2-21
衝撃と破砕音。
私が放り投げたエリクシアは廊下の壁を突き破って勢いよく転がって、地面を跳ねていく。近くに生えていた木々を三本ほどなぎ倒して、ようやくうつ伏せになった状態で止まった。
エリクシアは覚醒遺伝持ち。
翼を含めた全体は少女の二倍ほどの大きさ。もっと重いものだと思っていたので、調整を間違えて飛ばし過ぎた。人間の部位が残った竜人だからか、普通の女の子と大差ない体重だった。
心配だわ。
死んでいないといいけれど。
私が不安になって近づいていくと、うつ伏せに寝転がっていたエリクシアが起き上がった。額から血を流した状態で、頭を振って私を睨みつける。
とりあえず、一安心。
「良かった。元気そうね」
「擬態を剥がしたのに、……まだ、ここまでの差があるんですか?」
エリクシアは眼を見開く。信じられないものを見る様に呟いた。
でも、それは私も同じ。
「貴方、とっても強いのね。私が今まで出会った中で一番よ」
イヴァンもシクロよりも、Cクラスの皆よりも、王国の兵士よりも、エリクシアは強い。
その速さは瞬きの間に距離を詰めるくらいのものだったし、牙と爪は何人も止めることは叶わない強靭さを有しているだろう。
今夜私が相対した他の覚醒遺伝持ちとも一線を画す能力。放り投げられてもけろっとしている耐久性も素晴らしい。
強い。
とっても、強い。
それはつまり。
「貴方も、化け物なのね」
人と大きく異なった存在。人間の枠組みから外れた存在。
普通の人間が何人集まろうとどうしようもない力を持つ貴方こそが、化け物にふさわしい。
私と、オナジ。
貴方は他の人間よりも、私に近い。化け物に近い。
初めて見つけた同族。高揚しないはずがない。
私が笑顔を向けると、反対にエリクシアの眉が寄る。
「皮肉の、……侮辱のつもりですか」
「どうして? 本心から言っているのよ。貴方は私が今まで見てきた中で、一番強くて、化け物じみていて、私に近い存在だわ。今まで私は怖かったのよ。周りに”普通の人間”しかいなかったから。私だけが大きく理を逸脱した異端なんじゃないかって、世界から除け者にされているんじゃないかって、怖かったの」
孤児院にいた子供たちは特別で、
私はそんな孤児院の中でも特別で、
偉い子供、才能豊かな子供も交えた王国最高峰の学院の中でも特別で、
覚醒遺伝持ちの人間の中にいても、特別。
特別中の特別だらけで、嫌になる。まるで、世界が私に嫌がらせをしているような気さえする。
「でも、貴方がいたのね。貴方は私に近い。私と同じ。私は一人じゃない。良かった、とっても、安心したわ。それを教えてくれたエリーは、好き。大好き。愛しているわ」
世界に色が満ちたような気がした。
彼女の様な存在がいるというのなら、もっと上の力を持つ存在もいるのかもしれない。私が知らないだけで、この世界の反対側には私の様な存在がたくさんいて、私なんてその中では普通の存在なのかもしれない。特別だなんて言葉、馬鹿馬鹿しくなるのかもしれない。
知らなかった。私はこの王国という小さな世界しか知らなかったから、自分が化け物だと勘違いしていた。
広い世の中では私が足元にも及ばないような存在がもっと一杯いて、私が化け物と名乗るのは、むしろおこがましいのかもしれない。
やっぱり、無知はダメね。
未知は素敵。色んな可能性を秘めた、宝箱みたい。
「貴方に会えてよかったわ」
「私は、……貴方がわからない」
エリクシアの眉が、今度は困惑に寄った。
「私たちにこんなことをしておいて、混乱させて惑わせて、私たちの仲間じゃないと言っておいて、好き? 愛してる? どうして貴方の立場でそういうことが言えるの?」
エリクシアの困惑が愛おしい。
必死に私のことを考えてくれているのね。私を脳の中で暴れさせてくれているのね。
「そこも私と同じね。私も、ワタシがわからないわ」
だから。
「教えて、って言ってるの。私を、私のカタチを。貴方から見た私の姿を。貴方を通して知る、私の感情を、思考を、性癖を、余すことなく、オシエテ。それが、私になるから」
私は笑う。
ほら、綺麗な微笑みでしょう?
皆が好きだって言ってくれるから、貴方も安心して笑っていいのよ。
「ここで笑えるような神経をしてるやつと私を、一緒にするな!!」
エリクシアは再び大きく息を吸い込むと、炎を吐き出した。今度のは、先ほどの範囲攻撃ではなく、質量が乗っているような速度のある炎。炎弾に似ている。
「【炎弾】」
飛んでくる炎に合わせて、私も魔術を行使する。
四つの火焔にそれぞれ炎の弾をぶつけると、焦げたような音の後、エリクシアの方の炎が掻き消えた。私の炎弾はそのままエリクシアに向かって奔る。
「――くそッ!」
エリクシアはその場で翼をはためかせると、大きく宙に向かって跳躍した。そのまま翼を振って浮遊を始める。すごい!
避けられた私の炎弾が、木に当たって炎上する。月と炎、二つの光源によって、外は綺麗に照らされた。
「綺麗な翼ね。それに、口から炎を吐くなんて見たことがないわ。それも魔術なのかしら? 擬態を剥がしたって言ってたけど、普通の人間らしい姿になることもできるの? すごい。貴方は私が知らないことを、いっぱい持っているのね」
「……バケモンか。私の炎が一瞬で……」
「その呼び方はもう何度も聞いてるから、つまらないわ。他のを頂戴。それに、化け物と言う呼称に当てはまるのは、貴方もでしょう?」
「一緒にするな。私はマリアほど化け物じゃない」
ぞわっとした。
内臓を突かれたような、不気味な感覚。
「……一緒でしょう。貴方だって、世間から見れば、立派な化け物よ」
「そうだろうな。でも、そんな私がマリアには勝てる見込みがないと思ってるんだ。ここには、圧倒的な差がある……」
圧倒的差? 確かにあるけれども、普通の人との差に比べれば、まだ少ないんじゃないの? 貴方はどちらかというと、私に近いはずでしょう?
エリクシアは悔しそう。
でも、それだけ。
この、胸をかきむしられるような感情を、彼女は持っていないのだろう。
裏切られたような、絶望感を、知らないのだろう。
「っ、オナジヨ。貴方も、私も、オナジ、ここでは化け物とされる。だから、私は貴方が好きなの。大好きなの。愛してるの。同じ化け物の貴方に、私を教えてほしいの。ね、私の愛をあげる。だから、貴方の愛を頂戴」
化け物の貴方なら、私と同じ貴方なら、もっと私を教えてくれるでしょう? 私に近いところで寄り添って、同じ方を向いて歩いてくれるでしょう?
私は笑う。
みんなから好かれる笑み。
自慢の、笑顔。
でも、笑顔は返ってこない。
「うるせえ! てめえと話してると頭がおかしくなる! その口を二度と開くな!!」
激昂。
さっきまで貰って嬉しかったその感情に、何故か腹が立った。
ズキンとして、頭が痛くなって、同時に熱くなる。
私がこれだけ歩み寄ってるのに、貴方は私を拒絶する。こんなにも皮いい私を。
どっちが悪い?
私に近い化け物なのに認めないエリクシアと、それを懇切丁寧に教えてあげている私。
自明。
でも、私は知っている。
言葉では届かない思いもあるということを。
わからない子は、わからないのだ。しかし、それに対して、どうすればわかってもらえるのかも、私は知っている。孤児院で、他の子が教えてもらっていた。
手元に鞭がないのは残念だわ。
代わりに拳を握った。
貴方は知らないかもだけど、痛いのも、愛なのよ。
宙から急降下して迫ってくるエリクシア。私はそれを迎え撃とうと身構えるが、エリクシアは衝突する寸前で角度を変えた。一瞬で私の正面から側面に軌道修正すると、鋭い爪で私の脇腹を裂こうと振りかぶる。
「仕方のないじゃじゃ馬娘ね。躾けてあげる」
貴方が私のことを嘘だと言うのなら、ワタシはそれを真実に変えてしまえばいいだけだもの。
逃がさないわ。
是が非でも、認めてもらう。
可愛くて頭が良くて運動神経がある私の方が、絶対的に正しい世界なのだから。
世界の理は、何よりも――私を選ぶ。
私は襲来した強靭な爪を、肘と膝との間で挟み込んで砕いた。
「――ぅ」
白黒するエリクシアの目を見てから、その顎を右足で蹴り上げる。エビぞりになった身体、その脇腹を、地に着いた右足を軸にして左足で蹴り込んだ。みし、と足には変な感触が残った。
風切り音がして、エリクシアの身体が真横に吹き飛んでいく。
私はそんな彼女に並走する。
「圧倒的差っていうのは、こういうの?」
エリクシアが地面に転がったと同じタイミング。なんとか体勢を立て直そうとエリクシアが受け身とをとったタイミングで、再び蹴り上げる。飛び上がる前に宙に浮いた彼女の腕を掴んで地面に叩きつけた。バキ、という音がどこかで鳴って、エリクシアの顔が苦痛に歪む。
一瞬たりとも止まることのない状況で、私は彼女を遥か高くに放り投げる。その場で跳び上がると、エリクシアと並んだ私は拳をエリクシアの腹部に叩き込んだ。
メキョ、と砕ける音。そのまま急降下した彼女は大きな音とともに地面に激突。身体は地面にめり込んで、虚ろな視線を私に投げた。
私も着地して、頭から四肢から血を流している彼女の顔を覗き込む。
「確かに、あったわね、圧倒的な差が」
「……ぐふ」
口から真っ赤な血液が零れ落ちた。ぼろぼろの彼女は、吐息も浅かった。
翼は片方が折れ、両足は両腕はあらぬ方向に曲がり、四肢の鱗は剥がれ真っ赤な皮膚が顕になっている。眼も開き切らないのか、朝日を見る様な細い目で私を見ていた。
たった数秒の間に、彼女はぼろ雑巾みたいになってしまった。
大丈夫、そんなあなたも可愛いわ。
「さて、もう一回聞くわよ。私と貴方には、圧倒的な差がある。確かに、これは貴方の言う通りね。では、これは、貴方を化け物と定義しないものかしら?」
エリクシアの身体ががたがたと震えだした。
脳が半分しか回っていなさそうな顔をしているのに、本能は私を感じ取ってくれているらしい。目の前に誰がいるのかわかっているみたい。
嬉しいわ。今度はきちんと聞いてくれるといいけれど。
「貴方はどっち? 私に近いの? 私と同じ? それとも、普通の人間と同じ? ねえ、どっち? オシエテ?」
彼女の眼を覗き込む。
その瞳に映る私は、恐ろしい怪物。
でも、いいの。
貴方が同じになってくれるなら。
私を一人にしないのなら、ワタシはなんでもいいわ。
「ぅ、ぁ……」
「あら? 喉をやっちゃったの? それとも肺? 手加減したから致命傷じゃないし、そのうち治ると思うけれど。まあいいわ。首を動かして答えてね。貴方は人間?」
瞳を覗く。
カワイイエリクシアの首を撫でると、彼女はびくりと大げさに震えた。
ただの愛撫なのに、びくびくしちゃって可愛い。初心なのね。
「ぃ……」
エリクシアの瞳から水滴が流れてきた。
可哀想に、怖がっているのね。
この世界が、怖くて恐ろしいと思っているのね。
「大丈夫よ。私は貴方のことが大好きだから、殺しなんかしないわ。この後も、ちゃんと助けてあげるから。私が危険な世の中から貴方を守ってあげる。だから安心して、私に身を委ねて、今は私の質問に答えてね」
軽く、耳たぶを食む。
それから、私はエリクシアの耳元で囁いた。
「貴方は、化け物? 私と同じ?」
こくり、と。
首は縦に動いた。
動いてくれた。
「エリー♡」
私は彼女を抱きしめて、その震える唇にキスをした。
「そうよね。貴方と私は同じ。同じくらいの、化け物。二人して、世界の端っこで肩を寄せ合うの。だから、一生離れることはないの。嬉しいでしょう?」
また、首が縦に振られる。
ああ、良かった。
やっぱり、正しいのは私だった。
きちんと誠実に教えてあげたら、エリクシアはわかってくれた。私が正しくて、エリクシアは勘違いをしているだけだったのだ。
「大丈夫。貴方を救ってあげるから。私は皆を幸せにできるから。安心して、今はゆっくり眠ってていいからね」
◆
屋外で起こった戦闘。その顛末を見ている人物は二人いた。
そのうちの一人、フォンは青ざめた顔でマリアが笑っているのを見つめていた。
「嘘だろ。エリクシアがあんな一方的に……」
フォンが知る中でも、覚醒遺伝持ちの人間の上位に位置する彼女が、何のなすすべもなくやられてしまった。身体をぼこぼこにされて、心すら叩き折られて。
「……失敗、か」
周りを見ても、”味方”は誰も残っていない。全員身動きすら取れない状態にされている。
せっかく魔物討伐局という王国雇われの身分を使って協力したというのに、あまりに杜撰な結末だ。
「まあ、この結果を想像できるわけもないわな」
まさか兵士でも教師でもなく、生徒に化け物が潜んでいるなんて。しかも、話をしっかり聞いていたはずなのに、彼女の目的が判然としない。もっと、金だとか復讐だとか、簡単な理由だったら利用しがいもあったのに。
「マリア、か」
根っからの狂気を味わって、体が震えていた。
――アタシだって戦えば、どうなるか。
本能が叫ぶ。
そしてフォンは仲間の敵討ちよりも、本能を優先した。
「へっへ。仕方がない。どちらにせよ、私を見た人間で生きてる奴はいないんだ。このままこの身分を楽しむとしよう」
フォンは鼻で笑って闇の中に姿を消した。
◆
「とんでもないっす……」
クリスは眼前で繰り広げられた光景と手元の手帳とを見比べて、息を飲んだ。
まさか侍従が裏切っていたなんて知らなかった。覚醒遺伝持ちの人間がこんなに強いなんて知らなかった。世界がここまで悪意と敵意に塗れていたなんて知らなかった。
正直、何が起こっているか何もわからなかった。マリアとエリクシア、二人の剣呑な会話と雰囲気はわかったが、その後の戦闘の動きは全く見えなかった。瞬きをしている間に、エリクシアが地面に叩き落されて、マリアが馬乗りになっていた。
「す、スクープっす……」
とんでもない情報。手元には会話の断片と戦いの内容が記載された手帳。
独占できる現状、これをうまく公表すれば、クリスの知名度は爆上がり。記者としての軌道に乗れるだろう。歴史に残るような記事を、書き記すことができる。
しかし、同時に冷や汗も流れ落ちた。
起こったこと。どれをどこまで載せようというのだ。
「……とりあえず、皆と合流して」
それからどうするかを考えようと、手帳を懐にしまって振り返る。裏口の戸が見えるはずの視界は、金色が塞いでいた。
「記者魂はすごいわね、クリス。こんな危ないところですごいわ」
「うわっ、マリア!?」
慌てて先ほどまでマリアのいたところを振り返る。そこには沈黙したエリクシアしかいなかった。
「え、ええ……? 瞬間移動っすか?」
「ただ走ってきただけよ。ほら、足跡」
確かにマリアの指さす方向には足跡があるが、それが残っている方がマリアの異常性を証明してしまっていた。
「ここで起こったこと、さっきの戦いのこと、手帳に残してくれたの?」
「え、ええ、まあ」
「覚醒遺伝持ちの人間によって襲われたイーリス女学院の生徒たち。周りの兵士たちは殺され、王都から離れたこの場所では救援を呼ぶのにも時間がかかる。絶体絶命のピンチに、少女たちが立ち上がる。全員の尽力により、悪を退けた――そんなストーリー?」
「……」
マリアの笑顔に、クリスは苦い顔を返した。
マリアとエリクシアの会話を聞いてしまっていた。マリアが裏切っていたことも、さらに裏切りを重ねたことも、全部。
正直に書き記せば、悪いのは覚醒遺伝持ちの人間と、マリアになる。
「私は、その、嘘は……」
「世間はどんなストーリーを望むと思う?」
マリアが近づいてくる。
艶めいた唇で、誘惑するように言葉が紡がれる。
「耳障りの良い物語って、なにかしらね。
王都が生徒の将来のためにと厳選した侍従の中に敵が入り込んでいて?
例年通りの退屈な行事に油断した王国の勇敢な兵士たちは敵になすすべなく殺されて?
A、Bクラスの貴族はCクラスの庶民を放って自分だけ助かろうと立てこもって?
Cクラスの生徒が戦ってぼろぼろにされたことも実は全部無駄なことで?
デリカが見捨てられて、あと一歩で敵の手中に収まっていたような状況で?
この汚れ切った事実を、それを全部、正直に書き連ねるというの?」
マリアの言っていることはわかった。
正直に書けば、どこかで圧力がかかるような内容ばかり。誰もが不利益を被り、心に傷を負うような事実ばかり。ともすれば、クリスという記者の小さい口は永遠に塞がれることになる。
クリスは俯いた。
「た、確かに、でも
「でも。敵が強大過ぎて、かつ、兵士は生徒の避難を優先しないといけない不利な状況だった。兵士は生徒を身を挺して匿った後、勇敢に戦って惜敗、後を引き継いだCクラスの生徒たちが一致団結して残りの敵を捕まえた、だったらどう?
命を賭けた兵士のおかげで生徒に犠牲はなく、兵との戦いで疲弊していた敵は全員捕まえることができた。これだったら、王国の面子も守られるし、Cクラスの皆も讃えられて、A,Bクラスの子の溜飲も下がるわ。全員が勇敢な戦士で終われるの」
クリスは周りを見渡した。
ここまで隠れながら進んできたが、道中で見てきた兵士は全員死んでいた。敵を倒していたのは、イヴァンとシクロ、そして、マリア。兵士たちの剣はどれも新品同様に輝いている。
明らかな虚飾だ。
「全員が喜ぶストーリーだと思うけど。死んだ人も報われるわ」
「でも、それは真実じゃないっす。記者として、それを書くのは、邪道――
マリアの指が唇に当てられた。
柔らかい指は、反論を許さない。
「確かに。貴方の目から見た事実ではないわね。でも、それじゃあ、貴方の命も名誉も奪われるのよ。王国の偉い人から、兵士の遺族から、学院の親御さんから、貴方に非難が集まるの。わかる? 人が欲しいのは、汚くくすんだ真実じゃない。綺麗で耳障りの良い嘘なのよ。それに、結末は変わってないわ。ただ、辿った道が違うだけ。それなら、問題ないんじゃない?」
結末は、兵士の全滅、敵の全捕獲、生徒の生存。
それだけは、確かに今、この場に転がっている。
「貴方が少し考えを変えるだけで、皆が幸せになれるの。勇敢な兵士には報酬が、Cクラスの皆には尽力したという名誉が、震えている少女たちには命が、それぞれ与えられる。誰も、不幸せにはならない」
クリスは目の前が揺れているのを感じていた。
確かに、と思う自分もいる。
でも、父親は言っていた。記者は欲望に負けてはいけないと。自分たちだけが、声なき真実を届ける代弁者足りうると。いくら汚れていても、ぼろぼろでも、醜くても、真実を求めている人は必ずいるのだと。
でも、無残に死んでしまった兵士と、ぼろぼろになった同じCクラスの皆のしたことが無駄だったなんて、そんな真実、重すぎる。辛すぎる。
墓標に添えるのは、せめて英雄譚であってほしい。
誰も幸せにならない真実と、誰もが笑える偽りとが、天秤に乗って揺れていた。
「でも、でも……」
それは、自分の矜持が、事実と言う正義が、揺らぐことになる。
今までの自分を否定することになる。
「安心して。貴方を咎める人はいないわ。真実を知っているのは、私だけだから」
耳元で。
ぞくぞくするほど、怖いくらいに、その声は脳を揺らした。
「皆を幸せにできるのは、貴方だけよ」
全員が、ぼろぼろになっている。不安になって、怖がって、震えている。
この事件は、それくらいの衝撃をもたらして、今後も尾を引くだろう。歴史にも残る惨事となるだろう。
その時に残った記事が、無能な王国を中傷するものだったら? 無謀な庶民を貶すようなものだったら?
逆に、誉れが残れば? 悲しむ人の一抹の安心になることができたら。
それは確かに、素敵なことなのかもしれない。自分の記事で喜んでくれたら、それが一番なのではないか。
綺麗な嘘。言いえて妙だと思った。
罪悪感すら塗りつぶすような、暴力的な響き。
「……わかったっす。確かに、ここでの真実は酷っすよね」
「ええ。皆が再び立ち上がるための一押しが、真実にならないといけないわ」
「皆が英雄。……ふふ。確かに、良い記事になりそうっす」
「ありがとう。わかってくれてうれしいわ。じゃあこれはいらないわね」
気が付くと、クリスの手帳がマリアの手元にあった。クリスが懐を確認すると同時、手帳は焔に包まれていた。
「あ……」
炎に飲まれていくのは、真実と、クリスの今まで。
真実を書き記した歴史が、一瞬で煤となって夜に消えていく。
残ったのは、金色の微笑み。
「大丈夫よ。ここで起こったことは全部、ワタシが教えてあげるから。ね?」