「先輩」
宙に浮かぶ黒いインクの玉に囲まれて佇む美月の背後に、巨大な蝶、イザヤが現われる。イザヤが文字の刻まれた翅をゆっくりと震わせると、インクの塊はたちまち変化した。
イザヤの能力、映し身。過去と未来から選択できるが、今回は過去を選択するだろう。美月が自身の記憶から再生するのは――
「……お願い、はやて!」
バサリと黒い翼を翻し飛び上がったのは、複製されたはやてだった。記憶の複製は本人の記憶に強く残っていれば残っているほどインクの消費は少なくなる。確か彼女と美月はあの一件を越えて友人同士になっていたのだったか。ならば納得の人選で、そしてこの上なく有効だった。
魔術に魔法。それは例えるならナイフに対してチェーンソーを持ち出すような物だからだ。
「ムッ! 退け!」
「ぐへっ!」
新たな脅威を前にしたアルデバランのリーダーは、まず拘束する僕を殴り飛ばして身体の自由を取り戻すことにした。既に力尽きていた僕は、あっさりと剥がされ地に転がる。
「! 先輩っ……!」
「僕に構わず、やれ!」
「っ、はい!」
砂埃に塗れ転がる僕を見て美月が顔をしかめるが、僕は彼女を叱咤しリーダーに向かわせた。僕はもう戦えない。後は美月に全て掛かっている!
イザヤが翅を揺らし、美月の意思をはやてに伝える。本物とはまるで違う魔法少女は黒い翼で羽ばたいて飛び上がり、リーダーへ向け急降下した。
インクから黒い人型を作り出すという特異な能力を目の前にしてリーダーが警戒を強める。それは正解だが、構えるために足を止めるのは悪手だ。
「ッ! 『火よ、矢となりて敵を討て』!」
迎撃のために放つ火矢の魔術。僕の鳥魔術を迎え撃った時のように複数に分裂し放たれる。高い完成度だ。もし飛んでいるのが僕ならばあっという間に貫かれ蜂の巣になっていただろう。
だが複製とはいえはやては違う。火矢はその悉くが彼女に届く前に飛散した。
「障壁! それも硬い! ……魔法少女か!!」
魔法少女は魔術師よりも硬い障壁を常に展開している。リーダーもそれで当たりをつけたようだ。止められないと分かり躱そうとする。だが迎撃を選んだ所為で、一歩遅い。
滑空し迫るはやて。その伸ばされた手を、リーダーは避けきれない。僅かに肩が掠めるように接触してしまう。ほんの指先が触れた程度。それが命取りだ。
「!? これはッ!」
リーダーは驚愕した。それもその筈。何せ自分の足が地面から離れ、浮き上がっているのだから。
「浮遊させる魔術、いや、魔法か!」
流石に魔術に造形が深い男。叫んだことは正解だ。はやてが最も得意とする、『触れた対象を浮かせる魔法』。浮かせるだけで致命傷にはならないが、軽く触れただけで発動する強力な魔法だ。
「ぐ、まずい……!」
「だろうな。ここの天井は結構高い」
焦るリーダー。彼は知っているのだろう。この手の魔法魔術がオンオフ可能だということに。つまりはやてが魔法を解除すれば、地面へと真っ逆さまだ。位置エネルギーと運動エネルギーは、単純だが強力な武器だ。
「――落として」
そして充分に浮き上がったところで美月は無慈悲に命令する。魔法が解かれ、リーダーの長身痩躯は重力に掴まり落下した。
「ぬおおおッ!」
どうにかしようと藻掻くリーダーだが、空中で身動きは取れない。
あえなくリーダーは、大きな音を立てて地面と衝突した。
「……やったか。終われば呆気ない物だな」
もうもうと立ち籠める砂煙を前にして僕は安心して溜息をつく。僕からすれば強敵だったリーダーも、全力を出した美月からすれば赤子同然か。
僕は戦いは終わったと見た気を抜こうとした。だが、美月はまだ警戒を解いていなかった。自分の傍に複製はやてを呼び戻し、砂煙の中を睨んでいる。
「まだです。まだ……終わってない」
「え、しかし……」
天井まではちょっとしたビル並だぞ?
あれだけの高所から落下して、無事でいられるとは……。
「ぬぅ、ぐぅ……」
……そうだった。自分基準で考えちゃいけないな。
相手は一応、悪の組織の頭領なんだから。
「ガハァッ、ハァ、ハァ……流石に強いな、魔法少女。いや、偽物か。如何なるトリックかは知らないが……」
砂煙が晴れ、立ち上がったリーダーの姿が露わになる。
口から血を流していたりとダメージは受けているようだが、決して戦闘不能にはなっていなかった。
「頑丈だな……」
「兄弟子と同じように肉体を改造しているからな。しかし強烈だったのには変わりない。もう二度とは御免だ」
口元の血を拭い、まだまだ戦う意欲を見せるリーダー。
「いいえ、二度目を受けてもらうわ。はやて!」
それを見た美月は複製はやてに命じ、すかさず追撃を嗾けた。リーダーのダメージ自体は深い。もう一度当てられれば倒せる筈。
だが再び滑空してくる魔法少女を見ても、リーダーは涼しい顔をしていた。
「魔法少女と分かったからには恐れることは無い。言っただろう――」
それどころか、不敵な笑みさえ浮かべる。そして僕は気付く。
「まずい、美月、ダメだ!」
警告を発しても間に合わない。はやては滑空を止められない。それでも叫ばずにはいられなかった。
「――魔法使いや魔法少女にだって勝てる、と」
「邪眼の範囲内だ!」
瞳が赤く光る。その瞬間、複製はやてを覆っていた障壁が音を立てて砕け散った。
「えっ!?」
動揺し声を上げる美月。はやての滑空は止まらない。はやての翼は魔法の産物では無く人体改造だ。飛行能力に問題は起きない。
だが、その先。魔法による攻撃は別だった。
はやての手がリーダーに触れる。だが――何も起きなかった。
「魔法、魔術は我が邪眼の中では無意味!」
ただ、タッチしただけに終わる。そしてリーダーははやての身柄を素早く掴み、柔術めいた動きで地面に叩き伏せた。
「はやて!」
美月が叫ぶが、もう遅い。強かに地面に打ち付けられたはやての複製は、そのままインクに戻り溶けてしまった。
「ほう? 耐久力は無いようだな……これは助かる」
「くっ……」
イザヤの複製最大の弱点、耐久性の低さがバレてしまった。リーダーがニヤリと口角を歪める。
付着したインクを振り払いリーダーは悠然と立ち上がった。
「ふっ。さて残りのインクで何を出すのかね? そこの魔術師か? あるいは我が兄弟子を倒した幹部かな? どちらでも、また倒すだけだ……」
美月のインクはまだ残っている。だがその量は心許ない。よく知りもしないヒーローを作るとするなら難しいだろう。またはやてなら作れるかもしれないが……それではさっきの二の舞だ。
「どうするかね?」
何が来ても迎撃する。その構えでリーダーは美月に向け歩き出す。まずい、美月本体を抑えられたら負けだ。
美月は、残ったインクでどうするつもりなのか。僕は成り行きを見守ることしか出来ない。
だが、そんな中で美月が不意に口を開いた。僕に向かって。
「先輩」
……なんだ、何を言う気だ。僕はもう、碌に戦えないのに。
「―――」
美月が僕に、告げたのは――




