オレンジの光に照らされる
「ところで、君のことなんて呼べばいい?」と僕は少女に尋ねた。
彼女はコーヒー(この世界でもそう呼ばれているかは知らない)をドリップしながら、隣にいる僕を見た。今は棚にあったドリッパーを見て興味を持った彼女にコーヒーの淹れ方をレクチャーしているところだった。
そもそも僕は彼女のことをまだ何も知らない。名前、年齢、経歴。彼女がこれまでどんな人生を送ってきたのか、これから一緒に旅をする仲間として知っておきたいと思うのは普通のことだ。いきなり深く聞くことはできなくても、名前くらいは今知っておきたかった。
「名前?」と彼女はきょとんとして言った。
「そうだね。君の名前。」
少女は少し言いづらそうに「親がつけた名前はわからないんだけど、教会の人たちからはリンネって呼ばれてた。」と言った。
リンネ、と僕は心の中で唱えてみる。輪廻。なんとなく、心地がいい響きがする。
「いい名前だね。」
「…ありがと。名前を褒められたのって初めてかもしれないわ。」
彼女は右手で髪をくるくると巻きながら少し照れくさそうな表情でそう答えた。
「それと、歳は14だから。あなたとそう変わらないよ。」
「僕は20歳なんだけど…」
「全然変わらないじゃない。何百歳とか違うわけじゃないのに口出ししないで」
そう言って彼女はコーヒー作りを再開した。まるで何百歳も年の離れた知り合いがいるかのような言い草だった。でもここは異世界だ。何があっても不思議ではない。それにしても、何百年も生きるのはとても退屈そうだ。
昨日の夜あまり眠れなかったので昼寝をすることにした。コーヒーを作り終えた後、リンネは書籍を手に取って読み始めていた。僕がこの世界に来て2年目に買った本だ。今やただの置物となってしまった本だが、あれだけ熱心に読んでくれる子が現れてさぞ嬉しかろう、と思った。
どういうわけだか、この世界では初めから言葉が通じた。言語こそが僕がこの世界に来て与えられた唯一の特典といえるかもしれない。初めて入った街では、服装こそ浮いていたものの、人との会話に困ることは全くなかった。しいて言うなら会話のところどころに登場する固有名詞に理解できないものが多かったことくらいだ。森を抜けた先に今住んでいる小屋を見つけて住み始めてからは、ある程度だが貯金もでき、嗜好品を買う余裕ができてきた。この世界の本はかなり高く、庶民が気軽に購入できるものでは決してない。僕は1年働きづめでなんとか貯めたお金を使い、一番情報量が多かった本を購入したのだった。
しかし、家に帰って本を開くと、本屋では読めたはずの文字が全く読めなくなっていた。かろうじて最初の数ページに書いてある言葉が理解できるくらい。今思うとかなり不思議なことだが、当時はこんなものかなんて一人で納得してしまっていた。それを尋ねる相手もいなかった。
そのことをリンネに話すと、「この本は魔導書の一種だと思うわ」と彼女は言った。魔導書。リンネによると、教会にとって都合の悪い記述がある本は検閲の際にこうして魔法にかけられるらしい。通常は記述された内容のみがその人間の思考によって多様に変化するが、僕の場合は文字自体が読めなくなった、ということだ。
「本自体にかけられた魔法を解くのは時間がかかるけど、正確に読むだけなら魔法使いである私にはできる。」リンネはそう言うと、机に肘を載せて本を読みはじめ、僕の話に一切反応しなくなってしまった。
昼寝から起きた。部屋にはオレンジ色の光が差し込んでいて、夕方まで寝てしまったことがすぐにわかった。のどが少し痛い。僕は部屋を見渡す。リンネが先ほどまでいたはずの場所にいなかった。僕は起き上がり、とりあえずのどを潤したいと思った。重たいドアを開ける。玄関を出てすぐ真横にある井戸から水を汲み、勢いよく口に入れる。
ふと、人の気配がした。リンネだった。バンガローの屋根に座って、足をぶらぶらと宙に揺らしている。美しく赤い髪が風になびいている。夕暮れ時の空を見上げて、もの悲しいような、そんな表情をしている。まるで過ぎ去った記憶に浸るような、昔好きだった人を思い出してるような、そんな表情。彼女の瞳はずっと遠くを見ていて、そんな光景がなんだか映画みたいだなと僕は思った。彼女はまだ14歳で、僕もまだ20歳。まだまだお子様かもしれないが、そんな僕らだってこうして物思いにふけりたくなる時があるのだ。僕と彼女はこれから旅に出る。魔法使いと一緒の旅だ。ドラゴンだって出るし、なんなら魔王だって登場するかもしれない。僕には何の力もないけど、できればずっとこうして、夕焼けに思いをはせる彼女の姿を見ていたい。彼女の力になりたい。そんなことを思った。
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「そういうわけで、私と一緒に来てほしいの。あなたもここにいたら危険だろうし…」
彼女の声は、自分がしたことの責任を感じたからかどんどん小さくなる。後半はほとんど聞こえなかった。彼女はそう言うと、微妙な顔をしている僕を見つめて、真剣な表情に居直った。
「これは、あなたにとっても意味のある旅だから。まだ話せないことはいくつかあるけど、私にもわからないことはたくさん。色々なことを、この旅で見つけなきゃいけないの。だから、ついてきてほしい。」と彼女は言った。あまりにもあいまいな、抽象的な表現だった。でも、そうせざるを得ないのだろうと少女の表情を見ながら思った。
僕自身にとっても意味のある旅。僕がここにいる理由。人は皆、自分の生きる意味について考える。僕だって例外じゃなくそうだったし、ここに来る前から、他の人たちよりもその傾向は強かったような気がする。存在に意味が与えられるということはなんて幸せなことだろうと思う。そしてその逆に、意味もなく生きることはなんてつらいのだろうとも思う。意味もなく生きることに意味を見出すのは間違ってる。せっかくここにいるんだから、もっと世界を、自分を知らなきゃいけない。知ることから逃げちゃいけない。僕は彼女をしっかりと見据えて「わかった。君との旅が楽しみだ」と答えた。