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「昔取った杵柄でねぇ。試してご覧よ。出したくても出せねぇさ」




 書き置きを残し逃げ出した狛來は、夜の森を彷徨っていた。


(……逃げちゃった……)


 何も言わず去ったことを少し後悔する狛來。あのまま保護されていれば……エリザならきっと、優しくしてくれただろう。自分に向けた微笑みを思い出す。包み込むような優しい笑顔は、荒んだ狛來の心の中にも温かみを灯してくれる。

 だが同時に思い出すのは、そんな彼女を傷つけた記憶。列車の中で斬裂を浴びせた悪夢のような光景。

 血は流れなかった。だがそれは結果論で、少し違えば死んでいてもおかしくなかった。あの優しい人の命を奪ってしまうかもしれない――それは、狛來の中で最上級の恐怖を掻き立てた。


 だから、一緒にはいれなかった。

 もう誰も、傷つけたくない。


 だが幼い彼女が一人で生きて行くには限界があった。

 空を見上げる。満月。そこに丸い食卓を見い出してしまい、腹の虫がくぅと鳴る。


(……もう、何日食べてないんだろう……)


 逃げ出してからは、人里にすら赴くことを止めていた。

 万が一にでも見つかることを避ける為だ。

 そして何より――ヤミの力で人を傷つけない為に。


 ヤミの制御は、日に日に難しくなっている。

 狛來の心が弱くなっているからだ。

 理性というものを健全に保つには、まず衣食住の充実が必要条件だ。

 寄る辺はなく、服は汚れ、そして腹を空かせている彼女は……その全てを失っている。

 それではヤミを制御するは愚か、まともな思考を保つことすら難しい。


(死ぬ……いや……)


 一人孤独に耐えるには、少女はあまりに幼すぎた。


(死んじゃえば……いいのかな……)


 そんな考えが浮かんでしまう程に。

 昏い目でそうして彷徨っていると、ふと森から出てしまう。

 目の前にはポツポツとした明かり。恐らくは人の営みだ。どうやら村に来てしまったらしい。あるいは、人恋しくて無意識に足を向けてしまったのか。


(……戻らなきゃ)


 それでも今の自分が人と会うわけにはいかない。

 後ろ髪引かれながら森へ戻ろうとすると、その背中に声をかけられた。


「あんれぇ、どうしたんかえ?」


 直後、総毛立つような感覚と共に狛來の全身から赤紫のオーラが飛び出した。オーラは凝り固まり骨格を作り出し、骨犬ヤミが生まれる。


「っ、逃げてっ!」


 狛來は叫んだ。もっとも、そうせずとも大抵の人間はヤミの姿を見た時点で逃げ出す。

 だが振り返った先には、老婆が後退りもせず立っていた。


「おんやぁ、こりゃたまげた」


 老婆は逃げる素振りを見せない。それどころか、怯えてすらいない。

 ボケてしまっているのか。狛來はそう思った。そして恐怖する。もし、逃げてくれなかったら――。


「やめて……やめてヤミ!」


 そう叫んでも、ヤミは警戒態勢を止めない。狛來が心のどこかで人を怖れているからだ。罵倒され、殺されかけた狛來の心底には人間への不信がこびり付いている。

 だからこそヤミはそれを排除する為に斬撃を飛ばした。


「やめてぇっ!!」


 人体は愚か、鋼鉄すら両断する斬撃が迸る。不可視の刃は老婆に迫り――、


 ――そして容易く受け止められた。


「え?」


 見えない筈の刃。それが老婆に片手で受け止められていた。不可視の斬撃が見えているかのように掴み取られる。まるでいたずら小僧の手を止めるかの如き気軽さで、致命の一撃は食い止められた。血は一滴も流れていない。

 呆ける狛來。心なしかヤミも驚愕して固まっているように見える。そんな一人と一匹を前に、老婆は柔和な笑みをニコニコと浮かべていた。


「おやおや。憑き物とは珍しいねぇ」


 老婆は狛來へ近づいてくる。それにハッとした狛來が再起動すると、ヤミもまた硬直から解放された。


「ま、まだ駄目です!」


 ヤミは警戒態勢を解いていない。となれば、また斬撃を飛ばす筈だ。

 狛來の予想通り、紫黒の狗体は老婆に向けて見えない刃を撃ち放った。しかも今度は複数。ブラックエクスプレスの惨劇を思い起こす数だ。


「やめっ――」


 静止の叫びを上げる狛來。だがその声は途中で止まる。

 老婆に届く前に、斬撃は消え失せたからだ。


「へっ……?」


 何が起きた分からず再び硬直する狛來。

 ついに老婆は狛來の目の前に辿り着き、その肩を優しく叩いた。


「こんな若ぇうちから発現してるなんて可哀想に。どれ、ウチに来んさい」

「えっ、あ、いや駄目なんです!」


 それでも狛來は老婆の手を振りほどこうとした。自分が人といては、また傷つけてしまうから。

 が、老婆の手はビクともしない。まるで鉄で出来ているかの如く微動だにしなかった。


(え、えぇ!?)


 とても老人とは思えない手応えの強さに狛來は困惑した。そんな内心の混乱を余所に、老婆は狛來の手を取りどこかへ向かって連れ歩き始める。

 だがヤミは、まだ消えていない。斬撃が効かないと見たヤミは、ならば直接食い破ると言わんばかりに骨の顎門を牙剥いた。

 しかし老婆はそれを一瞥すると、


「五月蠅いねぇ。主を守りたいのかもしんねぇけど、今は持て余してんだから、引っ込んでなせぇよ」


 ヤミの頭をガッと掴み、そのまま握りつぶしてしまった。黒い頭蓋骨はバラバラに砕け散る。頭部を失ったヤミはすーっと薄くなって消えていく。


「え? あっ!?」


 突然の光景に困惑する狛來。ヒーローや怪人すらも手こずらせ、自分を苦しめてきたヤミがこうもあっさりと。唐突な展開に目を丸くするばかりだ。

 一方で老婆は何でも無いという風に素面だ。


「今んじゃまだ消えた訳ではねぇで。お前さんの中に引っ込んだだけだ。だからほら、今の内に行くぞ」

「ど……どこに?」


 老婆は皺だらけの顔にニッコリと笑顔を浮かべて答えた。


「オラんちさ」





 ◇ ◇ ◇





 狛來が連れてこられたのは古い日本家屋だった。塀に囲まれたそこは広く、狛來は小さな小学校のようだと感じた。

 何かを言う暇も無く狛來はトントンと居間に上げられ、畳の上に敷かれた座布団の上でちょこんと座っていた。

 奥から湯飲みとミカンの乗った盆を持ってきた老婆がそれをちゃぶ台に置き、対面に座る。


「疲れたろ? まぁまずはこれを飲みんなさい。ミカンも食いねぇ」


 断るべきだ、と狛來の理性は言う。目の前のお婆さんがタダ者じゃないのは分かったが、だからといって迷惑をかけていい訳ではない。さっさとこの屋敷から出て行って、森に帰るべきだと狛來はまず考えた。

 だけどそれを実行することは出来なかった。温かな湯気を立てる緑茶と瑞々しいミカンを目にしたら、自然と涙が零れてしまったからだ。


「……あったかい……」


 湯飲みを手に持つと掌から温かさが伝わってくる。人里から完全に離れている間、感じることの出来なかった温かさだ。

 我慢出来ず、狛來は緑茶を飲んだ。まだ煎れられて間が立っていない熱々のお茶は少し狛來の舌を刺激したが、それ以上に久々に味のついた飲み物を口にした感動が勝った。ミカンにも手をつけようと手を伸ばすと、既に老婆が皮を剥いていてくれた。口に放り込む。甘さが浸透して、ますます涙が出た。


「……おいしい……おいしいよう……」

「ほうかい。もっと食いねぇ」


 老婆はどんどんミカンの皮を剥く。それを端から咀嚼していく時間が続いた。

 久しぶりの食卓というものに、狛來はお腹以上に心が満たされた。


 ミカンを粗方食べ終わり、涙を拭いて人心地ついた辺りで狛來は改めて老婆に礼を言った。


「あの……ありがとうございます。お茶も、ミカンも……」


 おずおずと頭を下げる。とにもかくにも、礼は言うべきだ。

 ぺこりと頭を下げた狛來を見て、老婆は呵々と笑った。


「はっはっは! こんなもん何でもねぇさ! ま、しばらくは泊まってけぇ。今布団出すかんな」

「い、いえ、そこまでお世話になる訳には!」


 狛來は慌てた。この家に泊まったら、この老婆に迷惑をかけてしまう。もしかしたら、殺してしまうかも。


「あ、あの、信じられないかもしれませんけど、さっきの……骨の犬。あれは、人を殺してしまうんです。実際、ボクは……」


 その先は続けられない。蘇る忌まわしい記憶が喉を詰まらせる。だからこそ、ここに残る訳にはいかない。


「……お婆さんも巻き込んじゃうから。……ボクは人のいるところにいちゃいけないんです……」

「あぁ、それかい」


 そう告げても老婆はあっけからんとしていた。

 そして信じられないことを告げる。


「そいつならこの家では出てこれねぇさ」

「え?」

「昔取った杵柄でねぇ。試してご覧よ。出したくても出せねぇさ」


 老婆の言う通り、狛來はヤミを出そうとしてみた。日に日に制御が甘くなっても、ある程度自分の意思で出し入れする程度のコントロールは身についている。

 意識を集中し、ヤミが目覚めてから感じられるようになった身体の奥底に眠る得体の知れない力を引き出す。そうすれば、赤紫のオーラが立ち上りヤミが姿を現す筈だ。

 だが……。


「……? 出ない……?」


 どれだけ意識を集中しようと赤紫のオーラは滲み出さなかった。正確に言えば力が体内にわだかまっているのは感じるが、身体の外には出て行かない。まるで蓋をされているように念じても引き出せなかった。

 ということは、ヤミが出現しない。


「ホ、ホントに……?」

「おうよ。この屋敷の敷地内……塀の中、庭ぐらいなら大丈夫(ダイジョブ)さ。その憑き物は出てこねぇ」


 それは狛來が求めてやまないものであった。

 ヤミのいない安寧。元通りの生活。誰も殺さない、保証。

 欲しくて、求めて――そして今、唐突に降って湧いた。

 その誘惑を撥ね除けるだけの余裕は狛來に残されていなかった。


「……じゃあ、ボク、ここにいても……?」

「だから最初から言っとるだろ?」


 老婆はニカッと笑った。


「好きなだけおるとええさ。じゃ、布団だすっけなぁ」

「あ、あの!」


 よっこいしょと立ち上がり別室に消えようとする老婆を狛來は呼び止める。


「ん?」

「な、名前……」


 あぁ、と老婆は気がついたように頷いた。そして改めて名乗る。


「オラはキノエだ。お前さんは?」

「ボ、ボクは、狛來……です」


 親に迷惑をかけたくなくて名字は名乗らなかった。だが老婆は、キノエは何も言わなかった。


「そっかい。じゃあ狛來、布団出すの手伝ってくんろ」

「は、はい!」


 慌てて狛來も立ち上がり、キノエの後をついていく。

 狛來はしばらく謎の老婆、キノエと奇妙な共同生活を送ることとなった。






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