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「ここにいるんだろ? キキッ、我らが御大が探す傀儡が」




 屋敷の庭で、少し古くさいデザインのジャージを着た狛來はジョギングをしていた。キノエの屋敷は庭も走り回れるほどに広く、一周するだけで結構な運動量になる。


「はっ、はっ、はっ……」


 息が荒くなり、額には玉のような汗が浮かんでいる。体育の授業などでは頻繁に走っていた狛來だが、随分久しぶりに感じた。久々に感じる風を切る感覚に、汗ばむ気色悪さよりも気持ちよさが勝った。


 何故狛來が走っているのか。それは健康的な身体を取り戻す為だった。

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉があるように、健康状態は精神活動にとって重要なファクターだ。身体の調子が崩れれば、心のバランスもおかしくなっていく。現に、逃亡生活でささくれ立った狛來はヤミを制御しきれなかった。

 しかし今は違う。三食、屋根のある寝所、清潔な衣服。衣食住が満ち足りたことで、狛來は精神の安定を取り戻した。今ならば例え屋敷の外に出てヤミの封じ込めが解けたとしても、ある程度の制御が叶うだろう。

 だがまだ足りない。それでも感情のブレによってはその制御を外れてしまう。少なくとも狛來のまだ幼い精神では完全制御はまだ難しい。時間が経てば精神も円熟し制御しやすくなるだろうが、それではいつまで経っても家に帰れない。

 そこで謎の老人、キノエが提案したのは、身体を鍛えることだった。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 息が上がって苦しくなった狛來は足を止めた。膝に手をつき、項垂れるようにして俯く。庭の土に、ボタボタと流れる汗が滴り落ちていた。

 そんな狛來へ近づく影。


「ほぉれ」


 キノエだった。屋敷の縁側から立ち上がったキノエは狛來へ近づくと手にしていた手拭いを投げ渡す。狛來はそれを荒い息を吐きながらも受け取り、水を被ったかのような有様になっている額を拭った。


「はぁ、ふぅ……ありがとうございます、キノエさん」

「構わねぇさ。それより、調子はどうだい?」


 首を傾げて聞いてくるキノエに、汗を拭きつつ狛來は素直に答えた。


「息は苦しいですけど、楽しいです。冷や汗じゃ無い汗なんて久しぶりだから……。それに息を吸うと自然いっぱいな空気が肺に入って、気持ちいいです」

「はっはっは! そりゃ田舎だもんな! 空気負けたらいいトコなんざ一つもねぇさ!」


 狛來の感想を聞いたキノエは大笑いする。狛來もまたそんなキノエに微笑み、太陽光の降り注ぐ庭に和やかな空気が流れた。


(なんか、この前まで森の中で震えていたのが夢みたい……)


 温かく、気持ちいい屋敷での時間に狛來は山中を逃げ回った恐怖を忘れつつあった。

 これもまた、キノエの狙いだ。

 楽しく、そしてそれなりに忙しい日々を送らせることで、直近の比較的浅いトラウマを忘れさせるという目論見だった。それは一定の成果を収め、狛來は人目を忍び辛い状況の中コソコソとせざるを得なかった日々から回復しつつあった。

 しかしそれでも――列車内の惨劇だけは忘れられなかった。


(っ!)


 今でも気を抜けば、まざまざと思い起こしてしまう。同級生たちの悲鳴。酸鼻をつく血の臭い。切り落とされるモノたち。

 その度に身体が震え、心が弱まる。それは即ち、ヤミの出現する隙を与えてしまうということだった。


「……もう少し、走ります」


 それを振り払う為に、狛來は手拭いを首にかけまた走り始めた。運動している間は、トラウマを誤魔化せるから。


「あんま無理すんじゃねぇぞ」


 それをキノエは素直に見送った。痩身な少女の体力は把握している。不味くなったらいつでも止められるので、取り敢えずは気の済むまで走らせてやるつもりだった。

 角を曲がって消えていく小さな背を見送りながら、キノエは頭上を仰いだ。そこには雲一つ無い快晴と、円弧をかいて周回している一匹の小鳥が飛んでいた。


「まぁ、よく出来てんみたいだけど、ウチのが年季は上さ」


 キノエは小鳥が通常の命では無いことを見抜いていた。おそらくは何らかの機械のような、監視装置なのだろうと。しかしその上で放置している。何故なら自分がこの屋敷にかけた隠形(おんぎょう)を看破する程の物では無いことも、また見抜いていたからだ。

 近くに何か異形異類がいるのかもしれないが、気にするほどのことではない――そう視線を外し、走っている狛來の為に冷たい飲み物でも用意してやるかと屋敷に振り返った時、キノエは何かに気付いたように眉を上げた。


「……あんだと?」


 信じられない物を見たかの如く目を見開き、キノエは一瞬固まる。


「まさか……」

「キキッ、流石に半年前じゃくだばっていなかったかい、ご老人」


 驚愕するキノエの背後に音も無く降り立ったのは、猿面を被った男だった。神社跡でローゼンクロイツと遭遇した謎の男、ミエザルだ。


「……ふぅん。ミエザルかい。お前さんもまた、半年前にこっそり夜逃げした割りには偉そうじゃねぇか」


 キノエは振り返らないままに、ミエザルの素性を言い当てた。声だけとはいえ見向きもしないで正体を看破されたことに、ミエザルはさして驚かない。

 そして彼にとって平素のまま、要件を告げる。


「ここにいるんだろ? キキッ、我らが御大が探す傀儡が」

「……あぁ、アンタら好みってこたぁ分かってたが、まさか本当に狙っとらぁな」


 キノエはゆっくりとミエザルを振り返る。いつもはにこやかに細められている双眸は、狛來に見せたことが無い程に鋭くなっていた。

 刃物のような視線を受け止めてミエザルは肩を竦める。


「キキッ、それを知って保護したのかと思ってたぜ」

「お生憎、偶然さ。だが、もしかしたらお導きだったのかもしんないねぇ」


 見えざる空気が弓を引き絞るかの如く張り詰められていく。両者は未だ何の構えを見せていないが、その間を流れる空気だけが沸騰寸前まで煮えていく。

 そしてそれは、次の瞬間には弾け飛ぶ。


「キキッ、何のだ?」

「お前さんらから幼気な女子(おなご)を守れという、天のお導き、さ!」


 小気味のいい音。それがにわかに響いたかと思うとミエザルの頭はアッパーカットを受けたボクサーのように弾かれていた。キノエは曲がって腰の後ろに手を組んだままで、何もしていない。

 ミエザルは敢えて勢いを殺さずバック転し、また元通りに立つ。首を鳴らし、ダメージを確かめる。


「ふぅー……キキッ、流石に鈍っちゃいねぇな。だが!」


 トン、と小さく跳ねた瞬間、ミエザルの姿は掻き消える。目に捉えきれないほど高速で地を蹴ったのだ。野生動物など目では無い程の瞬発力を以て色つきの風と化したミエザルは、鉤爪のように腕を構えてキノエへ迫る。


「キキィ! ……ぐえっ!?」


 が、その凶手が届くよりも早く、再びミエザルの身体が見えない何かに殴られる。自分の出した速度も相まって、ミエザルは体をくの字に曲げて先程よりも勢いよく吹き飛ぶ。


「げはぁっ!!」


 そのまま倉の一つに衝突し、破砕音を響かせてミエザルは着弾した。その音に気付いたのか、慌てた様子で狛來が駆け寄ってくる。


「キノエさん!? 今のは!?」

「ちと面倒な手合いがなぁ。こっち来んさい」


 混乱した様子の狛來とは異なり、キノエはいつも通りにしつつ手を招く。狛來はもうもうと砂煙を立ち上げている倉の方を気にしつつも素直に従い、老婆の背後に回る。キノエは安心させるように狛來の頭を撫でる一方で、倉の壁に叩きつけられたミエザルを睨め付けた。


「この子は渡さねぇぞ。帰って毛むくじゃらにおめおめと逃げ帰って参りましたと報告するんだな」

「……キキッ、そんなことしたらオラでも書き換え(・・・・)られちまいますよ……っと」


 そう零しつつ立ち上がったミエザルにさしてダメージは無い。体のあちこちを痛そうに擦ってはいるが、それだけだ。


「ま……小手調べはこのくらいでいいだろ」

「フン。……狛來、もう少し下がってな」

「え、でも……」


 どうやらあの猿面の男と戦っているのだと察した狛來は心配そうな目線をキノエに向けるが、キノエはそれに笑って答えた。


「なぁに心配すんな。ちょっとした準備運動にすらなんねぇさ」


 そこから先の戦いは、狛來の目には追いきれなかった。






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