2-15
◆
生徒たちがその出来事を知ったのは、大きな叫び声と、モノが倒れる音、壊れる音を聞いたからだった。将来はこうなりたいだなんて明るい未来の話をしていたのに、眼前には恐怖が差し迫っていた。
にわかに苛烈な気配に支配される宿舎内。
部屋に集まっていたCクラスの生徒にも、それは十分に伝わっていた。
「え、なに……?」
明らかに先ほどまでの雰囲気とは異なる。虫の鳴き声だけが響いていた宵闇に人間の悲鳴が混じりだす。
聞き逃さないようにと、体を強張らせる。
ぴくりとも動けない状況は、まるで時が止まったかのよう。
けれど、何もしないことこそ愚行である。
その場で最初に立ち上がったのはイヴァンだった。真剣な顔つきで部屋の扉を開けて、廊下を見つめる。視線の先、ちょうど部屋の前を横切ろうとした使用人を捕まえた。その真っ青な顔に、イヴァンの眉間の皺も深くなる。
「どうしました? 何が起こってるんです?」
「しゅ、襲撃です。外の兵士が全員死んでいて……。私も何もわからないんです、早く皆さんに伝えないと……」
それだけ言い残すと、使用人は再び駆け出した。
会話は部屋の中にいても聞こえていた。
全員が一気に悲痛な表情になる。人の死をここまで身近に感じたことは誰もなかった。
「……」
イヴァンは言葉一つ発されない空間の中で、思考を進めた。
誰が何のためにかはわからない。状況も戦況も、そもそもわからないことだらけ。
でも、優先事項はたった一つ。
「シクロ、行くよ」
「はい」
イヴァンがそう言って廊下に出ると、シクロは素直に従った。二人して得体のしれない廊下に脚を踏み出す。口に出さずとも、二人の目的は同じだった。
「ち、ちょっと、二人とも! どこ行くの?」
レインが真っ青な顔で問いかける。
「マリアのところ。何が起きようが、やることは変わらないからね」
なんの迷いなく言い切る二人に、ぽかんとする残りの七人。その数秒の茫然のせいで、二人についていくという選択肢を取り逃した。
イヴァンとシクロは二人、薄暗い廊下を歩き始めた。
「確かに、外からは血の匂いがしますね。あの使用人の方の言っていることは間違いではなさそうです。だとしたら、マリアは大丈夫でしょうか?」
心底心配そうなシクロの声。
イヴァンは鼻を鳴らした。
「マリアがこんなことでどうにかなるはずがないよ」
イヴァンは内心、少し呆れた。シクロは少し考えが足りない。イヴァンの心配はマリアが”どこにいるか”だけ。
マリアの一番恐ろしいところは、適応力にあると思っている。
どんな場所でも輝き、自身を主張する。まるで蝋燭の光。闇の中に薄っすら灯った光。蝶も蛾も関係なく、あらゆるものが彼女に吸い寄せられていく。そしてその蝋燭の光はゆらゆらと揺らめいて、近づいてきたものを飲み込んでいく。
食われた人間は自分が食われたことにも気づかない。
イヴァンは鼻を動かした。
何度も嗅いだ、マリアの匂い。一生脳内から離れることはない甘美。それは決して色あせることなく、二人をマリアの元に導いた。
マリアは、屋外、月光の下にいた。
扉を開いた先の世界に、イヴァンは息を飲んだ。
まるで絵画のように。
漆黒を背景に月の光を浴びた金色は、真っ赤な下地の上で輝いていた。
「待ってたわ、二人とも」
優雅に振り返る、美少女。
足元は、息を止めた死体の山。異臭と内臓が無造作に散らばる地獄絵図。
でも、切り株の上に座った彼女は、妖艶に微笑んでいた。
「……マリア」
イヴァンは息を飲んだ。背後では、シクロが嗚咽を噛み殺したようだった。
イヴァンの懸念を察して、マリアは手を振った。
「勘違いしないでね。これは私がやったことじゃないわ。私が来た時には、もうこんなになっていたの」
「どういうこと?」
不思議に眉を寄せると、マリアが近づいてきた。
純粋に、無邪気に、まるでお気に入りの玩具を見せびらかすかのように笑っている。
「これはね、エリー含む覚醒遺伝持ちの人たちがやったの。不遇ばっかりのこの世の中を変えたいんだって。それにしても、ひどいことよね。せっかく大人になるまで頑張って生きてきた人たちが、みーんな、死んでしまったわ。もったいない」
マリアの言う皆とは、兵士のこと。
武骨な鎧を身にまとった兵士たちの末路は悲惨なものだった。いずれも真っ赤になって、人としての機能を失っている。
「……うぇ」
シクロがついに吐瀉してしまった。
それくらい、広場は肉と油と血が入り混じった匂いが充満して、地獄の様な有様になっている。
ただ、そんな汚物に塗れた空間でも、マリアは美しかった。
満面の笑みは、汚れない。
「でも、こんな絶望的な状況こそ、ほしいものよね。英雄が、ヒーローが、救世主が」
「……どういうことですか?」
シクロが口を拭いながら問いかける横で、イヴァンはその言葉の意図を理解して震えた。
「マリア。……まだ完全に状況は理解できないないけど、やりたいことはわかったよ。大丈夫なの? それは、下手したら”全てから”恨まれる方法だと思うけど」
「イヴァンはやっぱりすごいわね! 頭がいいわ」
マリアが満面の笑みになったのを見て、イヴァンの心は温かくなる。
――そう。マリアのことを一番に理解しているのは、理解できるのは、私。
「確かに言う通り。私は今から、”全員の救世主”になる。でも、それができたとき、私はすべてを手に入れられると思うの」
マリアが伸ばしたのは、月。
宵闇の中で世界を照らす、唯一の存在。
誰も手に入れられていない、理想。
「私は、皆がほしいものをあげるの。絶好のタイミングで、最高の状況で。そうすれば、誰もが幸せになれる。私も、皆を”唯一助けられる存在”になれるの。全員の心の中の深いところに、住むことができるの」
それは誤認だ。
落とし穴に堕とした張本人が手を差し伸べるかのような倒錯。
でも、イヴァンだって、マリアの言っていることはわかる。
”落とし穴を掘った瞬間さえ見られなければ”、手を差し伸べた存在はマリアの言う通りの英雄であり、救世主足りうる。
犯人と探偵は、同一人物だって良い。
「そして、私にはそれができるわ」
マリアは笑う。
綺麗なくらい、怖いくらい。
「ねえ、手伝って、イヴァン、シクロ。私は全員に、愛されたいの!」
夢見る少女の様な顔で言われれば、イヴァンが首を横に振る選択肢は存在しなかった。
◆
「……アネット、アルコ、ついてくるのだ」
イヴァンとシクロが去った部屋の中。
残された七人のCクラス生徒。
茫然と二人を見送ってしばらくしたタイミングで、エイフルが立ち上がった。
「え?」と誰が呟いたかもわからない疑問符。
「これは危機的状況である。しかし、裏を返せばチャンスでもある」
エイフルは部屋の隅に立てかけていた自身の剣を手に取った。
「得体のしれない存在に、護衛の兵士たちが全滅? はっは。最悪な状況だな。だがしかし、敵の目的に予測はつく」
「え、な、なんで?」とアルコは震えながら。
「この場を襲うということがすべての答えである。有名な貴族令嬢の多々集まったこの課外授業。目的は彼女ら以外にあり得まい。人質にして要求するか、首を晒して愉快に嗤うか、それはわからんが、そんなものだろう」
「く、首って……」
震えるアルコを見て、エイフルは不遜に鼻を鳴らした。
アネットが「で?」と口を開く。
「そうかもしれないが、エイフル。あんたはこんな状況で何をしようってんだ?」
「無論、賊への天誅である。悪は栄えてはならんのだ」
「豪胆なことで。だが、敵は兵士を皆殺しにできるプロだぞ。私たちだけで戦いに行くなんて、むざむざ命を散らす行為じゃないのか?」
エイフルは口角を吊り上げた。
「尤もだが、この状況においては不正解だ。よくよく考えろ、私たちの価値を。名だたる貴族令嬢が多くいる中で、我々の価値は吹けば飛ぶようなものだ。例えば敵さんが人質を考えていたとして、それは首に名札のつく存在だけだろう。残りはどうなる?」
「……人質は五十人もいらないってか?」
「そうだ。捕まって何かあれば、真っ先に切られるのは我々だろう」
ごくり。
全員が、からからに乾いた喉を鳴らした。
「そんな未来ならば、足掻いて見せようと、そうは思わないか? 悪に屈したまま野垂れ死ぬなど、路傍の犬っころにすら劣る」
エイフルは口角の端を歪めた。
学院に入学して、半年。すでに学友との仲も縮まってきた頃。
Cクラスの中で、各々の性格も大体把握しているが、エイフルは時折無謀ともいえる行動をとるきらいがあった。良く言えば革新的、悪く言えばやけくそ。
だから、全員まずは疑った。
賛同するのは危険だと。
だが、そんな雰囲気を感じ取ってか、エイフルはあっさりと背を向けた。
「……ふん。臆病者め。私は一人でも行くぞ。ここで動かなければ、私が私である意味がない。途中でマリアたちも拾えれば僥倖だな」
「いんや、私も行く」
アネットも立ち上がった。その手には、アルコの首根っこを捕まえて。
「え、えええっ! な、なんで、私を捕まえてるの?」
「敵が覚醒遺伝持ちってんなら、おまえの魔術も必要だろ。魔術師団の力見せてくれよ」
「いやいやいや。私まだひよっこだし、こ、っこ、殺し合いなんて……」
「もしかしたら、すでにマリアたちは戦ってるかもしれない。弟子を見殺しにするのか?」
「……。……わかった」
渋々といった様子で、アルコも立ち上がった。
エイフルは満足げに頷いた。
「ふむ。これで最低限戦えるメンツはそろったか。作戦は移動しながら伝える。行くぞ」
残された者たちのことには目もくれず、エイフルは廊下に出た。アネットとアルコも続いていく。
「……」
残された四人はさらに茫然とした。
「……私も、少しやることがあるから」
そしてテータも立ち上がり、
「こうなると、私もちょっと欲が出てきたっす……。これはスクープっす。この取材を成功させれば、滅茶苦茶新聞売れるっすよ。ピンチはチャンスっす!」
クリスも。
戦闘能力のないはずの二人も、いそいそと廊下に出てしまった。
残されたのは、レインとスカイア。
まったく戦闘能力のない二人。
「……」
遠くの方で大きな音がした。
二人は肩を寄せ合って、お互いの手を取り合った。
「……とりあえず、私たちは避難場所に行きましょう」
震える足で、廊下に出たのだった。