「もう、やだ……ほっといてよ……」
ブラックエクスプレス事件から一週間、狛來は田舎町を流離っていた。
「っ……ごめんなさいっ!」
都心から離れた田舎はセキュリティ意識が甘い。人のいない隙を見計らって戸締まりのされていない家屋へと忍び込み、冷蔵庫などから食物を頂戴する形で狛來はなんとか生きながらえていた。
捕まることはない。何故なら発覚するよりも早くに別の町へ移動するからだ。
「……ヤミ!」
盗んだ食べ物を抱えて森の中へ飛び込んだ狛來は、自分の力を呼び出した。狛來の小さな身体から滲むように現われた赤紫のオーラが、黒い骨犬の形を取る。
狛來は自分のこの力に『ヤミ』という名前をつけた。本当は忌々しく名付けたくもない力だが、こうした方が力を使いやすいことに気付き、狛來は仕方なく暗闇のような色から取り、ヤミとつけた。
一週間かけて狛來はヤミの力をある程度コントロール出来るところまで理解していた。そしてその力を、移動のためだけに利用していた。
「……ごめん、なさい」
抱えたソーセージや冷凍サラダを手にもう一度謝り、狛來はヤミの骨だけの背に乗って飛び立った。
いつまでこんな生活を続けるのだろう。
狛來は山奥の川辺に立てた簡易テントの傍に座り込んでそんなことを考えた。
子どもの力でも立てられる小さいが便利なテントは、やはり民家から盗んだ物だった。故に目に入るだけで狛來の心に罪悪感の影を落とした。食べ物をしまっておくクーラーボックスや、薪に火を着けるためのライターもそうだ。人から盗んで、盗んで、それを繰り返す。そうしなければ生きていられなかったからとはいえ、罪を重ねることは狛來の心を苛んだ。
出来るだけ自給自足で生きられるようには試みた。しかし結局は一介の小学生に過ぎない狛來がサバイバルをするには体力も、知識も足りなかった。空腹を覚えては民家に忍び込み、火を着けられないと悟れば雑貨店のライターを盗んだ。
それでもなるべく盗みたくなかったから、狛來は我慢できるところは我慢している。日の暮れた暗闇や、山中に蔓延る羽虫の煩わしさ。食事だって最低限にしているし、水も自然の物を利用しようと努めていた。だがそれが、一層に狛來の余裕を蚕食していた。自然の脅威と生理現象が、何よりも狛來を追い詰める。
一週間以上そんな悲惨な生活を続けている狛來のメンタルは、もう水際まで追い込まれていた。
「もう、やめたい……」
ぼそりと呟くその言葉に力は無い。涙も、毎夜啜り泣く内に枯れ果ててしまった。
だけど、我慢しなくてはならない。何故なら――
「あんれまぁ、こんなところに人だべかぁ?」
突如聞こえてきた素朴な声に、狛來は弾かれるように顔を上げた。
そこにいたのは釣り人らしき服装に身を包んだ老人だった。手には釣り竿とクーラーボックスを持っている。狛來の居座った川縁はかなりの山の中だが、どうやらそんな僻地でも川釣りに来る物好きはいるらしい。
「しかもお嬢ちゃんじゃねぇか。どしたんこんなとこで」
老人は辺鄙なところに一人でいる狛來を怪訝に思い、心配げに近づいてきた。しかしそれに対し、狛來立ち上がって後退る。
「いや……来ないで、来ないでください!」
狛來は確かにヤミの力をコントロール出来るようにはなっていた。しかしそれはブラックエクスプレス事件と比べて、に過ぎない。
自分の意思で出せるようにはなったが、やはり無意識や精神状態に敏感に反応してしまう部分は多く、狛來が怖がれば警戒するように出現してしまう。
そして逃亡生活で追い込まれた狛來の精神は、非常に尖っていた。
ずるりと、狛來の身体から染み出してヤミが現われる。その四肢は開かれ、顎門は唸りを上げるかのように食いしばられている。今にも飛びかからんとしている、明らかにこの世のものではない骨犬に、釣り人は驚いて叫ぶ。
「ひえぇっ!?」
恐怖を満面に浮かべ、老人は釣り道具を捨て遁走した。
その背を見送り、狛來は後悔するような表情で蹲る。
「また、だ。これじゃ……帰れない」
狛來とて、出来ることなら家に帰りたい。しかしヤミの力を完全にコントロール出来ない内は、常に誰かを傷つけてしまう可能性を孕んでいた。だから帰れず逃亡生活に甘んじている。しかしその生活が狛來の心を更に苛み、荒んだ精神はヤミの出現を容易にする……。
悪循環。帰りたいと焦る度、遠ざかっていくというパラドクス。最早自力での解決は困難と言ってもいい。このままずっと一人でいたならば、この悪循環に潰され心が壊れてしまっていただろう。
だが幸いと言うべきか不幸と言うべきか、周囲の状況は彼女を放ってはおかなかった。
ジャリ、と土を踏む足音が聞こえた。
また誰か来てしまったのかと狛來が顔を上げると、そこにいたのは予想外の顔ぶれであった。
「いたぜ、人相書き通りだ」
「ラッキーだったな。まさかウチの勢力圏にいてくれるとはよ」
「ギチチチチ……」
野卑な声でそう囁くのは、三人の男だ。しかしただの人間ではないことは、一目で分かる。
何故なら全員、獣の頭をしていたからだ。
山羊、魚、アリ。類はバラバラなれど全員共通した装束に身を包んでいる。
狛來の脳裏に閃いたのは、悪の組織という言葉だった。
「っ!?」
「名乗っておこうか。俺たちは『獣爪會夜斗衆』ってモンだ」
中央の山羊頭の男が自らの胸を叩きそう名乗った。
隣の魚面の男がその続きを引き継いで語る。
「ヒッヒッ。お嬢ちゃんの方は自己紹介はいらねぇぜ。知ってるからな」
「ギッチチチ」
「……どういう、ことですか」
不気味に笑う魚とアリの獣人に狛來は警戒するように問うた。既にヤミは頭上に顕現している。今この時ばかりは、それを止めようとも思わなかった。獣人たちの目線からは邪悪なものを感じる。ならば力を使っても、良心はあまり痛めない。
そう、思っていたが。
「なにせ、お前が斬り殺した怪人はウチのモンだからなぁ!」
「!!」
その言葉に狛來の記憶がフラッシュバックする。混沌した列車。クラスメイトの冷たい目線。目の前から来る……鉤爪の脅威。
目の前の男たちのように装束に身を包んではいなかったとはいえ……その雰囲気は似通っている。
「それ、は……」
記憶に焼き付いた、首を失って崩れ落ちる姿が狛來の中で反響するようにリフレインした。ヤミが、自分が初めて殺してしまった生命。そうしなければ自分の命がなかったとは言え、命を奪ったことには変わりない。
だが同胞の死を口にしても、男たちの態度は変わらなかった。
山羊の男がどこか楽しげな空気で口を開く。
「別に復讐しようってわけじゃない。それどころか、今日ここに来たのは勧誘の為だ」
「勧、誘……?」
「そう。お前、怪人にならないか?」
「っ!?」
勧誘。山羊頭は饒舌に続ける。
「コッソリとだがあの惨状を見たぜ! いや痺れたね! あんだけのことをしでかせる未発見の能力者なんてそんじょそこらじゃお目にかかれない。お前の存在を知ったら全国から悪の組織が勧誘に来るぜ。いやもう動き出している。俺らみたいにな」
「だから他に取られないようにって先手を打ちに来たんだぜぇ? それにヒーロー共がお前を指名手配しているみたいだしな?」
「ギチチッ」
「だから俺らと来いよ。お前の力、俺らが生かしてやる」
指名手配。その単語を聞いた狛來の肩が跳ねる。薄々予想はしていた。人を殺してしまった自分が逃げ出せばどうなるか。だがいざその事実を明かされれば衝撃は大きい。人を殺めてしまった自分はもう、社会の輪に戻ることは出来ない。そう突きつけられたショックで狛來は立ち尽くした。
「……おい返事は?」
返答が来ないことに業を煮やし、男たちは一歩前に踏み出した。それが、狛來の神経に触れてしまう。
「っ、やめて!」
直後、突風が吹くかのように空気が不自然に流れた。既に能力の情報を得ていた怪人たちは素早く対応した。アリのような怪人が二人の前に出て、腕を交差させ盾にする。見えない斬撃が迸った。装束の袖が切り裂かれ、その下からは蟲の甲殻が現われる。その表面には裂傷が刻まれているものの、怪我ではない。
「ギチッ!」
「テメェ、やりやがったな!」
「ひっ」
魚頭が激昂する。敵愾心を露わにし、水かきのついた爪を展開した。狛來は怯え、それを感じ取ったヤミが再び斬撃の力を行使する。
見えない刃。だが空気は切り裂かれる。魚の怪人はそれを敏感に感じ取り、斬撃を躱した。
「っ! やだっ、やだっ!」
迫り来る怪人に狛來は何度も刃を飛ばした。それしか出来ない。この一週間、狛來は力の制御法を探ったがその一方で、力の利用法は一切模索しなかった。本能的に斬撃を飛ばす以上の戦い方を、狛來は知らない。
一度見抜かれてしまえば、常人以上の反応速度を持つ怪人にとって躱すことは簡単だった。あっという間に、魚の怪人は狛來に肉薄する。
「! ヤ……」
忌まわしい護衛の名を呼ぶより早く、魚の水かきが狛來の喉元を掴んだ。
「ぎっ!?」
「ヒャハハ、捕まえたぜぇ?」
持ち上げられ、吊り下げられた狛來は苦しげに足をバタつかせる。ヤミは主人たる狛來を救おうと顎門を開いて飛びかからんとするが、魚頭の鉤爪が喉へ食い込むのを見て静止する。
その様子を目撃した山羊頭は感心したように頷いた。
「ふぅむ。どうやらその骨犬には希薄ながら意思があるようだな。さながら忠犬か」
「んなこと言ってねぇでどうするんだよアニキィ。このまま喉カッ切っちまうかぁ?」
「それもいいが、本拠に連れ帰るべきだろうな。娘はどうでもいいが、その力は惜しい」
「ギッチチ」
男たちが自分の身柄について算段するのを、狛來は苦痛と恐怖の中で聞いていた。逃げなきゃ。そう思っても、首を掴む鉤爪がヤミを動かすことを許さない。死の恐怖が狛來の動きを縛り付け、ヤミもまた狛來の命を危険に晒せない。
このままでは、狛來は夜斗衆の本拠へ連れ去られてしまっただろう。そうなれば彼女の幸福な未来は永劫あり得ない。
だが悪の組織が跋扈するならば、駆けつける存在がある。
「ポイズンマシンガン!」
「ギチッ!?」
突如頭上から降り注ぐ声。それと同時に、紫色の雫が弾丸のようになって飛来する。
甲殻で防いだアリ頭と咄嗟に避けた山羊頭は無事だったが、狛來を掴んでいた魚頭は躱せずに被弾する。
「ぐあっ! ……ぐげっ!?」
直後、魚の怪人は苦しげに呻き、狛來の手を離した。銃弾数発程度では身動ぎもしない怪人だが、飛来した雫は魚の表皮を侵して苦しめる。
解放され助かったと狛來は一瞬安堵した。が、地面を見て凍り付く。紫の雨が、自分を巻き込んで降り注いでいたからだ。狛來が被弾しなかったのは、ヤミが斬撃で打ち落としたからに過ぎない。
頭上から聞こえた声が更に響く。
「ソイツには確保命令が出ているからな。一応は麻痺毒にした。だが悪がいるとなれば、次にお見舞いするのは致死毒だぜ」
「誰だっ!」
山羊頭が吠える。樹上に立っていた男は、その目の前に飛び降りて答えた。
「悪を葬る毒牙、パイソン。地獄行きだぜ、お前ら」
ヒーローは悪を逃さない。
だが、味方とは限らない。
「もう、やだ……ほっといてよ……」
そう絞り出した狛來の声は、誰にも届かなかった。




