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あの忌まわしい事件があって、それから、周りの状況は変わっていった。
そんな中、
自分だけだ。
ただ一人、自分だけが一般的に正常なのは間違いなくて。
でもしかし、この小規模な箱庭の中では異常なのも間違っていない。
スカイア・タイルは教室の端っこで一人、頭を抱えて震えていた。
ずっと、こう。一人。半年前から自分はずっとこうだ。最初から誰とつるんでいたわけでもないが、それでもあの件以来、深い疎外感を感じてしまう。
眼前に繰り広げられる得体のしれない光景。
自分だけを置き去りにした、一人の少女を中心にした、人だかり。
「マリア。言われた通り、下級生の興味や思想を調べてきたよ。マリアもだけど、やっぱりバレンシア様が一番話題に上がってるね。もうすでに眼をつけられた子もいるっぽい。次はバレンシア様を調べようか?」
「マリア! 下級生にも私たちの武勇伝を伝え聞かせてきたっす! すでに私たちの人気は上々っすね。Aクラス、Bクラスの無能さもこっそり忍ばせておいたから、相対的にまた評価が上がるっすよ。情勢が変わっていくのを目の前で見ていられて、楽しいっす!」
「マリア。この前の授業内容だが、教師に物申しておいたぞ。Aクラスばかりでなく、こちらにも優秀な教師を回せと。優秀な我々にこそ、高度な授業にふさわしいと、そう言ってやった。ははっ、考えておくだとさ。今までは一蹴されていたのに、評価が変わっていて面白いなあ」
「マリア。最近マリアの周りを嗅ぎまわっていたやつを捕まえたけど、どうする? 前みたいにマリアが対処するか? 最近周辺がやかましいが、おまえは私が守ってやるから、安心しろ」
「マリア。この前の魔法、また練習しに行こう? 次で掴めると思うんだ。訓練場を予約しておくね。それと、と、と、と。……もぉ、また頭痛だ。それとも、今ここで打つ? Aクラスにでもぶちかましてみる?」
「マリアー。またお茶会の連絡が来てるけどどうする? あと、またうちの商会関係で、話したい人がいるんだって。門番にはお金を握らせてるから、また抜け出して会いに行こうか。お金は弾むってよ」
マリア。マリア。マリア。右も左も前も後ろもマリア。
毎日毎日、呪文のように唱えられるその単語。同じ教室にいるだけで、会話の中心が彼女になるだけで、頭がおかしくなってくる。
テータも、クリスも、エイフルもアネットもアルコもレインも。
全員全員、マリアに群がっていく。あれ以来、まるでマリアしか見えていないかのように、彼女の姿を見ればすぐに尻尾を振って近づいていく。
スカイアは怖いのに。あの笑顔が、一つ一つに計算された所作が、恐ろしいのに。なんで皆そんな楽しそうに彼女に抱き着けるのだろう。
でも。
この教室の中では自分の方が異端であることを、スカイアは重々承知していた。
環境によって、常識も正義も簡単に入れ替わる。いっそのこと頭を空っぽにして同調すれば楽になるかもしれないが、物事を忘れられないスカイアにはそれができない。積み重なった過去を、自分の思想を、捨てられない。
どうして皆、マリアにあそこまで傾倒するのだろう。
この半年間、彼女たち全員にマリアのことを聞いてみた。その過去を、思い起こしてみる。記憶の部屋を覗いてみる。
テータ。
『そりゃあ、マリアはすごいから。実は私、この学院に入り込んだ政府の諜報員なんだけど、”都合の良い真実”を上に報告しないといけないんだ。それで悩んで苦しんだこともあったけど、マリアはそれを簡単に実現してくれる。上が納得するしかない暴力的な事実を考えて、実際に生み出すことができる。私はマリアと一緒にいれば安泰で安心して悩まなくてよくって、それに、ふふ、マリアとの夜はとっても、気持ちいいんだよ』
クリス。
『マリアの周りに色んな情報が巡ってるんすよ。私はそれを独占させてもらってて、最近学院内で刊行を始めた私の新聞は、人気がうなぎのぼりっす! 色んな人が私の情報を見てくれてるのは嬉しいし、読んでくれた皆も楽しそう。ウィンウィンで幸せな記者ライフっす。……あと、趣味で書き始めた新聞の端っこのエロ小説も人気っす。実体験が増えたせいで描写が生々しくなっちゃって、でも、皆それも喜んでくれてて、その、私ももっと、その……、えへ』
エイフル。
『愚問だな。マリアには、絶対の正義が存在する。圧倒的な強さと、その美貌と、迅速な思考力、美しい肢体、艶やかな嬌声。どれをとっても一流で、ゆえにマリアは正しいのだ。マリアが正しいから、それに従う私も正しい。そうだ。私は今まで他人に向けていた視線の無駄に気が付いたんだ。私はマリアだけを見ていればいい。だって、マリアだけが真実で、他は紛い物なのだから』
アネット。
『まー、あいつはあれでいて、危なっかしいところもあるからな。この前もまたロッカーにゴミとか入れられて、嫌がらせされてたし。頭もいいし、力も強いんだけど、どこか抜けてるから、私が守ってやらないといけないんだ。近い将来、多分、あいつは上に行く。その時も傍で護衛ができるよう、満足してもらえるよう、色々と私も頑張っていかないとな』
アルコ。
『マリアは天才だからね。そして私も天才なんだから、天才同士、一緒にいるのは当然でしょ。凡人の言う事に話を聞くのは無駄だしね。この前も、も、も、(軽く頭を叩く)凄い魔法の開発に成功したの。この学院くらいなら吹き飛ばせる威力のやつ。マリアに禁止されてるからやらないけど、早く許可が降りないかな。世界には私とマリアだけでいいのに。それ以外は全部燃やしたいの。私がマリアの子を産めば、それでいいでしょう?』
レイン。
『ん? 今ちょっと忙しいんだけど……。そう、マリアの案件。マリアは今や皆を救った救世主で、実在する英雄だからね。面会の依頼が後を絶たないの。この半年、ただマリアを連れ歩くだけで、数千万ドリムほど稼いだわ。ホントに怖いわよ。私が今までやってきた商売を全否定された気分。今だってマネージメントっぽいことしちゃってるし。あーあ、今夜はしっかり労ってもらわないと、割に合わないわ。ま、そのためになら何でもしてあげるけど』
全員の顔を思い出す。
誰も、目の前のスカイアのことを見ていなかった。記憶の中のマリアを見つめて、楽しそうに嬉しそうに幸せそうに艶めかしく話していた。
狂ってる。
そう、狂っている。
この言葉がしっくりきた。
Cクラスの全員が、マリアという絶世の美少女を前にして、狂っている。歯車がずれてしまっている。過去の自分から変わってしまっている。一般から足を踏み外している。
スカイアは自分は変わっていないと自覚している。でも、それが今、この教室にいると、自分を不安にさせる事実になってしまっているのだ。
「……邪魔です」
と、スカイアの耳はその声を聴いた。
マリアから少し離れた席で、二人の少女が、他の少女を睨みつけている。
「邪魔邪魔邪魔。ほんっとーに、邪魔です」
変わったと言えば、この二人もだ。
以前はこの二人が、マリアの傍にいた。彼女たちだけが、べったりとマリアに付き従っていた。なのに、今は全員が片時もマリアから離れない。逆に、二人が離れている光景が目立つようになっていた。
「マリアのことを全然知らないくせに、気色悪い声を上げて……」
特に、シクロの視線は怖かった。
憤怒よりも憎悪よりも、はっきりと目に見えない分、内側で積み重なっている分、恐ろしい。火薬が積まれているのは見えるのに、なかなか爆発しないのだから。
忘れるという機能の存在しないスカイアは、夢に出てきそうな般若もかくやの表情に震えるしかない。
「マリアが楽しそうだからいいんじゃない?」
反面、イヴァンは本を読みながらのすまし顔。
「……なんでそんな顔できるんですか」
「シクロ。貴方は今までをマリアと過ごしてきたんでしょ? 小さい頃から、色んなマリアを見てきたんでしょ。貴方しか知らないマリアがちゃんと貴方の中にいるというのに、不安になる意味がわからないよ」
「私こそ、貴方の言っている意味がわかりません。今、この瞬間も、私はマリアに愛されたい。過去は過去で、今は今です。今も、明日も、明後日も、マリアの腕の中には私がいなくちゃいけなくて、それがすべてなんです」
「マリアは私たちのことを家族だと言ってくれる。それでいいんじゃないの?」
「……私は、もっとほしいんです」
シクロは唇を噛む。
目が潤み、心を絞ったような、か細い声。
傍から見ていたスカイアも、その時ばかりは綺麗な顔だと息を飲んだ。
「そりゃあ、家族だと言ってもらったことは嬉しかったです。いっつも笑顔を向けてくれるし、愛してくれるし、言葉にしたら文句なんてありようもないです。でも。胸のあたりが、ここが、いつだって不安で怖くて揺れているんです。私は、もっと、マリアの絶対になりたい……」
「……そう」
イヴァンは本を閉じた。シクロのことを、じっと見つめる。
「だったら、好きにすると良い」
「え?」
「抑え込んでる感情とか、思いとか、行動とか、全部、我慢しなければいい。別に自棄になって言ってるわけじゃなくて、多分、そんな行動もマリアは好きだから。予定外のことが好きだし、楽しんじゃう子だから、許してくれるし、もしかしたら褒めてくれると思うよ」
「……本当ですか」
イヴァンの赤い瞳は揺らがない。
「本当。マリアを見てきたらわかるでしょ。あの子は色んなものを自分の思い通りにできるから、自分の思い通りになることが大好きで、でも、自分の考えの予想外も大好きな、変態なのよ」
スカイアはそれを聞いて、顔をひきつらせた。
ああ、なるほど。だからいつでも楽しそうなのか。彼女はきっと、楽しくないことも、楽しいんだ。
少しだけマリアのことを理解して、けれど、胸中は不安と恐怖でいっぱいになった。
その変態さが何か大きな事件を起こしそうだと、はっきりと感じていた。