森を歩く
遠くから鳥の声が聞こえてきた。朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中に陽だまりができている。まだ寝ぼけた頭で床から起き上がり、ベッドで寝ているリンネを見る。彼女は起きる気配もなく、スース―と小さな寝息をたてて行儀よく眠っていた。寝相がとても良く、感心する。僕は外に出て、顔を洗い、コップ一杯の水を飲みほした。相変わらず冬の寒々とした朝だが、空はよく透き通っていて、草木は陽の光に照らされて美しく輝いていた。
今日でこのバンガローともしばらくお別れだ。昼前にリンネが起きたら、準備をして家を出る予定になっている。いつ帰ってくるかはわからない。そもそも帰ってこないかもしれない。もし帰ってくるとしたら、その時は自分は旅の経験から何かを学ぶことができているだろうか、と考える。そういえば、異世界に来てから物思いにふけることやどうしようもないことを考えたりする時間が増えた。ひとえに暇だからだろう。元の世界の哲学者も、哲学は暇から生まれるなんて言っていた気がする。暇な時間は色々なことを考える余裕をくれる。退屈な時間も考えようによっては有意義で満たされた時間になりうるのかもしれない。
「おはよ。朝早いわね。」
振り返ると、リンネが眠たそうに眼をこすりながら玄関の階段前に立っていた。僕が貸したサイズの合わないフリースのパジャマを着ていて、赤い髪は寝ぐせであちこちに飛んでいる。寝ぼけた姿がかわいらしい。僕は「おはよう」とリンネに挨拶した。
「もしかして起こした?ごめん。」
「ううん、大丈夫よ。」
「水飲む?」僕が尋ねると、彼女は「ありがとう」と言ってコップを受け取った。
「今日はいい天気ね!絶好の旅日和じゃないかしら」
そう言うと彼女はぐーっと腕を伸ばした。それと同時に彼女のお腹もぐーっと鳴る。そういえば、昨日は丸一日何も食べていなかった気がする。食事を用意すると言ったら今はいらないと断られた。魔法使いは食事をしなくてもいいのかなんて思っていたが、違ったらしい。
彼女はこちらを見てニコリと笑って言った。「さて、すぐに準備しましょう。朝食兼昼食は森で肉料理!味付けはお願いできるかしら?」
この辺りは陸の孤島というにふさわしい場所だ。大陸の東側にポコンと飛び出た突起部分。西側を広大な森に囲われているため、ほとんど人は来ない。人的交流がないため、村も街も存在しない。僕はこの辺を旅していた時にたまたま放置された小屋を見つけて、街に家を買う余裕なんて全くないからそこを勝手に改良して暮らし始めた。3年以上住んで理解したが、ここは人が住むには全く適していない。けれど、その不便さの中に心地よさがあった。
僕が住んでいるのは森を抜けて8kmほどの地点だったが、さらに東へ進んでいくのは無謀だった。以前、日持ちする食料だけをカバンにギッチリ詰め、旅用のテントを持ってさらに東へと歩いたことがある。結果、丸5日間歩いてもどこにもたどり着けず、ただ草原がひたすらに続く道には終わりが見えなかった。さすがに往復分の食料を考えるとこれ以上前には進めなかったので、方位磁石を頼りにもと来た道を引き返した。あれ以来、東側には行っていない。
そんなことを考えながらリンネとひたすら歩く。リンネは赤いマントをなびかせながら、時々とんがり帽子をいじって適切な角度に直している。マントととんがり帽子は魔法使いにとって必須のアイテムなのだろうか。お風呂に入ってないはずなのにリンネから嫌なにおいは一切せず、むしろ甘い香りが漂っていた。そんなことを考えていると「殺菌と洗浄は常に魔法でしているの。」とリンネが言った。
「火の魔法って便利なのよ。汗は蒸発させられるし、寒い日でもとっても快適。それに私だって香水くらい持ってるわ。あ、それと今のは思考を読んだとかそういう大層な魔法を使ったわけじゃないから。視線でなんとなくわかるよ、そういうの。」
そう言うと彼女は少し怒ったような表情を見せ黙った。デリカシーがなかったな。視線でわかるものなんだ。女性ってすごい。でも、間違ってたら結構恥ずかしいよな、これ。なんてことを考えていると、リンネはこちらを見て
「もしかして違った…?」
と言った。どうやらあてずっぽうだったらしい。
しばらく歩くと、森にたどり着いた。とにかく二人ともお腹が空いていたので、巨大豚を丸焼きにして食べようという話になった。豚はすぐに見つかった。見つかると同時に、リンネが10メートルほど離れた距離から火炎弾を放った。炎弾は豚にあたり、ものすごい勢いで燃え始め、焦げ臭いにおいがするかしないかの瀬戸際で一瞬にして消え去った。僕は近づき、腰からナイフを取り出して豚を切る。豚は中までしっかりと、まるでプロの料理人の手際とでもいえるくらいにちょうどいい塩梅に焼けていた。魔法って便利だなぁなんて思いながら家から持ってきた塩と胡椒で味付けをする。彼女はニコニコしながら僕が木皿に肉を盛り付けるのを待っていた。
「ん~~やっぱりお肉って美味しいわ。あなたの味付けもちょうどいい。それに、人と一緒の食事ってなんだか新鮮。」
「喜んでもらえてよかった。僕も人と一緒に食べるのは久しぶりだから嬉しいよ。」と僕は言った。
事実、週に一回は街の食堂で人の作った料理を食べはするが、誰かと一緒に食事をするなんて機会は全くなかった。異世界の人々は想像とは違い江戸っ子や大阪人のようにフレンドリーではなかったし、街を歩いていて誰かに食事に誘われるなんてことも一度もなかった。一度、この世界に来たばかりの頃に助けてくれた人と食事を共にしたことがあるが、4年以上ほぼ一人きりで生活してきたことには間違いない。だからこうして森の中でキャンプか遠足みたいな雰囲気の下、人と二人で食事をするのはとても楽しかった。
「ところで、リンネは教会にいたときはどんな生活を送っていたの?」と僕は聞いた。美味しい食事を台無しにするような質問かもしれないが、僕は彼女のことをもっと知りたかった。彼女は少し微妙な表情をしていたが、何かに納得したのか一人うなずいた。
「基本的には、人と勝手に関わることは許されなかったわ。」と彼女は言った。
「魔法使いは、戦争や、紛争で教会にとって都合の悪い存在を消し去るために利用される存在よ。私はあいつらの管理下で、提供されるものをただ享受して生きていた。でも、ある人が助けてくれたの。」
「ある人?」と僕は尋ねた。
「そう。その人が、私を強力な隷属魔術から解放してくれた。私たちがこれから目指すのも、その人の所よ。」
彼女はそう言うと、他のことは何もしゃべらなくなった。
食事を済ませると、僕らはさらに5時間ほど森の中を進んでいった。女の子は虫とか獣道とか嫌いそうなのにすごいななんて感心してると、リンネはこちらを見て「虫は私の体に近づくと焼死するわ」と言った。魔法って便利だ。が、間違って触ってしまったら僕もどうなるかわからない。今のは警告みたいなものだったのかもしれないな、なんて呑気に思った。このペースなら今日中に森を出られそうだな、なんて考えていると、ゴゴゴゴと轟音が辺りに響いた。
「なんだろう、地震かな?」と僕は彼女に尋ねた。
「いや、これは…なんでもないわ。急ぎましょう」
彼女はそう答えると、また歩き始めた。
そこから約4時間ほど歩いた。辺りは完全に暗くなり、闇夜と化した。彼女が火の魔法で道を照らしてくれるおかげでとても助かる。魔法って便利だ。そんなことを考えていると、街から森に入ってほど近い所にある道案内板を発見した。
「リンネ、もうそろそろ森の出口だよ。たどり着けてよかった。」
「・・・・・・・・」
リンネは疲れたのか何も言わなかった。看板があったということは、あと数分もせず森を抜けて平野に出るはずだ。
出るはずだったのだが。
「なんで森を抜けられないんだ…」
立て看板を見つけてから3時間、僕たちはひたすらに歩き続けている。森は暗く、月の光は届かない。深い深い闇の中で、リンネの魔法の火だけが僕らを照らし続けていた。
「やっぱり。これ、魔法の残滓よ。」とリンネが唐突に言った。魔法?
「それって教会の追っ手が近くにいるってこと?」
「ううん、教会じゃない。あんなハッタリじゃなくて、本物の魔力。」
「それって…」
「うん。つまり、私以外の魔法使いがこの森にいて、私たちの邪魔をしている。」
リンネはそう言って、空を見上げる。リンネの身体を包む火の膜からチリチリっと火花が散る。僕はごくりと唾をのんだ。リンネじゃない魔法使い。深い夜の森の中で、木々が風でざわざわと揺れる音が僕らを嘲笑っているように聞こえた。