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第5話 志摩の神珠〜伝奇『影流』〜前編

作者: 目賀見勝利

短編作品文字が6万字を超えるので前編、後編に別けて投稿しました。ご了承ください。一話完結作品です。

       《 志摩の神珠 〜伝奇『影流』〜 》

前編

      


 影流1;プロローグ

ドーハの悲劇


1993年10月28日、中近東の国カタールのドーハでサッカー・ワールドカップのアジア最終予選が行われていた。最終戦前までは日本が首位で、他の5カ国の先頭であった。

試合は2−1で日本がリードしておりW杯出場が目の前にぶら下がっていた。試合終了間際のイラク選手はコーナーキックのチャンスに、直接ゴール前へボールを揚げず、ショートコーナーで小刻みにボールを繋ぐ『意表を衝く』戦術にでた。ゴール近くを護っていた三浦カズ選手があわててボールに近づく。その守備位置をカバーする為、ゴール前にいた他の日本選手が守備位置を移動して、ゴール前が手薄になった瞬間、イラク選手がゴール前にボールを揚げた。そして、ゴール前にいたイラク選手が軽く頭でボールにあわせ、放物線を描いたボールがゴールキーパーの頭上を越えてゴールに吸い込まれ2−2になった。時に、試合終了まであと一分を切っていた。試合終了のホイッスル後、日本の選手はグランドに倒れ込み、立ち上がれないほどに落ち込んだ。敗戦に等しい引き分けであった。

日本が勝利すれば、FIFAワールドカップ初出場が決まったが、イラクと引き分けた為、3位となり、1位サウジアラビア、2位韓国がアメリカでの本戦出場を勝ち得た。北朝鮮との試合を先に勝利で終えていた韓国選手、韓国国民は日本がイラクにリードしている事で本戦出場を半分あきらめていたが、日本の引き分けで本戦出場が転がり込んできた。そして、韓国国民はこの事を『棚からぼた餅』とは謂わずに、『ドーハの奇蹟』と呼んだようである。

ちなみに、イラク選手がこの試合で日本に負けていたら、イラクの独裁者フセイン大統領の長男(イラクサッカー協会会長)による『鞭打ちの刑』が待ち構えていたとの事である。ともあれ、日本との引き分け試合『ドーハの悲劇』でイラク選手に起こる予定の『悲劇』が回避された。


悲劇の影に奇蹟があり、そしてもうひとつの悲劇が回避された。

イスラム教徒のイラク選手にとっては『インシャラー』(神の思し召しのままに)であったのかもしれない。



 影流2

鳥羽とーばの悲劇;2007年12月12日(水)午前10時頃 毎朝新聞 社会部


毎朝新聞社会部の事件記者である鮫島姫子は、新聞社のデータベースに入っている三重県の地方版を毎朝出勤と同時に事務机のパソコンで見るのが日課であった。姫子の実家は三重県伊勢市の二見が浦で旅館を経営しており、やはり、故郷の状況には興味があった。


「今日はどんな記事が載っているのかな?」と姫子はパソコンのマウスをクリックした。

「『鳥羽駅前でひき逃げ事件発生』か。どれどれ。」と姫子は興味深げに記事を読み始めた。


記事の内容は次のようなものであった。


『12月11日、午前11時ころ、国道42号線に面した、鳥羽駅前のバス停やタクシー乗り場がある引込ロータリーで放置車両確認標章を駐車違反車両に貼っていた確認機関監視員の清水和明さん62歳と信谷次郎さん61歳に白色のワンボックス車が突っ込んだ。2名の監視員は病院に運ばれたが出血多量と頭骸骨骨折などで死亡した。逃走したワンボックス車は信号無視を繰り返しながら二見ヶ浦方面に逃走した。逃走車を追跡したタクシーも信号無視はできない為、車を見失ったようであった。その後の警察の捜査で、二見ヶ浦の伊勢市営駐車場に放置されていた白色のワンボックス車が発見されたが、盗難車と判明した。警察は引き続き、目撃者の通報を期待している模様である。』

「ふーん、ひき逃げか。最近は飲酒運転の罰金が異常に高い為、警察の飲酒運転検問でも強行逃走する人間が多くなったと、下宿近くの交番のパトロール巡査が嘆いていたわね。逃走途中での事故発生の確率が高いので、警察内部でも検問を行なう際は入念な準備が必要になっているとの事だったわね。この事件の運転者も飲酒していたのかな?しかし、なくなった方のご家族にとっては大きな悲劇だわね。私が記事の見出しを書くなら『鳥羽とーばの悲劇』とするところだわね。うん、この事件は『悲劇』だわね、やはり。」と姫子は漠然と事故の状況を想像しながら、自分だったらどのような記事に書き上げるだろうと考えていた。

「しかし、二見ヶ浦の駐車場か。なつかしいな。そういえば、昨年は忙しくて、実家に帰省しなかったな。早起きして、二見興玉おきたま神社の夫婦岩からのご来光を久し振りに見るかな。神社前の海岸は相変わらずアマチュア写真家で賑わっているのかな。年が明けたら一週間くらい休暇でも採って、実家に帰るか。」と思いながら、他の記事に目を移していった。

                      


 影流3

依頼人;2008年2月15日(金) 午後4時頃 池袋駅西口広場近くの『弁慶寿司』


東武東上線池袋駅かJR池袋駅の北口改札を出て地下道を通り池袋西口広場に上がると正面にマクドナルドの看板が目にはいる。そこから、右方向に目を移していくと、極上ネタ・格安会計『弁慶寿司』の看板が掛かる間口4メートルくらいの小さなすし屋がある。このすし屋の看板には、もうひとつの案内が書かれている。

《大和探偵事務所 よろず相談、調査を安価にお請けいたします。当すし屋にお尋ねください。》


白のオーバーコートと黒系統の洋服に身を包んだ30歳前後の女性が夕暮れ迫る中、弁慶寿司のドアーを開けて中に入ってきた。


「いらっしゃいあし。」と板前が声を上げた。

「大和探偵さんが来るまで、待たせてください。」と女性が言った。

「店もいているからいいっすよ。しかし、この時間に大和の旦那が来るのをよくごぞんじで。面会予約でもされたんですか?旦那からは何もきいてないですがね。」と板前が怪訝な顔で言った。

「ええ、大和探偵の事はちょっと事前に調べさせて頂きましたから。うふふふ。」

「そうっすか。先ほど、大和の旦那から電話があって4時10分ころに来るとの事でした。今、旦那の注文を握っているところですが、ご婦人も何か握りましょうか?」

「いえ、結構です。お茶をいただければありがたいのですが。」

「ようござんすよ。テーブルに座って、少しお待ちください。」


しばらくして、北辰会館池袋本部での空手訓練を終えた大和太郎がすし屋に入ってきた。


「こんにちは、板さん。」と太郎が言った。

「お客さんすっよ、旦那。」

「えぇっ、お客?」と言いながら、太郎は店内にいる女性に目をやった。

「こんにちは。」と女性が会釈した。


太郎も会釈を返した。


「ご依頼したい事がありますが、ここではお話できませんので、お食事が終わったあと、西口広場の向こうにあるメトロシティホテルの255号室に来ていただけません?」と女性が言った。

「いいですが、あなたのお名前は?」

「失礼いたしました。田代慶子と申します。」と言いながら、女性は名刺を差し出した。

「田代真珠株式会社・取締役副社長さんですか。それでは、40分後くらいにお伺いいたします。255号室ですね。」と太郎が言った。


女性は、板前に礼を言ってから店を出て行った。


「田代真珠って、銀座にビルのある田代真珠ですか?」と板前が言った。

「名刺の住所は東京都中央区銀座一丁目となっているから、そうでしょうね、多分。でも、板さんも良く知っていますね。真珠には縁がなさそうだけど。」と太郎が冗談めかして言った。

「いえね、あっしの郷里の友達が真珠の養殖をやってましてね、田代真珠の事はよく話で聞かされていましたから。」と板前が言いながら、上握り2人前をカウンターの太郎に出した。

「その郷里の友人の話を聞かせてくれますか?」と、これから田代慶子との面談に対する予備知識を得ておくのが良いだろうと考えて、太郎が訊いた。

「いいっすよ。いえね、その友人の話では、会社を起こした時に、ひと騒動あったらしいっすよ。」

「どんな?」と太郎がつっこみを入れた。

「現在の本社は東京の銀座っすが、起業当時は三重県の志摩地方にある五か所湾に面した南勢町にあったんすよ。今は真珠のネックレスの製造工場があるようですがね。現在の町名は南勢町と南島町が合併して南伊勢町になっていますがね。今から40年くらい前らしいですよ、社長の田代幸造が真珠製造販売会社をこの地に創業したのは。親が亡くなって、その遺産を元手にして会社を興したらしいっす。その時、販売の目玉として『真珠の宝剣』を手に入れて、会社のシンボルにしたらしいんすよ。この宝剣は五か所湾近くの古墳から発見されたものらしいのですが、本物かどうかで意見が百出した代物でしてね。なんでも平安時代に志摩地方を支配していた豪族が古墳から発見したもので、代々家宝として受け継がれてきた代物らしいっすが、錆びが出ていないので偽物じゃないかと云う噂が飛び交ったらしいっす。発見時の状況を説明した文献がないのですが、代々、家宝として大切に保管されたので、美しいままだと田代幸造は主張したらしいですがね。」

「なるほどね。面白い話ですね。」と太郎が言った。

「あっしも、銀座のショールームに行って観てきましたが、外見上はなかなかの代物でしたがね。いやぁ、金ぴかで立派な物でしたよ。真珠も形は悪いが、大きなのが5個、小さい真珠が5個の合計10個はめ込まれていましたね。」と板前が太郎に説明した。

「宝剣の長さはどのくらいでした?」と太郎が訊いた。

「このくらいでしたから、1メートルくらいっすかね。古代刀と呼ぶんですかね、反りのない真直ぐな刀でしたね。あれは、実用にはならない、飾りもののほこと云った代物ですね。」と板前が両手を広げて刀の大きさを示しながら答えた。



 影流4

捜索依頼;2008年2月15日(金) 午後5時頃 池袋メトロシティホテルの255号室


「実は、私の父親が失踪して2ヶ月になります。父、田代幸造の所在を発見して頂きたいのです。わが社の顧問弁護士から大和様は優秀な探偵だと聴いております。特に、大分県のB大学教授の行方不明捜査では、短期間で無事発見されたと聞き及んでおります。ぜひ、父を見つけ出していただきたいのです。これが父の写真です。顔がわかるように上半身の写っているものを選んできました。」と田代慶子が話を切り出した。

「失踪ですか。誘拐とか、死亡している可能性はないのでしょうか?」と大和太郎が応じた。

「判りません。先月の12月8日に『真珠の宝剣』と呼ばれている国宝級の品物の盗難事件が銀座の弊社ショールームで有りました。盗難は秘密裏に処理をしましたので新聞記事にはなっていません。現在は事前に作らせてあったレプリカを展示しています。」と慶子が言った。

「警察には届けていないのですか?」と太郎が言った。

「ええ。12月8日の早朝7時に弊社の社長である父が銀座のショールームに出勤してきて、最初に盗難を発見しました。従業員はまだ出社しておりませんでした。ショールームは本社ビルの1階にあります。ビルの6階が最上階で、社長室と副社長室があります。従業員には、父の個人的な知り合いに一時貸し出した事にして、現在は真珠の宝剣のレプリカが展示してあります。盗難を知っているのは父と私の二人だけです。いえ、あなたの3人です。」と慶子が言った。

「違いますね。犯人が一人として、最低4人の人間は知っていることになりますね。複数犯ならもう少しいますが。その『真珠の宝剣』には盗難保険を掛けていないのですか?」と太郎が言った。

「保険は掛けていますが、今回は特殊事情の為、損害保険会社にも報告していません。弊社ビルの警備会社にも知らせていません。父が警察には届けるなと申しましたので。」と慶子が言った。

「警備員は常駐していないのですか?」

「ええ、インターネットカメラによる遠隔監視で契約しておりますので、駐在しておりません。ただ、営業時間中は守衛が1名、従業員通用口の守衛室におりますが、終業後は帰宅しますので、無人になります。出口ドアーは最後に退社する人間がカギをかけますが、2枚扉のうちの外側扉は自動ロックになっています。」

「監視カメラや警報装置は正常に動作していますよね?警報は鳴らなかったのですか。盗賊はどのような方法で侵入し、どのように出て行ったのでしょうかね。」と太郎が訊いた。

「分かりません。合鍵でも持っていたのかも知れません。事件後は鍵を付け替えました。勝手な理由を付けて、警備会社にある監視カメラの録画を簡単にチェックしましたが、異常は見つかりませんでした。ショールームの入口、出口にも監視カメラがありますが、静止画写真をみているようで、何も変化していません。展示室全体を見渡す監視カメラも同様でした。」と慶子が言った。

「そうですか、不思議ですね。まあ、今回のご依頼内容は盗難事件の調査ではなく、失踪中のお父様の発見と云う事ですので、盗難の状況調査はいたしません。ところで、一体、どのような事情ですか、特殊事情とは?」と太郎が訊いた。

「これです。これはコピーですが、実物は父が持っています・・・。盗難品が展示してあった場所に置かれていたとの事でした。」と言って、慶子が四つ折りにしたA4サイズの紙切れをハンドバッグから取り出して太郎に見せた。


『ちょっと早いクリスマスプレゼント! 影丸。』と紙切れに書かれている。パソコンで打った文字をプリントアウトしたものであろう。明朝体のフォント文字で書かれている。


「影丸とは?」と太郎が訊いた。

「父に訊きましたが、知らないと云う返事でした。何も判りません。でも、警察に届けないのは紙切れの所為だと思います。この紙切れを見ている父の表情が何か複雑な状況に直面した時の顔になっていたのと、紙切れを持った父の手が少し震えていましたから。盗難事件の二日後の12月10日から父の姿を見ておりません。」と慶子が答えた。

「『真珠の宝剣』とはどのような事情のもので、どのような物ですか?」と知らない素ぶりで太郎が訊いた。

「真珠の宝剣は素環刀と呼ばれる握りの端が環になっている古代の直刀です。真珠が剣の中心線である鎬筋しのぎすじを中心にして左右に5個づつ、合計10個埋め込まれています。刀の長さは全長110センチで金メッキが施されています。装飾目的で製作されたと考えられます。父が田代真珠を起業するとき、知人から金銭を支払って譲り受けたものとの事でした。その知人の氏名、所在など、一切は教えてもらっていません。父は創業以来ずーっと、真珠の宝剣の由来を自分で調査をしていましたが、これと云った証拠の文献は見つかっていないようです。これが、実物の写真です。」と言いながら、慶子が『真珠の宝剣』の写真が入った田代真珠のパンフレットを一枚ハンドバックから取り出して太郎に見せた。

「刀身に埋め込まれている真珠のうちの5個は、自然真珠としては世界でも10本の指に入る大きさのものです。三重県の伊勢志摩地方で発見された古墳から出土したものではないかと言われていますが確証はありません。金メッキが刀全体に施されていますので錆びが出ていません。たぶん、この宝剣を所有していた方々が、家宝として丁寧に保管し、時には磨きの手入れをなさっていたのだと思います。奈良の大仏が創建された時と同じ塗りメッキ技術ではないかと云われています。メッキ技術から推定して中国大陸で製作された可能性もありますが、詳細は不明です。発見されるまでは、石棺に入っていたので金メッキが風化せず残り、錆びが出ていないのだろうと推測されています。世界の真珠業界の人で、この宝剣の事を知らない人間はモグリと云われるほど、その筋では有名なお宝です。南北朝時代の志摩地方の豪族が代々家宝として所持していたものを江戸時代に伊勢地方の松阪に本拠がある商家が金銭と交換で手に入れたもので、明治時代に入ってからは持ち主が変わって、古美術商を転転としたようです。戦後、起業時に父の手に入ったもののようです。製作年代やどの古墳で発見されたかの記録がありませんが、その豪族の家宝緒言の中に、志摩地方の古墳で真珠が埋め込まれた宝剣が発見された旨の記述が残されています。」と慶子が宝剣の由来を説明した。

「お父様の所在を発見する手がかりはありますか?」と太郎が訊いた。

「判りません。」

「お父様専用の書斎などの部屋はありますか?宝剣の調査資料などを見たことはありますか?」

「ええ。父の自宅に12畳くらいの広さの書斎兼書庫があります。軽井沢の別荘にも書斎があります。現在、私は銀座の近くのマンションに住んでおりますから、父とは別居しております。宝剣の調査資料などは見た記憶はありません。」

「お父様の奥様はご健在ですか?」

「いえ、5年前に他界しております。再婚はしておりません。」

「僭越ですが、親密な女性の存在は?」

「判りません。私の知る限りではいません。通いの家政婦さんが毎日来られていますが、年配の方ですので、あまり関係ないと思います。」

「そうですか。今後の捜索の手掛かりを見つけるため、明日、幸造氏の書斎を拝見させてください。」

「判りました。午後ならスケジュールが空いていますので、午後2時頃に父の自宅に来てください。住所は東京都世田谷区松原○○○です。捜索費用はいかがいたしましょう?」

「行方不明者捜索の基本料は20万円ですが、田代幸造氏の所在を発見した場合の成功報酬は別途50万円頂きます。捜索実費は領収書などを添付して別途支払い請求書を提出しますが、事前に了承を頂きますので、携帯電話の番号をお教えください。今回の場合、情報源への情報提供金が必要な場合が出る可能性もあります。その場合は事前相談いたします。捜査状況報告は逐次いたしますが、基本的には2週間に1回とします。それでよろしいでしょうか?」

「結構ですが、宝剣盗難の事は秘密にして捜索ねがいます。」

「判りました。捜索方針と経費見積もりについては、明日からの書斎調査後に説明提出させていただきます。それでは、明日よろしくお願いいたします。」と太郎は言って、ホテルの部屋を辞した。



 影流5

書斎調査(1);2008年2月16日(土) 午後2時頃  田代幸造邸2階の書斎


「今日は徹夜になりそうですので、よろしくお願いいたします。この近くにコンビニか食事ができる処はありますか?」と太郎が慶子に訊いた。

「夕方、お寿司の出前を手配いたしますので、ご心配なく。握りの特上2人前でよろしかったですわね?」と慶子が言った。

「助かります。聞きたいことが発生すれば呼びますので、他の部屋で休憩していただいて結構です。」

「分かりました。隣りが私の部屋でしたから、そこにいます。いつでもお呼びください。」と言いながら慶子は書斎を出ていった。


「しかし、沢山の本があるな。どこから見ていくかな?しかし、剣術関係の本が多いな。真珠の宝剣を会社のシンボルにするくらいだから、好きなんだろうな、剣術が。」と壁一面の書架を見ながら、太郎はため息を吐いた。


表紙の裏面に蔵書印が押されている書物を順次、書架から取り出しては内容を調べていった。


「白戸良平作画・忍者武芸譚1〜15巻か。たしか『影丸』だったな、犯人が置いていった文面の主は。影丸は忍者かな?」と太郎は、本棚の最上段の真ん中あたりにある連載劇画本に目がとまった。


太郎は踏み台に上って、忍者武芸譚を適当に3冊ほど抜き出し、書斎机に座って中身を読んでみた。


「なかなか面白いな。忍者の術を科学的に解説している点がユニークだな。」と思いながらページをめくっていった。

「居合抜刀術の林崎甚助の登場か。」と思ったところで、最初に通された応接間に飾ってあった日本刀の事を思い出し、アルバム写真の事が頭に浮かんだ。

「確か、以前に記念写真の存在がポイントだった事件があったな。あの日本刀に関連して記念写真とかがあるかも知れないな。慶子さんに聞いてみるか、田代幸造氏のアルバム写真の存在を。」



 影流6

書斎調査(2);2008年2月16日(土) 午後4時頃  田代幸造邸1階リビング


「アルバムはこの部屋の家族用書架に置いてあります。」と慶子は言いながらガラス扉付の書架から4冊のアルバムを取り出した。

「お父様の田代幸造氏は剣道をなさっていましたか?」と太郎が訊いた。

「ええ。剣道ではなく古武術の居合抜刀や柔術の鍛錬をしておりました。確か、都内の江東区亀戸かめいどにある『薩摩直伝神巌流』の道場に入門していたと思います。」

「古武術関連の記念写真などはありますか?」

「ええ。確か、これが古武術関連の写真アルバムだったと思います。」と言いながら慶子は、紫色のアルバムを開いて太郎に渡した。


1ページづつ丁寧に写真を見ていた太郎が、一つの写真を示して慶子に訊いた。


「この記念写真が写っている神社の名前はわかりますか?」

亀戸かめいどの香取神社です。確か5年くらい前、『薩摩直伝神巌流』の門人の皆さまと『亀戸香取神社古武道奉納演武会』に参加した時の写真です。」

「真珠の宝剣は知人から購入されたとの事でしたが、この写真の中にその知人の方はいるのでしょうか?」

「分かりません。知人といっても、古武術のお仲間であったかどうかは、父からは何も聴いておりません。」

「そうですか。応接にある刀は真剣の本物ですか?」

「ええ、本身ほんみの日本刀です。江戸時代の刀工で清麻呂とか云う人物の製作と聴いております。清麻呂はやや大きめで重たいので、居合抜刀には向いていないようです。父が居合抜刀術の鍛錬を裏庭で行う時には別の軽く小さ目の刀を使用しています。私が小学生のころ、庭で稽古中のところを観ていると、『慶子、これが≪影の流れ・疾走しっそう剣≫だ。』とか言ってよく演武してくれまた。」

「えっつ、『失踪しっそう剣』!?今回の田代幸造氏の失踪と関係しているのでしょうか?」

「あら、いやだ。行方不明の失踪しっそうではなく、疾風はやての疾と走ると書く『疾走』です。おもしろい探偵さん。おほほっ。」と慶子が笑った。

「ああ、そうですか。早合点しました。」と頭を掻きながら、太郎が言った。

「≪疾走剣≫と云うのは、父の書斎にある劇画の『忍者武芸譚』に出てくる剣法らしいですけれど、私にはよくわかりませんでした。抜刀の動作で前方にいる一人を斬り、刀をさやに収める動作で後方の二人目を斬る剣術だそうですが。」

「『影の流れ』ですか?」と太郎が訊き直した。

「ええ。影の流れと申していました。それが何か?」

「いえ、『影丸』と関係あるのかどうか、と思いましてね。ふーむ。・・・・。」

「そういえば確か、『忍者武芸譚』には影丸と云う人物が登場していたと思います。昔、父がいない時に、父の本棚から取り出して盗み読みをしましたから。15巻のうちの、どの巻であったのかは覚えていませんが。影丸の章とかだったかな?」

「あとで調べてみます。ところで、南勢町とはどのような土地ですか?」と太郎が訊いた。

「ああ、お調べになられたのですか?わが社の創業の地のことを。」

「いいえ。よく知りませんので、お教えいただきたいと思いまして。」

「現在、南勢町は町村合併で南伊勢町になっていますが、父の生まれ育った土地で、弊社創業の土地です。田代家の本籍がある町です。三重県の志摩半島にある五か所湾に面した漁業を主体とした土地柄です。遠洋漁業の基地のほか、五か所湾で真珠貝や魚の養殖も行っています。しかし、愛洲家と云う地方豪族の城下町でもありました。南北朝時代には南朝方の北畠家に協力して活躍したこともあるようです。愛洲氏の水軍なども存在していたと云われています。熊野水軍の一翼を担った時代もあったのではないでしょうか。愛洲家からは愛洲移香斉あいすいこうさいという剣客が出ています。戦国時代に『影流』と云う剣術流派を開いた人のようです。やはり、影丸と影流は関係あるのでしょうか?」

「それはどうでしょうか。『移香斉の影流』と『影の流れ』とは意味が違います。『影丸』との関係は今後の調査ではっきりしてくるでしょう。愛洲移香斉については私も武道空手を志す人間ですからよく知っています。」と太郎が答えた。

「『影流』とはどのような剣法ですの?」と慶子が訊いた。

「愛洲移香斉は剣術修行の旅の途中、京都で住吉という人物と他流試合をして負けるのです。その後、全国を流浪し、九州の鹿児島の大隅半島近く、日向(宮崎県)の海岸にある鵜戸神宮の岩壁にある洞窟に籠って修行を行います。ここで剣術を究めたいと神様に願を掛けて鍛錬し、影流の奥義を見つけ出します。ある日、夢の中に蜘蛛があらわれ、この蜘蛛を掴もうとするのですが、ここと思えば、あちらに現れ、あちらと思えばこちらに現れ、といった調子で蜘蛛を捕まえることができなかったようです。このことをヒントにして剣術の動きを鍛錬し、移香斉は奥義を悟ります。そのとき、夢に老翁が現れて『この剣法を影流と名付けよ!そして、大隅に居る住吉と云う人物にこのことを伝えよ。』と移香斉に申し渡します。移香斉はその住吉なる人物と試合をして勝利を納めます。なぜ影と謂うのかといえば、影は実体のないもの、あるいは、実体から離れているので、影を追いかけても相手を斬ることはできません。対決相手に影を追わせることで、自分の身は安全になるわけです。相手にすれば、対戦相手が影ですから相手の正体が掴めないので切り込むのに躊躇することになります。すなわち勝機が見いだせないまま時間がたち、疲れたところに斬り込まれて負けてしまいます。剣術と云うのは相手の『気』を受けて戦います。ですから相手の気の動きに注意しながら斬り込むチャンスを窺います。相手にこちらの気の動きを読まれたら負けです。もう少し分かり易く言えば、こちらの呼吸を読まれないことが重要です。空気を吸う時に相手から切り込まれると負けます。人間は、空気を吸い込む時に力を外に向けて発揮することがきませんので、受けが出来ないわけです。相手は斬り込む時には空気を吐きながら打ち込みます。剣道などで『タァー』とか『ウリャー』とか言いながら打ち込むのは気(空気)を吐きながら動くことで力が出るからです。逆に相手の正体や実力が分らない時は、打ち込む素振り(気)を見せて、相手の影(気)を動かすことで相手の力量や正体を推し量ります。この影流を基に、上泉信綱こういずみのぶつなという剣客が、新陰流を発案し、さらに柳生石州斉せきしゅうさいという人が柳生新陰流を編み出し、柳生一族に伝承されていきます。この影流から新陰流、柳生新陰流の剣法の流れの事を『影の流れ』と呼ぶ人がいます。」と太郎が慶子に説明した。

「ところで、創業当時の写真はどれでしょうか?」とアルバムを選びながら、太郎が慶子に訊いた。



 影流7

書斎調査(3);2008年2月16日(土) 午後8時頃  田代幸造邸2階 書斎


書斎に戻った太郎は アルバムを見ながら考えを巡らしていた。


「この写真の病院はどこにあるのだろう。現在も存在しているのかな?笠谷病院か。」と思いながら、看護婦や医者、病院関係者たちと記念撮影している田代幸造の背後にある建物の病院名を読んだ。

「先ほどの慶子さんの話では、幸造氏は創業当時のゴタゴタで胃潰瘍になって入院したとのことであったが。この写真に写っている看護婦の中の一人が幸造氏と結婚され、慶子さんを生んだのだから、浅からぬ関係がある病院ということになる訳だな。調査対象に入れておこう。」



 影流8

書斎調査(4);2008年2月16日(土) 午後10時頃  田代幸造邸2階 書斎


大和太郎は書棚の最下段右隅にあった日本地図帳を開いた。

そして、表紙のすぐ裏に挟んであったA0サイズの大きな日本地図を広げて、一本の直線が九州鹿児島から関東地方の茨城県まで引かれているのを見つけた。


「この一本の直線と直線上の丸印は何だろう?九州鹿児島の霧島山、と三重県伊勢、それに富士山と茨城県鹿島市。それから東京千代田区と江東区か。これらが一直線上に乗ると云うわけか?」と太郎は考え込んだ。

「しかし、この地図は折り目が色褪せているから古いな。いつ頃発行された地図かな?1970年1月発行・草文館出版か。今から38年前か。田代真珠の創業が1971年だから、その頃のものだな。と云うことは、どういう意味になるのだろう、この直線は・・・・?」


太郎は、しばらく考えてから日本地図帳の東京都のページを開いてみた。


「千代田区は皇居に丸がついているな。江東区は亀戸に丸印が付いているな。亀戸香取神社かな?そうすると、鹿児島は薩摩直伝神巌流か?うむ・・・。とすると、伊勢と富士山はどうなる?それに、皇居との関係は?わからないな。ちょっと、推理が間違っているかな?剣術修行という観点に立てば、皇居は江戸城と考えるべきかな。江戸城として、太田道灌の時代か、北条氏の時代か、それとも徳川家康の時代か?影の流れと関係するのかな?茨城県鹿島市なら剣聖・塚原卜伝を生んだ鹿島神宮があるな。藤原鎌足も関係するのかな?あとは富士山と霧島山、それと伊勢か。刀剣ではなく神社が関係するのかな?富士浅間せんげん神社、霧島神宮、伊勢神宮か?伊勢か?伊勢神宮ではないかもな?」と考えながら、太郎は日本地図帳の三重県のページを開いて、伊勢二見が浦に丸印が付いているのを見つけた。鹿児島県のページは霧島市、静岡県のページには富士宮市に丸印がついている。

「やはり、伊勢神宮ではなかったか。二見が浦なら夫婦岩みょうといわのある二見輿玉おきたま神社ということか。どういう関係かな?神社の事なら藤原先生に聞いてみるべきだな。午後10時か。まだ、先生は寝ていない時間だな。電話してみよう。」と太郎は思いながら、携帯電話で京都の藤原教授に電話した。


「霧島神宮の祭神は天孫ニニギみことであり、富士山本宮浅間神社の祭神は国津神である木花咲姫命このはなのさくやひめのみことだよ。天孫ニニギ尊は天照大神の指示で高天原から地上へ天孫降臨した。その時、道案内をしたのが、二見輿玉神社の祭神である猿田彦尊である。そして、天孫ニニギ尊と木花咲姫命は結婚して彦火火出見命ひこほほでみのみことを産むのだよ。この彦火火出見命の孫が大和朝廷の初代天皇・神武だよ。また、猿田彦は天孫族の道案内の時に最初に話をした女神である天宇受売命あめのうずめのみことと結婚して伊勢神宮の近くの地に帰ったことになっている。そうか、霧島神宮と富士山本宮浅間神社は二見輿玉神社の夫婦岩を間にして直線で結ばれているのか。流石の私も気がつかなかったな。さしずめ、猿田彦と天宇受売が天孫族と国津神の仲人なこうどと云う訳だな。余談ながら、日本の『見合い結婚』の原点はここにあるのかも知れないね。そして、茨城県の鹿島神宮がその直線上にあると云うのは、藤原鎌足や藤原一族の影が見えるな。それに、亀戸香取神社がこの直線上にあるのか。藤原鎌足を調査研究しているとき、亀戸香取神社が出てきた。東京江東区の亀戸は藤原鎌足の奈良時代には亀津島かめのしまと云って東京湾に浮かぶ島だったようだ。江戸時代になって、埋め立てが行われて陸続きになったようだがね。千葉県の香取神宮からこの亀の島に香取神宮の祭神・経津主ふつぬし大神を勧請したのが藤原鎌足で、太刀一振りを奉納して東国の安全を祈願したらしい。これが亀戸香取神社の由緒だよ。調査した当時は千葉県佐原の香取神宮が亀の形に似ている小高い丘『亀甲きっこう山』に鎮座しており、東京湾の『亀の島』も亀の形に似ているので香取神社をこの地に勧請したのだろうと思っていたのだが。そうか、そう云う意味があったのか。この直線上の神社の名前を比較すると何か新しい推理できそうだな。これは、面白い話になってきたな。国津神の天孫族への国譲り神話の真実が見えてくるかもしれないね。大和くん、その失踪人の捜索状況が進んだら、また、話を聞かしてください。電話を待ってます。よろしく。」と携帯電話の向こうで、藤原教授が興奮しながら話した。



※香取神宮;

 千葉県の北東端、茨城県の霞ヶ浦に近い利根川近くにある神社。祭神は『経津主ふつぬし大神』で、またの名を『伊波比主いわいぬし大神』とも云う。茨城県の鹿島神宮の祭神である『建御雷たけみかづち大神』と共に、大国主命に日本国土の国譲りを了承させた神様。二神とも剣術の神様として、武道愛好家に祭られている。藤原不比等が主導してまとめた『日本書紀』では、天照大神から国譲り交渉の担当に指名されたのは経津主大神であったが、強く自薦した建御雷大神も加えることになった。ところが、天皇家主導でまとめられた『古事記』では天鳥船神と建御雷神の二神が国譲交渉をした事になっている。とすると、経津主大神は天鳥船神ということになるのか?不明。更に、『宮下文書』には天太玉あめのふとたま命の孫兄弟4人のうちの二人とされている。第一子が若武主、第二子が建御名方、第三子が経津主、第4子が建御雷である。古事記では、天岩戸神話のなかで、天太玉命が御幣を持ち、天児屋命が祝詞を奉唱し天照大神を祭ったとされている。天太玉命は忌部(斉部)氏の祖先であり、天児屋命は藤原(中臣)氏の祖先である。いずれも、祭礼奉仕の家柄である。宮下文書と云うのは、富士山麓高原に古代文明『高天原』が栄えた事を記述した富士皇大神宮の富士古文書の事で、そこの神官である宮下家が保管していたのでその名がついた。別名『徐福文献』とも呼ばれている。徐福とは、中国の秦始皇帝の時代に紀州熊野(新宮市)に上陸した仙術士で富士山に不老不死の霊薬があるとして、日本に渡ってきた人物である。男女500人づつの船団で渡来してきたらしい。古代に『五百いおう』と云えば、『多い』を意味する言葉であり、500人と云うのは多くの人々と解釈すべきであろう。宮下文書は神代文字で書かれていたが、徐福が漢文に翻訳して富士古文書ができ、宮下家に保管されてきたらしい。

徐福の実在性や徐福の創作と疑う学者からは偽書扱いされている面もある。



 影流9

調査方針説明;2008年2月20日(火) 午前10時頃 銀座の田代真珠副社長室


大和太郎が田代慶子に今後の調査方針と経費予想の説明をしている。


「以上説明いたしましたように、鹿児島県の霧島神宮、宮崎県鵜戸神宮、三重県の二見輿玉神社、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社、亀戸香取神社、鹿島神宮、香取神宮、に出張調査いたします。また、三重県の南伊勢町かその近辺にあると思われる笠谷病院のほか、鹿児島県の曽於そお市末吉にある『薩摩直伝神巌流』の宗家を訪問いたします。笠谷病院の所在については現地に行ってから調査いたします。」と太郎が説明した。

「ちょっと、お待ちください。」と言って慶子が隣の社長室に入って行った。


しばらくして、慶子が社長室から関東道路地図帳をもって戻ってきた。


「この道路地図は普段、父の自家用車に置いてあるものですが、このページをご覧ください。」と言って、東関東圏全体のページと都内全域のページに引かれている直線と丸印を太郎に見せた。

「なるほど、千葉県の香取神宮と東京都江東区の亀戸香取神社、皇居の半蔵門が一直線上にありますね。そして、茨城県の鹿島神宮と亀戸香取神社、皇居の桜田門が一直線上に乗ると云うことですか。この関係が何を意味するかですね。亀戸香取神社に謎を解く鍵がありそうですね。藤原鎌足が何故に香取神宮の経津主大神を亀の島に勧請したかですね。皇居と亀戸香取神社の関係については資料調査を行ってから、回答をいたします。いずれにしても、田代幸造氏の足取りはこれらの調査地のどこかに残されていると考えます。」と太郎が言った。


そして、

「藤原教授の藤原鎌足に関する推理がどうなっているのかな。九州鹿児島からの帰りに京都に寄って教授と話してみるか。しかし、今回の事件はなんとなく日本全国の旅になりそうだな。」と太郎はばく然と予感した。

「父は生きているのでしょうか?」と不安な表情で慶子が太郎に訊いた。

「拉致誘拐されたと仮定して、身代金の要求がないので、別の目的があると考えられます。殺されているとすれば、恨みのある人間が今回の調査地のどこかにいるでしょう。幸造氏自ら姿を隠す理由は見当たりません。副社長であり、娘でもあるあなたに所在を知らせない理由が見出せません。とりあえず、交通事故死の身元不明人を調べてみますが、幸造氏なら身分証明を示す免許証や名刺を身につけているでしょうから、事故死していれば、すでに警察から連絡が入っていてもいいでしょう。いずれにしても、生存を前提として調査活動を進めます。拉致監禁されているとすれば、その理由が真珠の宝剣にあると想像できます。真珠の宝剣の持つ意味が今回の調査地にあるはずです。身代金目的ではないので、警察が動いたと判明した時点で、拉致誘拐犯が幸造氏を殺す可能性も考えられます。ですから、当面は警察には捜索願いを出さない方針で調査したいと思います。よろしいでしょうか?それと、影丸の件ですが、置き文の文面やその文面を見た幸造氏の反応から推測して必ず、幸造氏の知り合いの中に影丸なる人物がいるはずです、幸造氏の味方なのか、誘拐犯人側にいるのかは不明ですが。ところで、笠谷病院にご知り合いは居ますか?」と太郎は慶子に訊いた。

「父や母の知り合いならいるのかもしれませんが、私には分かりません。私の知り合いは居りません。」と慶子が言った。



 影流10

鹿児島県曽於市末吉の『薩摩直伝神厳流』本部;2008年2月22日(金)


「田代幸造氏は毎年11月15日から20日までの間に行う神厳流全国夏合宿には必ず出席されていました。ここから2キロほど南に住吉山があり、その中腹に住吉神社があります。この神社の例大祭が11月19日にあり、古式の流鏑馬やぶさめが行われます。住吉山の麓に神厳流合宿道場があり、そこで全国の神厳流支部道場の部員が集合してトーナメント方式の柔術組手試合を行います。毎年50名位が集まります。居合抜刀術に関しては、試合を行いませんが、本身を使った巻きわら斬り実技で腕前検証を行います。田代氏は神厳流3段で、ベスト16には必ず入っていましたね。試合後は流鏑馬やぶさめ見学や、山頂にある姥石うばいし参拝を行います。この地の住吉神社が全国の住吉神社の元祖であると薩摩藩は考えていたようです。また、翌日はここから東に40キロ行ったところにある宮崎県日南海岸の鵜戸神宮に参拝して、合宿終了となります。鵜戸神宮は相馬念流や影流の発祥地とされていますので、剣術愛好家にとっては聖地みたいなものです。鹿島・香取神宮は『武道の神様』として尊敬されていますが、鵜戸神宮は『剣術開眼の神様』として愛好家には尊敬されています。我が薩摩直伝神厳流も愛洲移香斉と試合した住吉某の流れを汲む人物によって江戸時代中期に創始された剣術流派です。ところで、田代氏に何かあったのでしょうか?」と神厳流館長の住吉兼行が大和太郎に訊いた。

「いえ、某所から人物調査を依頼されまして、その確認です。依頼人の名前につては守秘義務のために申し上げられません。」と太郎がごまかした。

「そういえば、昨年の合宿では鵜戸神宮の参拝はキャンセルして玉山神社に行くとか申されていました。」と館長が思い出したように言った。

「玉山神社ですか?どこにありますか、その神社は。」と太郎が訊いた。

「鹿児島県日置市と云うところです。ここからは桜島を挟んで、反対側の東シナ海側になりますね。恥ずかしながら、私も田代氏から聞くまでは玉山神社の存在を知りませんでした。その後、いろいろと調べてみました。所在地は確か、日置市東市来町美山だったと思います。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘が連れ帰った朝鮮人陶工たちが朝鮮神話の檀君を祭った神社らしいです。この集団は島津藩ではかなり優遇されていたようです。美山は、この陶工たちが薩摩焼を発明した地でもあります。江戸時代までは朝鮮語を使っていたようです。島津義弘が何故に朝鮮人を連れてきたのかは不明ですが、高い技術を持った集団であったと推測されています。島津義弘は何かの開発のために連れ帰ったと思われますが、政務に追われた義弘はこの集団の事を一時忘れ去っていたようです。その後、江戸時代に島津の殿様の命令で陶器神を祭るようになったみたいです。明治42年には剣大明神を合祀したようです。剣大明神は霧島市にある韓国宇豆峰神社の祭神である五十猛いそたける命のことです。須佐王スサノオ命の子供で、父子ともに朝鮮半島の新羅に降臨したのち、出雲国に上陸し、さらに五十猛命のみが鹿児島の韓国からくに岳に鎮座されたようです。韓国宇豆峰神社は中臣氏の先祖である天の児屋根命も祭神としています。玉山の由来は、朝鮮人たちが小高い丘に登って星空を見ながら故郷のことを思っている時、赤い玉が海の方から飛来してきた。その玉の落ちた場所に丸い石があり、易者の見立てでは、檀君の魂が石に乗って飛んできたのだと云うことであったので、この石を祭り、赤い玉にちなんで、玉山神社と名づけたようです。明治に入って、子孫の人々は朝鮮名から日本名字に変更したため、現在は朝鮮村の雰囲気はありません。この地から日本名で東郷茂徳という外務大臣を輩出しています。また、美山の地から大隅半島の鹿屋市笠之原町をはじめ、全国各地に移住していった朝鮮人が多いようです。陶器用の粘土を作る石を探す鉱山技術を利用して大隅半島高隅山地の銀や銅の鉱山開発に従事した朝鮮人もいたようですね。私見ですが、江戸末期から明治にかけて鹿児島では樟脳の製造では日本一を誇った時代があり、樟脳製造技術を伝えたのもこの集団であったようです。また、えびの市の近くにある菱刈町の金山は江戸時代に発見されていますが、これも朝鮮人陶工の流れを汲む人たちが発見した可能性があります。」

「田代氏は玉山神社訪問の目的などは話しておられましたか?」

「訪問目的は聴きませんでしたね。」

「そうですか。田代氏と仲の良い人はいらっしゃいましたか?」

「皆さんとはそれなりに会話されていたようですが特別仲良しと云った方は見受けませんでしたね。合宿所では大部屋での寝食になりますので、特に懇意にしている方がいれば判ります。私も合宿中は大部屋での寝食をいたします。女性の参加者は個室になっておりますが、毎回3〜4人の参加者で少ないですね。」

「そうですか。いろいろとありがとうございました。」と言って、太郎は神厳流本部を辞した。


「玉山神社か。目的は何だったのか?田代氏の書斎に戻って再調査してみるか。」と太郎は考えながら、レンタカーを住吉山に向けて走らせた。


住吉山の麓の路上に車を停め、太郎は中腹にある住吉神社に向かって登って行った。


「影流の創始者である愛洲移香斉は鵜戸神宮の岩屋で悟りを啓いた後、神の指示で鵜戸神宮の南方に住む住吉と云う人物と会い、試合を行って勝利したとの事であったが、この地の出来事だろうか?しかし、ここは鵜戸神宮の西方になるがな。居合抜刀術を志す田代幸造氏も同じことを考えてこの地を訪問したのだろうか?住吉館長が言われたように、全国の住吉神社の元祖がこの地とすれば、住吉山山頂にある姥石は霊的な結界の起点である可能性もあるな。」


太郎は欄干と屋根庇が朱色に塗られた住吉神社に参拝したあと、山頂に向かった。


「こにちわ。」と山頂の姥石を調べていた登山装束の中年女性が太郎に向かって挨拶した。

「こんにちは。これが姥石ですか?」と太郎が訊いた。

「そうです。でも、この石は北斗七星の一つに過ぎません。」と女性が言った。

「北斗七星ですか?」と太郎が訊き返した。

「ええ。霧島山を囲む七つの磐座いわくらは、北斗七星と同じ配置をしています。そのひとつがこの住吉山の姥石です。でも、北斗七星の柄杓の根元に相当する場所の磐座はまだ発見されていません。」と女性が説明した。

「なるほど。面白い話ですね。残りの未発見の磐座は地中に埋まっているのではありませんか?神社によくある要石かなめいしは一部だけが地上に頭を出していますが、そのほとんどは地中に埋まっていますからね。」と太郎が言った。

「なるほど、そうかもしれませんね。ご意見ありがとうございます。」と中年女性が答えた。


住吉山を下った太郎は、車を鵜戸神宮に向かって走らせた。



 影流11

鵜戸神宮;2月22日(金)、午後3時ころ


住吉山を出発した大和太郎は、県道71号線から国道222号線に入り、宮崎県日南市を通過して国道220号線の日南フェニックス道路を鵜戸神宮に向かって車を走らせ、鵜戸神宮の駐車場に車を停めた。八丁坂の800段近くの石段を登り降りし、神門をくぐって境内に入った。すり減った階段の石が神宮の歴史を感じさせる。鵜戸神宮は第10代崇神天皇時代の創建であるから、日本最古の神社の一つであろう。第50代桓武天皇の時代に『鵜戸山大権現吾平山あひらさん仁王護国寺』の名称で神仏習合されている。ちなみに、石段は平安時代に作られたようではあるが。はじめに稲荷神社に参拝し、埼玉県の箭弓稲荷神社の紹介をした。それから本殿に向かった。平日の夕方であったが、少なからず、参拝客がいた。駐車場に止まっていた観光バスの団体客のようである。その一団が去って、静かになってから、岩窟内にある本殿に行き挨拶をした。そして、社務所を訪れ神職に質問をした。


「この写真の人に見覚えはありませんか?」と田代幸造の写真を見せながら、太郎が訊いた。

「さあ?」と神職が首を振った。

「毎年11月に、曽於市にある薩摩直伝神厳流の剣術仲間と参拝に来ていた、東京の人なのですが?」と太郎が説明した。

「ああ。神厳流道場の方ですか。毎年、拝殿で『道場安全祈願』のお祓いをさせていただいております。御奇特な方方です。しかし、この写真の方は記憶にないですね。住吉館長ならよく存じ上げておりますが。」と神職が言った。

「そうですか?何か思い出した場合、今お渡しいたしました名刺にある携帯電話か事務所にお電話頂けますでしょうか?」と太郎は落胆しながら言った。

「写真を一枚いただけますか?他のものにも聴いておきます。何か分かりましたら、ご連絡いたします。」と神職が言った。


社務所を出てから、太郎は霊石亀石の運玉投げを行ったあと、稲荷神社の右横の石段を鵜戸神宮の主祭神である鵜草葺不合命うがやふきあえずのみことの御陵墓に向かって登って行った。少し行くと分かれ道があり、右に行けば波切神社、直進で御陵に行ける旨の立札があり、太郎は直進した。宮内庁の鵜戸陵墓参考地の立札を横目で見ながら鵜戸神宮の祭神の御霊に挨拶をした。そして、坂を下って岩盤下にある波切神社に参拝し、雄大な風景を見た後、稲荷神社まで戻ってきた。その時、先の神職とは別の神職と思しき人物が太郎に声を掛けてきた。


「あのー、大和探偵さんですか?」

「ええ、そうですが。」

「この写真の方の件ですが。」と田代幸造の写真を示しながらその神職が言った。

「昨年の11月の薩摩直伝神厳流道場の方々のご祈祷を行った二日後に当神社にお参りに来られました。二日前は所用で参拝出来なかったので、その日に来られたとのことでした。お連れの男性がもう一人いらっしゃいましたね。」

「連れの男性ですか?」

「ええ、50歳から60歳くらいで、この写真の田代様と同年配と云った感じでしたね。」

「その人の名前とか住所とかは分かりますか?」と太郎が訊いた。

「ええ。ご祈祷の申し込み書にお名前と住所を書いておられるはずですから分かると思います。昨年のご祈祷者帳簿を調べてみましょう。」と言って、神職は社務所に向かった。


太郎もその後ろを付いて行った。


「これですね。お名前は山川岳雄様ですね。ご祈祷内容は『社業発展』となっていますね。」と神職が言った。

「住所は?」

「東京都杉並区桃井4丁目○○−○となっていますね。」と神職が言った。


山川岳雄の住所と名前のメモをとった太郎は、神職に礼を言って社務所を後にした。

駐車場への帰り道は、八丁坂ではなく、隧道トンネルの平坦な道を選んだ。

太郎は隧道トンネルの中を歩きながら先ほどの祭神の御陵参拝の時にあった出来事を思い出していた。


「祭神に黙祷を捧げて目を開けた時、目の前に蜘蛛が上の木枝からぶら下がって降りてきたな。そして、『タマヤマニイケ。』と囁いた様に感じたが、あれはいったい何だったのだろう?俺の空耳だったのだろうか?タマヤマとは、神巌流の住吉兼行館長が言っていた玉山神社のことだろうか?玉山神社に行けば何かが判るのだろうか?不思議なことがあるものだな。まあ、きょうは日も暮れてきたし、この近くで宿を取って明日の行動計画を練り直すか。しかし、ここの海岸は雄大で心が洗われるな。山形県の吹浦ふくらの鳥海山大物忌神社に行った時の穏やかな日本海と違って、荒々しいが清々しい海だな。これが太平洋の荒波と云うやつか。」と思いながら太郎は駐車場に向かった。



 影流12

高千穂峰『天の逆鉾』;2月23日(土) 午前10時30分ころ


早朝に鵜戸神宮近くの旅館を出発し、宮崎インターから宮崎自動車道に入り、高原インターを出て国道223号線を南下して霧島神宮に参拝したのが午前8時30頃であった。霧島神宮から県道480号線で15分くらい車で走り、霧島神宮古宮跡のある高千穂河原駐車場に到着した。革靴をスニーカーに履き替え、古宮跡から登山を開始し、『天の逆鉾あめのさかほこ』のある高千穂峰に到着したのが午前10時30分ころであった。天候によっては冬に冠雪することもあるらしいが、この日は残雪もなく、地肌の岩がゴロゴロしていた。


頂上に突き刺された青銅製とおもわれる『天の逆鉾』を見ながら、大和太郎は坂本龍馬がお竜との新婚旅行でこの地を訪れた話を思い出していた。

「頂上に突き刺された天の逆鉾の根元には天狗の顔が左右に型どりされているのだったな。龍馬の時代には、鉾の根元まで行けたようだが、現代は立ち入り禁止で近くまで行けないのが残念だな。しかし、誰があんな逆鉾を立てたのだろう?江戸時代にはすでにあったのだから、島津藩の殿様が作らせたのかな?それ以前からあったのだろうか。島津藩観光協会みたいな組織が江戸時代か、それ以前にあったのだろうか?誰が管理しているのかな。天狗だから、修験道の関係者が建てた可能性もあるな。剣柱を建てて、この地に結界を構築したのだろうか?京都に行った時に藤原教授に訊いてみるか。天空に向かって一直線に立っている逆鉾を見ていると、盗難した『真珠の宝剣』を思い出すな。霧島神宮、二見輿玉神社、富士山本宮浅間大社、亀戸香取神社、鹿島神宮を一直線に結ぶ線の謎は?真珠の宝剣の真珠5個はこれらの神社を意味しているのだろうか?では、残りの5個の真珠の意味はどうなるのか?田代幸造氏はこの直線上の神社をすべて訪問したのだろうか?そして、この高千穂峰にも登ってきたのだろうか?ここで何かを発見できたのだろうか?これから訪問する予定の玉山神社に謎を解く鍵があるのだろうか?そして、幸造氏はどこに居るのだろうか?生きているのだろうか?」


太郎は、頂上から噴火口側にすこし下ったところにある古代の霧島神宮の本宮があった脊門丘せきもんきゅうに行き、小さな石祠に参拝してから高千穂の久土布流多気くじふるたきの峰をあとにした。



 影流13

鹿児島県日置市東市来町美山の玉山神社; 2月23日 午後3時ころ

   

高千穂河原の駐車場を出発し、県道480号線、県道60号の国分霧島線から霧島市国分で国道10号線に合流し、加治木インターから鹿児島インターまで九州自動車道を走り、鹿児島西インターで南九州自動車道に乗り、美山インターを出たのが午後3時前であった。

陶芸館近くで歩いている人に玉山神社の場所を教えてもらい、神社近くに到着したのが3時すぎであった。

やや道幅の広い道端に車を停めて、徒歩で神社に向かった。石の鳥居をくぐり、鬱蒼と茂る木立をしばらく歩くと、こじんまりした神社に出た。

社務所がなく神職が常駐していない神社のようである。近くには韓国名が書かれた石碑などがある。


「しばらく歩きまわったけれど、謎解きのヒントは何も発見できないな。田代幸造氏は何故に玉山神社を訪問したのだろう?幸造氏が鵜戸神宮に参拝した際に同行していた東京都杉並区の山川氏に話を聞けば何か分かるだろうか?やはり、鵜戸神宮での『タマヤマニイケ。』は空耳だったのかな。陶器館で話しを訊いてみるか。幸造氏の目撃証言でも聴ければいいのだが。」と考えながら、太郎は車に向かって歩き出した。



 影流14

東市来町美山の陶芸館; 2月23日 午後4時ころ

   

「ああ、この人ね。覚えていますよ。昨年の11月ですか、『薩摩焼の歴史特別展』の時、豊臣秀吉の朝鮮の役後、島津義弘に連れられて朝鮮から日本に来た人の持ち物が展示されていましてね。それを模写スケッチされていました。閉館時間になったのですが、描き終えるまで10分くらい待って欲しいと言われましてね。デジタルカメラの電池が切れたらしくて、写真に撮れないので、スケッチされていたようです。かなり正確に、そして丁寧に描いておられましたね。それで閉館時間を延長したのを覚えています。」と陶芸館の職員が田代幸造の写真を見ながら説明した。

「その展示品とはどのような物でしたか?」と太郎が訊いた。

「布に描かれた地図でしたね。描かれたというのは間違いです。布に刺繍された地図です。いまもガラスの額縁にいれて、あちらの壁に掛けてあります。」と職員が額縁の掛っている壁を指差しながら額縁の方に歩き出した。


太郎は職員のあとをついて額縁の前に立った。

色褪せている布に刺繍されたその絵を見て、太郎は『ぎくっ』とした。ゆるやかな稜線の山の頂に『真珠の宝剣』に似た直刀が垂直に立っている。

そして、その山の頂に向かって麓から3本の線が緩やかな曲線を描いて繋がっている。その線上には目印と思われる六角形の絵が刺繍されている。そして山の中腹にある穴と思しき中に牛の絵が刺繍されている。山の麓の近くに引かれた曲線は海岸線を意味しているのかな?波がしらと思われる短い線が多数刺繍されている。麓には川も流れている地図が描かれていた。


「何だろう。目印の絵は石かな?この絵は何を示しているのだろうか?山頂の直刀は『天の逆鉾』をイメージさせるが、確かに、真珠の宝剣そっくりだな。刀の上の10個の点は真珠かな。穴の中の牛は何を意味しているのだろう。どこかの地図だな、これは。」と太郎は思った。


「持ち主の方の話では、この刺修の布はその方のご先祖の形見らしいのですが、ご自分は環暦を過ぎたのに独身なので、もう自分が持っていても仕方がない。陶芸館に展示してほしいと云うことでした。それで、この薩摩焼の歴史コーナーに展示することになりました。」と職員が太郎に向かって説明した。

「この布を持っていた方はこの近くにお住まいですか?」と太郎が職員に訊いた。

「いえね、2か月くらい前になりますかね、交通事故でなくなられました。三重県にお住まいでした。三重県鳥羽の駅前でひき逃げに遭ったみたいです。」

「その方のお名前と住所は分かりますか?」

「ええ。事務所に連絡先の控えがありますが、独身でしたから現在はどうなっているのか。事務室で館長に訊いてみましょう。御親戚の方の所在がわかるかもしれませんから。そういえば、この写真の方に刺繍布の持ち主であった方の住所を館長が教えていましたよ。」

「ほんとうですか!」と太郎が驚いて訊き返した。



 影流15

三重県鳥羽市船津町の鳥羽警察署; 2月24日(日)午後12時30分ころ


昨日の夕方鹿児島空港でレンタカーを返却した後、午後7時過ぎの便で鹿児島空港を離陸し、午後8時頃大阪伊丹空港に到着した大和太郎は大阪市内の難波にあるビジネスホテルに一泊し、今日の午前10時前の上本町発の近鉄大阪線特急で鳥羽に向かった。正午過ぎに近鉄鳥羽駅で近鉄志摩線の賢島行きの鈍行に乗り換えて志摩赤崎駅で降りて、駅から400mくらい歩いたところにある鳥羽警察署に到着したのが午後0時30分ころであった。


「探偵の大和太郎と申します。12月に鳥羽駅前で発生した信谷次郎さんのひき逃げ死亡事件の件で、鹿児島県日置市の御親戚の依頼を請け、その後の事件捜査状況のお話を伺いにまいりました。捜査のご担当刑事さんはいらっしゃいますでしょうか。」と名刺を差し出しながら受付の警察官に太郎が言った。

「埼玉県の探偵さんですか?しばらくお待ちください。」と名刺の住所を見ながら警官が答えた。


しばらくして、2階から刑事と思しき二人が降りてきた。


「大和探偵さんですね。」と年配の方の刑事が言った。

「そうです。信谷次郎さんの姉である谷村京子様から依頼を受けて参りました。」

「捜査の状況確認と云うことですが、あまり進展はありません。立ち話も何ですから、そこの椅子に座りましょうか。」と言って、交通免許更新などで来客用に設けてある長椅子の方に二人の刑事は太郎を案内した。

「私は亀山三郎と申します。こっちの刑事は、武田哲也です。死亡した信谷次郎さんと清水和明さんは鳥羽署の元警察官でした。定年退職で放置車両確認機関の民間会社に再就職されて、警察に協力していただいておりました。我々も早く犯人を見つけ出したいのですが、事故を起こした車が盗難車であったため、捜査が難航しております。事故の状況はご存じですか?」

「いえ、知りません。ご説明いただけますか?」と太郎が言った。


刑事から新聞発表された内容を聞いたあと、太郎が訊いた。


「事故を起こした車は盗難車であったと云う事ですが、偶然のひき逃げ事件ではなく、必然のひき逃げであった可能性はいかがですか?」と太郎が訊いた。

「必然と申されますと?」と亀山刑事が訊き返した。

「最初から殺人目的であったとしたら、と云うことですが。」

「その可能性の有る無しについてはコメントできません。」

「コメントできないと云うことは、可能性があると云うことですか?」

「あなたもひつこい人ですね。コメントできないと言ったら出来ないのです。」と若い武田刑事が語気を荒げて言った。

「分かりました。信谷さんは恨みを受けるような事件には関係されたことがない訳ですか?長い間、警察で仕事をしていれば、感謝されることもあれば、謂れのない恨みを買うこともあると思うのですが、そう云う事件に遭遇された経緯はないのでしょうか?過去の事件をお調べになったのでしょう?私はご遺族の代理として、警察による犯人逮捕を強く要望いたします。」と太郎が言った。

「わかりました。事件解決は警察におまかせください。今日のところはこれくらいでよろしいでしょうか?」と亀山刑事が憮然とした表情で言った。

「信谷次郎さんの住所は、確か、鳥羽市安楽島町の市営住宅でしたね。遺品などを見せていただけますか?ご遺族に返還していただきたいのですが?よろしければ、これから私が行って遺品の整理をしたいのですが。」と太郎が突っ込んで言った。

「それはもう少しお待ちください。我々も今後、いろいろな観点からひき逃げ事件を追及してまいりますので、遺品の返却はもう少し先になります。」

「御親戚への報告もありますので遺品の内容をお教え願いますでしょうか?」

「少しお待ちください。」と言って亀山刑事と武田刑事は2階に上がっていった。


15分くらい待たされた後、二人の刑事が太郎の前に戻ってきた。


「これが遺品リストです。本来なら未だ公開できない内容です。それぞれの遺品については簡単にコメントしてあります。これを参考にして、何か分かりましたら私にご連絡いただけますか?大和探偵さん。この遺品リストは捜査員に配布したものと同じ資料ですから、取扱いには注意ねがいます。」と先ほどとは打って変わって亀山刑事が丁寧に言いながら、A4サイズのペーパーと自分の名刺を差し出した。

「何かありましたか?」と太郎が怪訝な顔をして二人の刑事に訊いた。

「いえ、特に何も。私ども警察も民間の方々のご意見を積極的に取り入れていく方針ですので。」

「私の事で東松山警察か警察庁に電話されましたか?」と太郎が訊いた。

「あっつ。いえ、そのー。」と亀山刑事がしどろもどろになった。

「そうですか。それで分かりました。よろしくおねがいいたします。」と太郎が改めて挨拶した。


「以前のスリーデーマーチ殺人事件で関係した東松山署の林刑事か神武東征伝説殺人事件で関係した警察庁の半田警視庁から私の事を聞いたのだろう。それで、私に対する態度が急変したのだろう。」 と太郎は思った。


太郎が警察署の玄関から表に出て志摩赤崎駅に向かって歩き出したとき、乗用車が太郎の横に来て止まった。


「これからどちらまで行かれますか?」と運転席に座っている、先ほど受付で太郎の応対をした警官が窓を開けて訊いた。

「二見輿玉神社に参ります。」と太郎が答えた。

「それはちょうど良かったですね。これから二見が浦方面を通って自宅に帰るところです。昨日は遅番勤務でしたから、今は勤務開けです。よろしければ、乗っていかれますか?」と警官が訊いた。

「それは助かります。ぜひ、お願いいたします。」と太郎は後部ドアーからキャスター付きの旅行バッグを先に載せ、そのあとから車に乗り込んだ。



 影流16

三重県伊勢市二見町の二見輿玉神社; 2月24日(日)午後1時30分ころ


警察官に案内されて、ひき逃げ車が放置されていた市営駐車場を視察した後、太郎は徒歩で二見輿玉おきたま神社に向かった。

民宿や旅館が立ち並ぶ通りを抜けて伊勢志摩国立公園・二見浦海岸に出る。


『 かはらじな 波はこゆとも 二見がた 妹背の岩の かたき契は   本居宣長 』

(夫婦の契りは二見浦の夫婦岩のように、どのような人生の荒波が来ようと堅固で変えるものではない)


と書かれた『万代不易之碑』を見て、右方向に歩いて行くと≪二見輿玉神社≫と書かれた石柱と石鳥居が見えてくる。その近くに神社の由諸書高札や次なる句が書かれた石碑が建立されている。


『初富士の 鳥居ともなる 夫婦岩  誓子』

(二見浦の夫婦岩は沖660mの海底にまします輿玉の神体岩の鳥居である。また、夫婦岩の間から見える神体山である富士山の鳥居ともなります。)


この石碑を見ながら太郎は、ふと思った。

「夫婦岩から東を見れば富士山、西を見れば霧島山に繋がる訳か。田代幸造氏が日本地図に印した直線上にある静岡県の富士山本宮浅間大社と鹿児島県の霧島神宮が夫婦岩を介して一直線で結ばれている訳か。霧島の久土布流多気くじふるたきの峰に降臨した天孫ニニギ命と富士山に居ます国津神コノハナノサクヤヒメ命が契をかわす仲人役が輿玉神である猿田彦神と云う訳だな。先ほど見た国学者である本居宣長の短歌に出てきた夫婦はニニギ命とコノハナノサクヤヒメ命のことを謳っているのかな?志摩地方の生まれである田代幸造氏は早くからこのことに気付いていたのかな?霧島山の天の逆矛と真珠の宝剣がつながっているのかどうか?真珠の宝剣の描かれているあの刺繍に描かれていた山は富士山か?いや、違うな、あの山の形は富士山ではないな。田代幸造氏はあの山のある場所を見つけ出したのだろうか?」


太郎は拝殿に参拝した後、拝殿の裏手奥に歩いて行った。

『日の神・皇居 遥拝所』の石柱と鳥居が夫婦岩に向かって建てられている。

そして、その近くに大きな石のカエルの像が置かれている。

祭神・猿田彦命が『道開き神』で、その卷族(神様の使い・乗り物)が≪蛙≫と謂うことらしい。

夫婦岩の左後方にカエルの形をした岩があり、どこかに行った人が『無事帰る(富士かえる)』ことを祈願する人も多いらしい。


「田代幸造氏の無事帰還を願って日の神にお願いしておくか。」と思って、太郎は遥拝所で手を合わせた。

「しかし、夫婦岩は皇居の遥拝所にもなっている訳か。霧島、二見浦、富士、皇居、亀戸香取神社、鹿島神宮を結ぶ直線はいったい何なのか?そして、千葉県の香取神宮と亀戸香取神社、皇居を結ぶもう一つの直線の意味は?そして、田代幸造氏の行方は?幸造氏は何を追っていたのか?この直線が真珠の宝剣との関係はあるのかどうか?美山の陶芸館で見た刺繍の地図との関係は?」と太郎は歩きながら考えを巡らせ、八大龍王大神が祀られた龍宮社前に来た。


龍宮社の横には夫婦岩の間から昇るオレンジ色の太陽の周りに巻き着いた龍神が海面から上昇する絵画が掲示されている。

「これは霊視画だな。太陽の真ん中に描かれている白い玉は何だろう?太陽の左側の白い玉状の雲は何を表わしているのだろう?興玉神社の興玉おきたまは沖玉と書けば海中にあるご神体を表わしているな。その玉を龍神が守っていると云うことかな?いや、この絵で龍神が守っているはオレンジ色の太陽だな。白い雲玉は輿玉の神で、太陽の中心の白い玉状のものは真珠みたいだな。神珠か?太陽はぐるぐると回転しているのかな、風車みたいに。」と太郎は思った。


「それと、八大龍王か。この龍神を思うと、旧約聖書のヨブ記に出てくる海獣を思い出すな。レビアタンとかリバイアサンとか云ったな。藤原教授の講義では『渦巻いた』とか謂う意味のヘブライ語に由来する言葉だと説明されていたな。ユダヤ教の聖典では、海を泳ぐときにはその後ろには逆立つ波と渦巻きが発生すると云う。口から火を吐き、鼻から煙を出し、体は堅い鎧のような鱗に覆われ、背びれを持っている地上にはいない怪獣。霊的には存在する海獣か。霊能者でないと見えない訳か。それに、この海獣リバイアサンはワニの住む国に居るとなにかの本で読んだことがある。ワニとは鮫の事だと謂う学者もいたな。」と太郎は考え深げに学生時代の神学講義の内容を思い出していた。



 影流17

二見町の和風旅館『潮花ちょうか』 ; 2月24日(日)午後3時ころ


「神社や海岸を歩いて今日は疲れたな。このあたりの旅館に一泊するか。明日は笠谷病院を探す予定だから、その行動準備もあるしな。」と思いながら太郎は近く旅館に入って行った。


「ごめん下さい。」と太郎が玄関に入って呼びかけた。

「いらっしゃいませ。」と一人の女性が奥から出てきた。

「ああっつ、鮫島さん。」と太郎言った、と同時に鮫島姫子も

「あっれー、まあー、大和太郎。」と思わず叫んだ。


大和太郎と鮫島姫子は昨年起きた『神武東征伝説殺人事件』で知り合い、顔見知りであった。


「早くも商売替えですか、事件記者から仲居さんに?」と太郎が冷やかした。

「いいぇ、違います。この旅館は私の実家です。休暇で東京から帰省中で、家の手伝いをしているところです。」と姫子が言った。

「そうですか。失礼しました。本日一泊したいのですが、部屋は開いていますか?」

「今日は日曜日で、昨日からお泊りのお客様が帰られましたので、よい部屋が開いています。ご案内いたします。どうぞお上がりください、大和さま。」とお客を相手にする口調に変えて姫子が言った。


太郎が海の望める部屋で寛いでいたところに姫子がお茶とお菓子を持って来た。


「御旅行ですか?」と姫子が訊いた。

「ええ、そうです。神社めぐりです。」と失踪事件の事を悟られないように太郎が言った。

「では、輿玉神社に参拝されたのですね。いかがでした?」と姫子が訊いた。

「龍宮社が印象に残りました。明日は夫婦岩からの日の出を拝みたいですね。」

「冬場の朝は水蒸気の発生が少ないのでもやが出ません。空気が澄んで富士山が見えることが多いですよ。明日もそうであれば良いですね。」

「それは楽しみだな。天気が良ければいいのだが。」


「ところで、昨年の12月に鳥羽駅前でひき逃げ事件があったのですが、それに関わった車がこの近くの市営駐車場で発見されています。私はこの事件は単なるひき逃げではなく、意図的な殺人事件ではないかと考えています。」と姫子が言った。

「ひき逃げ事件が殺人事件ですか?それは又、どうしてですか?」と事件を知らない振りして太郎が訊いた。

「市営駐車場で、私の父がそのひき逃げした車から降りて来た2人の男性を遠目ながら目撃していたのです。降りてきてから直ぐに、その車の近くに駐車していた黒色の高級車の後部座席に乗り込んだようです。高級車には運転手が待ち構えていたようで、すぐに駐車場を出ていったらしいのです。これって、明らかに計画的な行動ですよね。」と姫子が言った。

「その話は警察も知っているのですか?」

「ええ。何度も鳥羽警察署に呼ばれて刑事さんに話したって、父が申していました。車のナンバーなどは見ていないようです。目撃した時はひき逃げ車とは思ってもいなかったので、そのまま行き過ぎたらしいです。白いワンボックス車の後ろ側から見ていたので、車前部の凹みなどには気が付かなかったようです。」

「その二人の男の容貌などは覚えていらっしゃったのですか?」

「サングラスを掛けていて、紺色の作業ジャンパー姿であったくらいしか覚えていないようです。年齢は分からないようですが、雰囲気的には20歳代から40歳代ではないかとのことです。」

「この事件を鮫島さんは追跡しているのですか?」

「いいえ。記者にも管轄地域がありますので、特に取材行動などはしていません。休暇中ですし。」


ひとしきり話をして、姫子は部屋から出て行った。

太郎は鳥羽警察からもらったA4サイズのペーパーを取り出し信谷次郎の遺品リストとそのコメントを眺めていた。


「古い診察券か。えっ、笠谷病院。2005年4月の日付とは3年前か。幸造氏が入院していた病院かな?住所は鳥羽市安楽島あらしま町○○○か。信谷次郎の住んでいた市営住宅の近くだろうか?とにかく、明日、この病院に行ってみるか。当たりだったら病院をさがす手間が省けるのだがな。」と考えながら、旅行バッグから三重県の地図を取り出して場所を確認した。そして、引き続き遺品リストに目を走らせた。

「文芸本舗出版社の書籍『日本の民話百撰』か。あれっ、『田代蔵書』の角印が押してあるのか!」と太郎は、田代幸造の書斎にあった本の表紙裏に押してあった2センチ角大の朱印を思い出していた。

「この書籍が田代幸造のものとして、何故に信谷次郎が所持していたのかだな。信谷と田代氏は面識があったのかな?ふーむ。明日、鳥羽警察に確認に行くか?書籍を見せてもらうとなると田代幸造の失踪の件を話さなくてはならないな。話したとしても見せてもらえる確証はないし。どうするかな?田代氏の生命を危険にさらすことになってはいけないしな。うーん。」と太郎は考え込んだ。



 影流18

安楽島町の笠谷病院受付 ; 2月25日(月)午前10時ころ


「40年前の話ですか?看護婦長も院長先生も2代目ですからね。建物自体も5年前に建て替えたところですからね。この病院で一番古い人って誰だろう?」と受付の事務員が横に居る同僚に訊いた。

「そうね。警備も警備会社の人だからね。ああ、そうだ。地下室のボイラー管理のおじさんがいるわ。あの人は昔からいるって聞いたことあるわ。」と同僚の事務員が言った。

「ああ、蒲谷さんね。うん、あの人は古いわね。63歳だもの。今は嘱託勤務で、あと2年で退職だと聞いたわ。しかし、入院患者とか、病院内部の事を知っているかどうか?」と先の事務員が言った。

「その人はどこにいますか?」と太郎が訊いた。

「あそこの階段で地下に下りたところの機械管理室に居るとおもいます。管理室で訊いてください。」


安楽島町の笠谷病院、機械管理室 ; 2月25日(月)午前10時すぎ


「40年前のどういった事でしょう?」と蒲谷氏が太郎に言った。

「この写真に写っている患者さんやお医者さん、看護婦さんはご存じですか?」と太郎は田代幸造が退院記念に撮影した写真を蒲谷氏に見せた。

「この人は初代院長の笠谷健太先生ですね。その横に居るのが初代看護婦長の真庭さん。やあ、懐かしいな。この人は看護婦の、確か、君塚さん。君塚さんと院長先生の横に居る患者さんが結婚したんですよ。お名前は忘れましたが。ほら、この後ろ隅に居るのが私ですよ。このころは今と違って病院も小さかったので、家族的雰囲気があって、楽しかったなあ。入院患者さんとかも元気になると私のいる管理室に来たりして、よく話をしましたよ。うん。」

「看護婦の君塚さんはどのような人でしたか?」

「確か、志摩半島の大王町波切村の出身で、時々お母さんが病院に遊びに来ていましたね。お土産に伊勢海老をよくいただきましたね。当時、看護婦さんは病院裏にある看護婦寮に住み込みでしたからね。今は、軽自動車での通勤が主になっていますがね。」

波切なぎり村ですか。」と太郎が少し考える風にして言った。

「志摩地方と云うところは古墳の多いところで、鏡や勾玉などいろんなお宝が発掘されたようですよ。特に志摩市大王町波切村の塚原古墳は有名ですよ。明治時代に発見された円墳ですが、その後大正時代の開墾で消滅したようです。一時期は紀州の九鬼水軍に支配されていた時代もあったようです。その後、九鬼水軍は鳥羽に基地を移動しますがね。私も若いころは休日に各地の古墳めぐりをよくしましたね。塚原古墳からは辛亥銘金錯鉄剣で有名な埼玉県稲荷山古墳から出土したものと同型の画文帯神獣鏡も出土しています。千葉県大多喜町の古墳からも同型の鏡が出ているらしいです。私には鉄剣が発見されていないのが不満なんですがね。浜島町の古墳からは鉄剣が出土していますからね。」

「古代の事をよく御研究されるのですか?」と太郎が訊いた。

「ええ、まあ。私の古墳めぐりの師匠と云うのが、ほら、この写真に写っているこの人ですよ。レントゲン技師で、そうそう、看護婦の君塚さんの従兄いとこですよ。」

「従兄ですか?レントゲン技師で。」と太郎が繰り返して確認した。

「ええ、君塚さんの母親の親類の方で橘幸平さんと言いましてね、この患者さんの名前と似ているとかで、仲よくされていましたね。この患者さんの名前は、ええっと・・・・。」

「田代幸造さんです。」

「そうそう、幸造と幸平の幸の字が同じと云うことで、意気投合されていましたね。ああ、思い出しましたよ。君塚さんと田代幸造さんの結婚披露宴に出席した時、橘幸平さんが祝辞の中で、真珠の宝剣は志摩半島の塚原古墳に収められていたかどうかを幸造氏と調査中だと言っていたのが印象に残っています。私もそうあって欲しいと願いました。その後、この件について、幸平さんに確認しましたが、証拠がみつからないと言って嘆いていましたね。」

「その橘幸平さんは今どこに住んでおられるかご存じですか?」

「昨年、定年で退職して大王町波切村の実家に帰られました。かなり以前に一度ご実家に寄せてもらったことがありますが、正確な住所は忘れました。自宅に帰れば住所録がありますが、1階の病院事務課で橘幸平と言って訊けばわかりますよ。」

「ところで、波切村には波切神社はありますかね?」と太郎が訊いた。

「ええ、ありますよ。確か、大王崎灯台の近くでしたかね。」

「波切村への行き方を教えていただけますか?」

「ここからですと、近鉄の志摩赤崎駅まで徒歩で行き、賢島方面の鵜方駅で下車し、駅前からバスに乗って、波切バス停で降車すればいいでしょう。バス停近くにある桂昌寺の近くが橘さんの実家です。」



 影流19

鳥羽警察署 応接室; 2月25日(月)午後4時30分ころ


「これが、遺品の『日本の民話百撰』です。この手袋をはめてから本に触ってください。万一証拠物件となる場合を想定して指紋の付着を防ぎたいので協力願います。警察庁刑事局の局長補佐である半田警視長の了承がなければお見せできないところですが。」といって亀山刑事が太郎に書籍を渡した。

「御迷惑をお掛けします。ところで、この『田代蔵書』印の田代氏のことですが、現在失踪中です。」と太郎が言った。

「蔵書印を押した本を古本屋に売る人はいないでしょうから、田代氏本人から譲り受けたか、盗んだか、それともどこかで拾ったかと云うことになりますね。ところで、田代氏とはどのような人物ですか?」と亀山刑事が訊いた。

「田代真珠の社長です。」

「南伊勢町五か所浦に工場がある田代真珠ですか?」

「そうです。」

「誘拐ですか?」と亀山刑事が訊いた。

「いえ。身代金要求などは来ていません。」

「じゃあ、ご自分から身を隠された?」

「いや、それも分かりません。何の連絡もありませんので。副社長の娘さんの依頼で捜索中です。」

「で、今回のひき逃げ事件との関係は?」

「現在のところひき逃げ事件と田代氏の失踪の関係は不明です。田代氏の蔵書を何故にひき逃げされた信谷氏が持っていたのかです。田代氏と信谷氏に接点があるのかどうかです。ところで、大王町波切の橘幸平氏の行方不明の件ですが、索は進展していますか?今日の昼過ぎに橘氏の実家を訪問して、行方不明と聞いたのですが。」と太郎が言った。

「橘氏とは?」

「橘幸平氏は田代氏の友人です。」

「武田、捜索依頼が出ているのか?」と亀山刑事が武田刑事に訊いた。

「ちょっと、生活安全課に訊いてきます。しばらくお待ちください。」と言って、武田刑事が応接室を出て行った。


「ところで、この本が置かれていた状態が分かりますか?本棚に入っていたとか?」と太郎が訊いた。

「本棚はありませんでしたね。電気炬燵のテーブルの上に新聞と重ねて置かれていました。本には1枚のしおりが挟まれていました。今、挟まれているページがそうです。読みかけと云った雰囲気で置かれていましたね。何か意味がありますかね、そのページに。」

「まだ分かりません。」と言いながら、太郎はしおりの挟まれている民話のページをめくり、題名と出版社名を手帳にメモした。

「『千人坑オソトキ伝説』と云う民話か。田代氏の失踪と関係があるのかどうかだな?」と思いながら民話の内容を読んだ。他のページも捲ってみたが、特段のメモや傍線も書き込まれていないので、そのまま亀山刑事に本を返した。


しばらくして武田刑事が戻ってきた。

「橘幸平さんですね。昨年の12月4日火曜日に海岸に釣りに行って戻らなかったようですね。12月5日朝に家族から捜索願いが出ています。目撃証言では午後2時ころ波切神社先の突堤で釣りをしているのが目撃されていますが、その後の目撃証言はありません。現在、足取り不明です。釣り道具など、持ち物は見つかっていません。海中も捜索したようですが波にさらわれた可能性は少ないようです。全国警察に紹介状を出していますが、現在まで何の報告も入っていません。以上が現在の状況です。我々も12月11日のひき逃げ事件に追われていて、捜索願いには気が付いていませんでした。」と武田刑事が説明した。

「橘幸平さんと田代幸造氏は古くからの親友です。田代氏が失踪したのが昨年の12月10日か11日と考えられます。そして、鳥羽駅前で信谷次郎氏がひき逃げ死亡されたのが12月11日の午前11時ころですね。」と太郎が言った。

「失踪が拉致事件とすれば、同一犯と云うことですか?」と亀山刑事が言った。

「いえ。まだ断言はできませんが、可能性はあります。田代氏と橘氏の失踪理由が何かですね。」

「その理由が『日本の民話百撰』に有るわけですか?」と武田刑事が訊いた。

「まだ分かりません。」と太郎が答えた。


12月8日の『真珠の宝剣』盗難事件については守秘義務があるのでこの場では話さない方が良いと太郎は判断した。

「あっ。それから、昨年の11月20日に、田代幸造氏は鹿児島県美山の陶芸館で信谷次郎氏の住所を確認しています。ですからその後、12月11日までの間に信谷氏と会っている可能性があります。あるいは、田代氏の代理で橘幸平氏が信谷氏に会っているかもしれません。そのあたりの目撃証人が現れればいいのですが。」と太郎が二人の刑事に言った。

「なるほど。その『日本の民話百撰』はその時に田代氏から手に入れた可能性がありますね。」と亀山刑事が言った。

「ひき逃げの盗難車の件ですが、いつ頃盗難したのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「事件当日の午前9時ころです。伊勢市内の日曜雑貨の問屋の駐車場に止めてあった白いワンボックス車です。小売店に配達に行く直前のでき事だったようです。配送の運転手がキーを着けたままトイレに行っている間に盗まれたようです。ですから、犯人も計画的というよりも、急遽殺害する必要にかられての行動ではなかったかと推測できます。」と亀山刑事が言った。

「ひき逃げ犯人二人が二見浦の駐車場で乗り換えた黒い高級車の走行経路などは分かっていますか?」と太郎が訊いた。

「ええ。全国自動車監視システム・オービスの映像写真を確認しましたところ、事件前日の12月10日に愛知県清須市内の清州東インターから高速道路に入り夕方の4時ころ伊勢インターを出ています。その後、国道23号線から、42号線に入り、鳥羽方面に向かっておりますが走行経路の確認はそこで途切れています。事件当日は前日と同じ経路で戻り、清州東インターを出ていますが、その後の走行経路は確認できておりません。」と武田刑事が説明した。

「車が消えたということですね。車のナンバーからその高級車の所有者は分かっていますでしょうか?」と太郎が訊いた。

「実は、ナンバーから割り出した車は、事件当日、東京都内に存在していたことが判明しており、車の所有者も東京にいたことが判明しております。」と武田刑事が説明した。

「と云うことは、偽造ナンバーの車が走っている事になりますね。」

「その通りです。黒の高級車のメーカーは日本ですが、アメリカ工場から逆輸入された商品で、日本国内で登録されている台数は200台強です。GPS盗難追跡装置が標準装備されていますが、それでも、4台の車が盗難に会い、行方不明です。事件で犯人が使用した高級車は、この4台のうちの一台だと推測しています。GPS追跡信号は発信されていませんでした。」

「未発見の盗難車ですか。ふーむ。」と言いながら、太郎はK国秘密諜報機関KISSの車窃盗組織のことを思い出していた。

「まだ、日本国内にKISSの組織が暗躍しているのかな?それとも別の組織か?」と思ったところで、亀山刑事の言葉が耳に入ってきた。

「清州東インター近辺を走っていた大型トレーラーや大型コンテナトラックを追跡調査しておりますが、まだ良い結果に到達していません。」

「黒の高級車を運んだトレーラーを追いかけていると云うことですね。」

「そう云うことです。最近は電波暗室になっているコンテナボックスで盗難車を輸送する窃盗組織があります。それで、盗難対策GPS発信電波が遮弊されてしまい、衛星からの追跡ができなくなります。今回の黒い高級車も電波暗室トレーラーで輸送されていると考えています。」と亀山刑事が答えた。


※電波暗室;テレビ電波や無線電波などを遮弊できる材質で作られた部屋。室内の電磁波が外に漏れださない。



 影流20

二見町の和風旅館『潮花ちょうか』;2月25日(月)午後6時半ころ


太郎が警察から戻り、ひと風呂浴びて部屋で寛いでいるところへ、鮫島姫子が夕食の準備で部屋を訪問してきた。食事の準備をしながら姫子が太郎に話しかけている。


「やあ、美味しそうな生牡蠣かきですね。」と太郎が並べられた食膳を見ながら言った。

「ええ。鳥羽の生浦湾で養殖された牡蠣は甘みがあって最高です。この牡蠣の佃煮も美味しいですよ。」と姫子が言った。


「ところで、明日はどちらへ行かれますか?」と姫子が訊いた。

「京都の知り合いのところへ行く予定です。」

「京都の神社・お寺めぐりですか?」

「まあ、そう云ったところです。」と太郎は適当に返事した。

「私もK大学生の時に京都で下宿していましたから、京都は懐かしいですわ。」

「そうでしたね。外国人旅行者向けの旅行ガイドのアルバイトをしていたのでしたね。そうすると、京都のお寺はよく御存じですね?」

「ええ、ある程度のお寺は存じています。でも、大和探偵も京都のD大学でしたから、お寺巡りはされたのでしょう?」

「いや、私はもっぱら『エイー、ヤアー』のクラブ活動ばかりでしたので、お寺めぐりはしていません。」と太郎は空手の格好をした。

「そうですか。機会があればご案内いたしますわ。」

「ありがとう。」

「ところで、神武東征伝説殺人事件が解決したあと、神聖修験研鑽教の弾武則教祖が姿を見せなくなったのですが、何かご存じですか?我社の宮崎支局では引き続き弾武則の動きに注目しているのですが、姿がみえないので取材ができなくて困っています。警察庁からもこの件につての記者発表はありませんから。大和探偵には警察庁から何か情報があるのではありませんか?」と姫子が太郎に訊いた。

「いいえ、知りません。神武東征伝説殺人事件の解決後は警察庁との交流はありませんから。」と言いながら、太郎は警察による北九州市小倉北区のK国秘密諜報機関KISSの九州拠点と神聖修験研鑽教本部の一斉摘発の件を思い出していた。


「あの時は、弾武則もKISSの要員であることが想定されていた。小倉北区の本拠『株式会社・祇園』でのKISS定例会議の日を選んで、別件の外為法違反で逮捕状をとり、『祇園』と『研鑽教』の一斉摘発を行ったが、弾武則は姿を見せなかった。祇園にも研鑽教本部にも姿がなかった。本来なら定例会議に出席しているはずなのに来なかった。摘発情報が漏れたのならば、会議は中止されているはずであったが、実施されたところから情報漏れはなかったはずだ。悪運が強いのか、第六感がはたらいたのか?『研鑽教』は証拠不十分で起訴できなかったな。したがって、『研鑽教』本部は今も宮崎県えびの市に存在するが、警察が動いた事で会員の減少には歯止めがかかっていないという話だが。早晩、『研鑽教』は潰れる運命にあるのだろうか。いずれにしても弾武則は逃げ延びた。そして、姿をくらました。K国に帰った可能性もあるが、所在は不明であったな。もともと、KISS要員である物的証拠はなかったからな。弾武則がKISS定例会議に姿を現わしたところで関連逮捕を目論んでいた警察は大きな誤算であった。警察としては、弾武則がKISS要員であることの公表はしていないので事件記者である鮫島さんもそのことは知らないのであろう。情報漏洩があると警察に迷惑が及ぶから、鮫島姫子記者には用心しないといけないな。今回のひき逃げ事件は担当していないとはいえ、新聞記者だから用心にこしたことはない。」と太郎は思った。


「京都か。久しぶりに外人観光客と話がしたくなったな。平日でお客も少ないから旅館にくすぶっていても仕方ないな。京都に行くか。外人観光案内協会に電話してガイド希望者がいるか訊いてみよう。学生時代にお世話になったガイド紹介係の君島おばさんは元気かな?」と姫子は、太郎の夕食の準備を終えて廊下に出たところで思った。


 ・・・後編につづく・・・



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