「うん。しゃあないな」
謎の老婆、キノエと出会ったことで狛來は久しぶりの人間的な生活を取り戻した。
だが、かといってのんびり過ごせるという訳でも無かった。
「………」
狛來は正座していた。目を瞑り、闇の中で感覚を研ぎ澄ませる。
そうすると己の内にある、得体の知れない力が分かった。
炎のような、あるいは霧の塊のような。およそ物質的ではない存在。あのブラックエクスプレスの時から己の中にあると気付いた、ヤミの力の根源だ。それは狛來の感情と同期し、揺らぎ、蠢いていた。
「……ふぅー……」
精神を落ち着かせ、平常に保てばその揺らめきも大人しくなる。何も考えず心を凍てつかせれば、その炎は暴れ出さない。
漆黒の闇の中、己の中にある力との静かな戦い。己の息づかい以外何も耳に届かず、無に近い時間が流れていく。
――だが、その間隙を突くようにして暗闇の中から記憶が浮かび上がる。
『うわああああっ!!?』
『ひ、人殺しっ!!』
列車の中、恐慌に駆られたクラスメイトの怯えた視線。
目の前にゴロリと転がる怪人の首。ズタズタに切り刻まれたシートの隙間から零れる夥しい量の血。
『違う違う違う!! ボクじゃない、ボクはやってない!!』
現実を否定したくて、頭を抱えた掌の感触。頬を伝う涙の冷たさ。
『お、落ち着いて、狛來ちゃん。今、そっちに行くから』
『なっ……』
そして憧れていた、恩人すらも切り刻んだ己の力。
『あ……え? ボク、が……』
あの時の絶望は、こびり付いて消えてくれない。
ふとした瞬間に湧き上がっては、狛來を苛む恐ろしいトラウマ。
忘れられない記憶が蘇り、狛來の呼吸を乱す。
「――喝っ!」
その瞬間響き渡るのは現実の一声。
そして次の瞬間、肩にビシリと鋭い痛みが奔った。
「いっ――!」
あまりの痛みに狛來の意識は浮上し、今し方のトラウマすらも忘れ去ってしまう。
目をしばたかせる彼女の視界には道場のような空間と、木で出来たヘラのような棒を持ったキノエの姿があった。
藍色の袴を履いた老婆はシャンと立ち、木の棒で掌を叩きながら痛みに涙目になっている狛來を睥睨していた。
「乱れとるねぇ」
「ぅ……はい」
同じように袴を身につけて正座していた狛來はしゅんと項垂れ、キノエの言葉に頷いた。
キノエの屋敷に来て三日。
狛來はキノエの元で修行を積んでいた。
キノエが何者かは、まだあまり分かっていない。
だがその立ち振る舞い。そして家の中の小物類からただ者ではないことは感じ取っていた。
今も道場の壁を見れば、そこにいくつもの刀や弓がかけられているのが見える。それだけならどこの道場でもあり得そうだが、その中には狛來から見ても異様な物が入り交じっている。
特に鎖で雁字搦めにされた、生き物の如く表面に血管が脈打っている剥き出しの剣など、どう見ても悍ましい呪物だ。
正体を訊いてみたりしたこともあったが、のらりくらりと躱されてしまった。
「昔のことなんかあんま憶えてねぇや」とか、
「ただの田舎暮らしの老婆さ。それよりミカン食いねぇ」など。
詰め寄っては受け流され、結局はミカンを口に詰め込まれていたりと成果は上がっていなかった。
だがそんなキノエも、ヤミについては答えてくれた。
『お前さんのそれは、血筋にずっと憑いてた憑き物だぁ』
出会った日と同じちゃぶ台に座ってそう語るキノエの瞳には、真剣な光と居たたまれない憐憫が宿っていた。
『大昔、お前さんのご先祖はホントに犬神を使役してたんだろな。ただその所為で犬神が取り憑き、代々に渡って受け継がれて来たんさ』
『で、でも、ボクのお父さんお母さんは普通の人でしたよ……?』
当然の疑問としてそう問う。少なくとも狛來が知っている限り、両親にそんな兆候は見られなかった。
『だろなぁ。普通に生きとる限りじゃソイツの出番はあんめぇ。あるとしたら、命の危機じゃろ』
『命の、危機……』
思い至る。ブラックエクスプレスの時。あの時は確かに、紛れもなく命の危機だった。
だが、その後に続けたキノエの言葉は信じられなかった。
『犬神は宿主を守る』
『……守る?』
『んだ。犬神は忠犬らしい性質を持っとって、憑いた血筋のモンは永遠に守る。宿主が子どもを為したらソイツに移って、また子どもが生まれるまで守り続ける。そうして受け継がれて来たんだ、その犬神は』
『あれが、守る……?』
狛來はあの惨状を思い出す。刻まれた斬裂。飛び散った血痕。突き刺さる敵意の目線。転がる恩人の指……。
守るどころか、狛來のことを追い詰めている。
狛來が疑義を抱いていることに気付いたのか、キノエは気の毒そうな顔をしながら答える。
『犬神は首を撥ねられた死霊だ。んな悍ましい生まれだから、守る手段も他者を傷つけることしか知んねんだ』
『そんなの、望んでない!』
ダン! とちゃぶ台を叩く音が響き渡った。激情のままに狛來が拳を叩きつけた音だ。小学生の力の所為か幸い物が倒れることは無かったが、叩きつけられた拳は強い力で固く握りしめられていた。
『コイツの所為で……ボクは……!』
胸を掻き毟る。そこにある忌々しい物を掻き出したくて。そう出来たのなら自分なんてどうなってもいいと言わんばかりの勢いで。
そんな自傷的な狛來の手を、キノエは柔らかく掴んで止めた。
『止めなせぇ。んなことしても、お前さんが痛ぇだけだ』
『でも……!』
狛來は一筋の涙を零した。悔しかった。犬神憑きの血筋の所為で自分がこんなに苦しんでいるのかと思うと、己に流れる血を全て吐き出したくなる。
そんな狛來にキノエは優しく語りかける。
『それでもそれは、お前さんの血だ。親から貰った、大切な身体だ』
その言葉で思い浮かべるのは両親の顔。怪獣騒ぎの時もはぐれた狛來を必死に探して、そして戻ってきた狛來を優しく抱きしめてくれた父と母。この身体に流れる血を否定すれば、その繋がりをも否定することになる。
『……それは……』
それは嫌だと、キノエに諭された狛來は俯いた。
『……だけど、この力がある限りお父さんにもお母さんにも会えない』
それでも結局はそこへ行き着く。
この力を受け継いでしまったことは変えられないとしても、この力をどうにかしなければ二人の元へは帰れない。
『なら修行すっか』
その一言で、狛來はキノエによって修行をつけてもらうことになった。
キノエが教えるのはヤミの制御法と、犬神についての知識だった。
ヤミの力をコントロールするには感情の制御こそが肝心だ。それ故、己を落ち着かせ感情を無にする座禅が修行法として一番有効なのだと、キノエは語った。
何故キノエがそんなことを知っているのかは知らない。だがキノエが語るその言葉は異様な説得力に満ちていた。少なくとも山に隠れて自分だけでどうにかしようとしていた時よりも、遥かに身についている実感はある。
だがトラウマが邪魔をしてあと一歩のところから前に進めなかった。
感情を制御しようと心を静めれば、必ずといっていいほどトラウマが湧き出してきた。それに心乱され、座禅は成功していなかった。
「うん。しゃあないな」
キノエは狛來を急かすようなことをしなかった。
「トラウマっちゅうモンは時間をかけるか、劇的な経験をするかしないと治らんもんだ」
「……劇的な……」
「うん。だんけども、無理に治そうとするとそれがトラウマになっちまう。だから少しずつ、時間の流れの中に溶かしていくしかねぇ」
キノエは狛來の頭を優しく撫でた。
「気にすんな。ゆっくりやりゃええ」
柔らかなその手つきに狛來は、亡くなった祖母を思い出す。
前にも、そう思ったことがあった。まったく似ていないのに、何故か重なって見える。
(……エリザベート、さん)
彼女は、元気だろうか。
自分が逃げ出して、怒ってないだろうか。
(また、会いたい。けど……)
一度拒絶した自分が会う資格は無い。
寂しさが胸を吹き抜ける。それでも狛來は、それを埋めることを諦めた。
(……とにかく、ヤミを制御できるようにしないと)
顔を張り、気合いを入れ直す。
全てはそれからだと、覚悟を決めて。




