね。安心しました」
心がすっとしていく。
久々に晴れていく。
ああ、きっとマリアもこんな気持ちだったんだ。納得できた。足元にいる蟻に水滴を落として目の前でもがくのが、楽しくて仕方がなかったんだ。
蟻に嫉妬していた自分が恥ずかしくなる。
「――舐めるな!」
ロウファが足元に力を込めて、跳んだ。
上段から振り下ろされる剣。確かに、授業レベルであれば、感嘆する速さと威力。
でも、実践では何の役にもたちはしない。半年前、覚醒遺伝持ちの人間との戦闘に参加していたら、一瞬で肉塊だ。
「舐めてませんよ」
シクロはその剣を、右腕で受け止めた。横に差し出した腕と剣が直角に交わる。
「舐めるにも値しません」
シクロの右腕に当たった剣は、威力を失くした。まるで初めからそこに触れていたかのように、重いものを地面に落としても跳ねないように。シクロの右腕に、ただ、添えられているだけ。
「――く」
「残念ですが、私、化け物なんです。マリアと同じで」
左腕を構える。手をゆっくりと開いていく。
右腕に受けた衝撃が、じわじわと熱になって伝播して、左腕に集まっていく。
「貴方の剣、返しますね」
――【反射腕】
そのまま左手をロウファの腹部に押し当てる。ボ、と不明瞭な音がして、手のひらから衝撃波が飛び出して、ロウファの身体を宙に浮かせた。「んぐっ」そのまま勢いよく飛んで行ったロウファは床の上を転がって、壁にぶつかって止まった。
「う……」
起き上がるが、口元を押さえて、何とか腹の中のものを吐き出さないようにと耐えている。
「なんだ、そのくらいの威力ですか。貴方の剣の力ですよ、今の。もっと腹がはじけ飛ぶとか、そういうの期待してたんですけれど」
楽しい。
シクロは自覚した。
今までの我慢は何だったんだと思う。最初からこうして気に入らない相手はぶちのめしていけばよかった。だってシクロは覚醒遺伝持ちで、化け物で、強いんだから。目の前の人間よりも、優れているのだから。マリアと同じなのだから。
荒い息を吐きながら、ロウファはまたシクロに向かいなおった。
「まだ、だ」
「……わからない人ですね」
「おまえに負けたら、ダメな気がする」
ロウファは顔を歪ませた。
「僕は、僕は、強くないといけないんだ。父のためにも、家のためにも、自分のためにも、そうありたいと、誓ったんだ」
「ふうん」
シクロはロウファの悲痛な思いを、鼻を鳴らして流す。
「それで?」
誓うだけ強くなれるのなら、想うだけで叶うのなら、ここは現実ではない。
少なくとも、そうできるのなら、シクロはもっと綺麗な姿になっていて、家族に捨てられることもなくて、マリアから絶対の愛情を受け取っている。
思いは叶わない。だから、次善の策を練るか、第二希望に甘んじるかが人生だ。
それがわかるくらいには、シクロは賢くて。
「貴方は、馬鹿ですね」
向かってくるロウファを、シクロは何度でも向かい打ってあげた。
◇
ロウファは擦り傷だらけで私の前に現れた。
「マリア……」
その目は失意に沈んでいて、木刀を持った手は今にも解かれそうで、震える足は崩れてしまいそうで。普段の彼女からは想像できないくらい、心も体もぼろぼろで。
よくわからないけれど、ぞくぞくしちゃう。
「くふ。どうしたの?」
「今から僕が言う事を、否定してくれ。僕の半年間を、努力を、否定しないでくれ。僕の剣に、応えてくれ」
ロウファは手に力を込めて、木刀を振り抜いた。
彼女にとって本気の攻撃。半年間私の目の前で積み重ねた渾身の一撃。私の腹部に向けた斬撃。
それを、私は人差し指と親指でつかみ取った。ぴたり、とその剣は動きを止める。
「いいわよ。言ってみて?」
「……」
引き抜こうとも、押し通そうにも、一切動かない、私の二本の指で固定された木刀。それだけで、全てを察したのだろう、ロウファはその場に崩れ落ちてしまった。
「……なんで」
どれに対してのなんでかしら。
「本当にどうしたの? 何があったの?」
「シクロと戦ったんだ」
その一言で、私はすべてを理解した。
何かの拍子でも二人はぶつかって、そして、ロウファは完敗したのだ。確かに、二人が向き合えば成人と赤ん坊くらいの力の差がある。運否天賦ではどうしようもない壁がある。
そのおかげで、ロウファはこんなにぼろぼろになってしまった。少し予定より早いけれど、問題ないわ。私はどんな物事も受け入れられるから。
今度、シクロの頭を撫でてあげないと。
「なんでそんなに強いのに、僕に合わせていたんだ! 優しさのつもりか!」
ロウファは私の胸倉をつかんでくる。
鬼気迫る顔は、涙に濡れていた。
泣き顔が可愛いし、私の方に倒れてもらうために残った矜持を壊してあげないといけないし、種明かしをしないとだし、流石に正直に答えてあげようかしら。
「皮がほしかったのよ」
「……皮?」
ロウファの顔が引きつった。
引いた身も、彼女の腰に回した私の手が逃がしはしない。
「ええ。私が被るべき、人間の皮。”普通の人間”の動き。私が普通にしていたら、それは普通じゃないからね。だから、ほしかったの、普通の少女の姿が。そうすれば、私はもっと、人間に近づけるでしょう?」
「人間って、マリアは、人間だろう?」
そう見えていることは素直にうれしい。
でも、それは私がそう見せているから。もっと、眼がいい人も騙せるように人間を学ばないといけないの。
「ええ。そうよ。でも、まだ人間には足りない。もっと私は、人間になりたいの。だから、普通の女の子の貴方を見ていたの。学んでいたの」
他人の殺意に怯える様な。
魔術で死ぬような。
強敵に為すすべなくなるような。
弱い弱い人間に、意識的に、なりたいの。だからその皮を頂戴。
「僕は、普通の女じゃ」
「いいえ。貴方は普通の女の子よ。安心して。か弱くて、綺麗で、可愛い可愛い女の子。貴方では誰も殺せない。でもね、殺す必要もないの。だって貴方は、可愛い女の子だから」
「……やめてくれ。僕は」
「やめないわ」
ロウファを壁際に追い詰めて、言葉を伝える。
わかってもらえるまで、何度も。
「貴方は弱いわ。でも、とっても可愛いの。だからね、これはいらない」
私は掴んだ木刀をぽいっと放り投げた。
はるか遠くに飛んで行った木刀。それを見つめたままのロウファの視線の先に、私は映りこむ。木刀は、剣は、どうでもいいから、私を見つめさせるの。
「良かったわね、ロウファ。貴方は可愛い女の子なのよ。だから、こんな剣は最初からいらないの。貴方は女の子として、毎日を楽しめばいいのよ」
茫然とするその顔に、近づいていく。鼻息が当たる距離。甘い甘い接吻。
「貴方に、女の子の幸せを教えてあげる。ね?」