2-23
◆
その断頭台は冷たく聳え立っていた。
過去、数多の罪人の血を吸ってきたギロチンは、今宵も人の血を求めてみしみしと不気味な音を立てていた。
使用予定を翌日に控え王国の広場に設置されたそれは、人々に怨嗟と期待でもって迎えられている。一か月の間、怒りを憎しみを貯め続けた人々の感情が、発散される日を待ちわびていた。
そこに置かれる予定の首は七つ。
いずれも、大事件を引き起こした罪人。
四十名ほどの兵士を惨殺し、未来の王国を担う少女たちの肉体、精神に傷を負わせた罪。兵士の家族、高位につく人間は当然、彼らに死でもっての償いを求めた。
憎しみは同じ覚醒遺伝持ちの人間からも向けられた。王国内で今まで悪かった立場がさらに悪くなったと、批難が止まることはない。
畢竟。
広い王国内。
誰も、その処刑に異を唱える者はいなかった。
王国の中枢部に存在する法廷、そこでの判決は圧倒的多数の支持をもって、処刑となった。地下に幽閉された罪人たちすらも異議を唱えることはなかった。彼らもまた、衰弱しきってその日を待っている。
牢屋の最奥に彼らはいた。
覚醒遺伝持ちの彼らは、普通の人間よりも肉体の回復が早い。一か月もあれば、捕縛の際に与えられた大抵の怪我は治っていた。しかし、一か月間冷たい石に囲まれ続け、食事も碌に与えられない状況に置かれれば、肉体よりも先に精神が音を上げていた。
当初は鉄格子の向こうから恫喝されて震えていた牢屋番も、今や安心して船をこげるくらいまでには静かな空間。
耳を澄ませば、かろうじて息の音だけが聞こえてくる。
「……姫」
個別の牢屋。頑丈な鉄格子の中で、一人の男が隣の部屋に押し込まれた、血族に竜を持つ少女に問いかけた。
「いかがしましょう」ルールスというその男は、牢屋番に聞こえない程度の小さな声で、「明日が約束の日となっております。このままですと、全員が首を落とすことになりますが」
「……」
隣から答えはない。
「全員、焦燥しきっておりますが、かろうじて命は保っております。死に際に華を添えるくらいの働きはできましょう。可能であればせめて、貴方だけでも逃げてください。我々の悲願を、つなげてください」
「……」
「姫。貴方が本気を出せば、このくらいの鉄格子、簡単に砕けるはずです。貴方は原初の中でも最強格の竜の血を引いているのです。このまま雑種の餌になることを、看過するつもりですか」
静寂、そして、
「……姫!」
ルールスが少し語気を強めると、「ううううううううううううう」と唸り声が聞こえてきた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
小さな声で、神に祈りを捧げる様に。かつての強者はそこにはいなかった。今はただ、脆弱な子供のように震えているだけ。
この一か月、何度も繰り返した会話。そして変わらない返答に、ルールスは嘆息するしかない。
「いくら言っても駄目だ。竜は殺されちまった」
反対側から、男の声。スタッグという蛇獣という原初を先祖に持つ男。彼の声にもまた、諦念が含まれていた。
「終わりだよ、もう。俺たちは終わりだ」
「おまえまで諦めるな……ただ、確かに、姫が処刑前に治るという見込みは外れてしまったようだ。ここまで心を病むとは、とんでもないやつと出会ってしまったようだ。スタッグ、おまえは奴と姫との戦闘は見ていたか?」
「いんや。俺も気を失っていたからな。ただ、思い返しても勝てる気が一切しねえ。俺は腕と足を一本ずつ失ったしな。竜だっておまえも見た通り、捕まった時は全身の骨を折られ、致死の一歩手前だった。こうなるのも無理はねえ」
「……あいつは、なんだったんだ」
「知らねえよ。あいつに直接聞けよ」
ため息は重なり、それきり話し声はなくなった。
この中で最も強い存在がうずくまってしまっている現状、他に誰も動きようもなかった。
全員が全員、手ひどく痛めつけられた。あるものは左手と右足を失い、あるものは全身の皮膚がただれ、あるものは瞳から光を失った。
覚醒遺伝によって回復が早いといっても、人の枠組みから外れているわけではない。喪った四肢は戻らないし、折れた心は復元することもない。
誰もが、自分たちは人間だったと思い知る、皮肉な結果。
人間だから、どうしようもないと、明日の死を見つめる。
罪人全員の描く未来が、死で重なったとき、
ごとり、と、人の倒れる音がした。ルールスが顔を上げると、椅子に座っていた牢屋番が床に転がった音だった。寝たのかと思っていたが、彼が起き上がる様子はない。
そして、その影から一人の人間が現れる。
月の光すら届かない闇の中。
灯りもない宵闇の世界。
けれど金は輝いてそこに立っていた。
「こんばんわ、皆さん。約束通り、助けに来たわよ」
全員が息を飲む中、エリクシアは誰よりも過敏にその声に反応した。膝にうずめていた顔を上げ、その少女を確認する。一か月前と変わらない笑顔で、そこに立っている、彼女を。
「……マリア、様」
「エリー。元気そうね。良かった」
マリアは微笑んで、エリクシアに近づいていった。「ひっ」エリクシアは反射的に牢屋の奥に後ずさる。
脳に過るのは、一か月前の戦闘。否、戦闘とも呼べない蹂躙。彼女こそが、今迄敗北の文字を知らなかったエリクシアに、敗北と恐怖と畏怖と絶望と、様々な負の感情を植え付けた張本人。
がたがたと身体は勝手に震え、けれど、その目は逸らせなかった。
マリアの笑顔が濃くなったのが、エリクシアにはわかった。
「エリー。どうして私から逃げるの? 私の事、忘れてしまったの?」
その微笑みを見せられると、心臓がきゅっと痛くなる。脳が縄できゅっと締め付けられているような気分になる。
けれど、何故だろうか。
締め付けられて脳が動かなくなると、思考が止まる。そうすると同時に、じわっと、不思議なふわふわするような気分にもなるのだ。
恐怖心が、ぼんやりと、薄れていく。夢心地の気分、酩酊、倒錯。
「い、いえ。忘れていません。マリア様」
「そう? 嬉しいわ。じゃあ、よく顔を見せて」
エリクシアは恐る恐るマリアに近づいていく。
手が届くくらいまで来ると、「うん、相変わらず可愛いわ」と、頭を撫でられた。
猛獣の口の中に頭を突っ込んだような、そんな気持ちだった。
でも、一度頭を差し出せば、後はどうでもよくなった。食われても仕方ないと脳が判断すると、危機感が麻痺して、快感が脳を走り抜ける。
「ふ、ふへへ……」
だらしなく笑えるくらいには、撫でられることが気持ちいい。
「良い子ね、エリー。私の気持ち、よくわかってくれたみたい」
わかるはずもない。
協力すると言って裏切られて、ぼこぼこに蹂躙されてこうやって愛を囁かれて。
エリクシアの心はもう、ぐちゃぐちゃだった。元の形が思い出せないくらい、滅茶苦茶にされてしまった。
考えても考えても、あの夜の行動に正解は見つけられなくて。
わからない。わからない、わからない。
この人がわからない。この人を目の前にした自分もわからない。
けれど、わからないなら、もう、考えなければいい。
考えを捨てて、矜持も放って、心を覆っていた外套を脱ぎ散らかして。
そうして、すべてを差し出せばいい。
そうすれば、ほら、こんなに幸せ。
綺麗で美しい絶世の美少女の瞳の中に映されて、幸せ。そんな彼女を見れて幸せ。声を聴けて、触れてもらって、思考を感じて、幸せだけになる。
「マリア様ぁ」
甘い甘い、声。
自分がこんな嬌声を上げているなんて、信じられない。でも、きっとマリアはこれがほしいのだ。マリアのためなら、脳が考えをなくして、積み重ねてきた矜持すらも吹き飛ばす。
これが、もしかしたら好意なのかもしれない。
だから。
「おいてめえ! どんな面してやってきやがったんだ! てめえのせいで滅茶苦茶だ! どう責任取ってくれんだ、ああ!!?」
スタッグが大声を出したとき、どれほどぞっとしたか。
この人の機嫌を損ねることがどれほど恐ろしいのか、知らないのか。
それは芯から震える怒りになった。私よりも弱い存在が、マリアよりも圧倒的に弱い存在が、マリアにそんな口をきいていいのか。
あり得て良いことではない。
「黙れ、スタッグ! てめえ、殺されてえのか!」
「え、……は?」
予期せぬところからの怒号に、当惑したスタッグの声。
けれど、エリクシアの怒りは収まらない。
「次そんな口をマリア様に聞いてみろ。私がおまえの舌を引き抜いて八つ裂きにするからな」
殺気を声に乗せると、牢屋は静まり返った。
しんとした中で、マリアの笑う音だけが聞こえる。
「エリー。嬉しいわ。本当にわかってくれたみたいね。やっぱり貴方は私と同じね。近い存在なのね。だから、私の考えていることがわかるんだわ。素敵」
「はい、マリア様。私は貴方と同じです」
微笑んで、鉄格子を掴む。近づけるだけマリアに近づいていく。
一つだけわかった。
マリアの言う事を聞いていればいいのだ。
彼女に、従っていればいいのだ。
そうすれば私を傷つけるものは何もなくて。
マリアという籠の中、安寧が約束される。
何も考えなくていい。
幸せになれる。
それがすべてで、いちばんひつようなこと。
わかった。
「ふ、ふふ……」
脳は理解して、喉は乾いた笑い声を吐き出した。
そしてその思考を裏付けるかのように、マリアは近寄って、口づけをくれた。
甘くて暖かくて、脳髄が蕩けて行きそうな、それを。
「正解よ、エリー。良かった、やっぱり痛みは愛なのね。わからなかったことを、わかってもらうことができたの。また一つ、わかっちゃった」
マリアは蠱惑的に嗤って、鉄格子を掴んだ。そのまま引っ張ると、それは音を立てて壊れて外れた。
「ほら、外に出て。このままだと殺されてしまうものね」
「はい。マリア様」
有無を言わさず、脳を介さずに応えて、エリクシアは牢屋の外に出た。
久しぶりの自由。けれど、マリアの視線の前では、縛られているかのような感覚があった。四肢すら操られているかのような感覚。でもそれが、脳を麻痺させるくらい気持ちがいい。
「ほら、他の人も」
マリアは順次、牢屋の鉄格子を外していった。不安と不満を隠せない顔つきで、残りの人間も牢屋から出てくる。
「姫。これは一体どういうことです」
ルールスが眉を寄せてやってきた。
エリクシアは笑った。
「貴方もマリア様の言う通りにするんです。それが正しいことですからね」
「……姫。正気に戻ってください。あれは、化け物です。私たちの理解の外を超えた、恐怖が形になったかのような、異物です。やつが次に何を考えているかなど、想像もできません。隙を見て逃げましょう」
「どこに逃げるの?」
エリクシアは笑った。
諦念と喜色を前に出して。
「貴方は逃げていいんですよ。私は逃げないし、止めもしません。どうなるかは知りませんけど」
マリアからは逃げられない。
出会ったしまったことは、すなわち底なし沼にはまったのと同じこと。濁流にのみ込まれたのと同義。足掻けば足掻くほど、深みにはまっていって溺れ死ぬだけ。
諦めて一緒にいればいい。考えを捨てて飲まれればいい。幸いなことに、この沼は暖かく心地よいのだから。
「……姫!」
「貴方もマリア様に従いなさい。これは命令よ」
エリクシアが睨みつけると、ルールスは黙り込んだ。
全員を解放した後、マリアは手を叩いた。
「それでは、皆、しっかりと逃げてね」
マリアの後をついて階段を上っていく。
道中には昏倒している人間が何人かいた。兵士や侍従が、廊下の隅に寝かされている。どれも死んではいないようだった。彼らの歩みを止める人間は一人もいなかった。
外に出る。
壁に覆われた中庭。そこには兵士の姿もない、自由があった。
一か月前と同じように、月が明るく世界を照らしていた。
「罠ってわけでもなさそうだ。結局、何がしたかったんだ」
スタッグはマリアに問いかけた。
マリアは笑う。
「言ったでしょう。皆に幸せになってもらいたいの」
「それがわかんねんだよ」
「私は、皆に愛されたいの。貴方たちのおかげで、学院内での私の立場は盤石になった。同級生たちは、皆、私を好きだと言ってくれるわ。敵になってくれた貴方たちのおかげ」
「……」
「でも、それで終わりじゃあ、勿体ないでしょう? せっかく貴方たちとも出会えたんだもの、この出会いを捨ててしまうのはダメ。貴方たちにも私を好きになってもらいたいの」
「……なると思ってんのか?」
「なるわ」
マリアは断言して、大仰に両手を広げた。
「だって私はこんなにも強くて、可愛くて、頭がいいんだもの。そして、貴方たちを助けた恩人なの。ほらね、好きにならない理由がないでしょう?」
堂々と言い張るその姿に、場違いなくらい楽しそうな笑顔に。
その場にいる人間たちは息を飲んでいた。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
確かに、助けてくれた。でもそれは、彼女が引き起こしたことが原因だ。悪いのはマリアで、でも、正しいのもマリア。貶すべきか、感謝するべきか。
ぐにゃりと、足元が歪むような感覚。
ルールスもスタッグも、その他の人間も、言葉を発することができなかった。言いようのない感情に飲み込まれて、動けなかった。
エリクシアだけが、奥歯をかみしめて笑っていた。
「……くそ、ダメだ。これ以上話しちゃいけねえ。俺はさっさと逃げることにする」
スタッグは背を向けて歩き始めた。
他の面々も続いていく。
ただ、エリクシアだけは動かなかった。
「姫?」
振り返るルールス。
「私はマリア様についていきます」
エリクシアは笑った。
もう、脳が動かない。マリアの言う事以外聞けないくらい、脳がダメになってしまっている自覚があった。
そんなエリクシアを見て、マリアは恍惚の表情で微笑んだ。
「最高よ、エリー♡ よく、本当によくわかっているわ。私たちはもう、離れてはいけないの」
抱きしめられ、楽しくて嬉しくて幸せになる。
エリクシアは、自分の居場所を知った。
「彼らを見送った後、すぐに合流いたします。マリア様♡」
◇
七人を見送った後、一人で学院までの帰路を歩く。
良かった。
エリクシアはわかってくれた。
私の愛を受け取ってくれたからだ。つまり、やっぱり私は間違っていない。
私が愛を囁けば、皆私を愛してくれる。少しの暴力、精神的負荷、圧力、それらをブレンドすれば、人の心は簡単に瓦解する。
よくわかった。
嬉しいわ。また私は、人間を知れた。より深く、人間らしい化け物になれる。
一応、学院の規則として外出禁止があるので、見つからないように、耳をそばだてて歩く。
警戒をしっかりしていた。
でも、否、だから、だろう。
私は耳元の風切り音で、ようやくその存在に、攻撃に気が付いた。
膝を折ってかがむと、私の上をナイフが通り抜けていった。あのまま歩いていたのでは、首が引き裂かれていたかもしれない一撃。
地面を蹴って、背後にいる人物と距離をとる。
「……外すか、今のを。俺から出る音は、すべて消していたんだが」
「ナイフから出る、風を切る音は聞こえたわ」
「まあ、確証を得られてよかった。この攻撃を避けられる奴が敵にむざむざ捕まるなんて、そんなわけないんだからな」
私が振り返ると、そこにはCクラスの担任教師、ミドル・ライゼフが立っていた。
敵意を、むき出しにして。