「ようこそ、ローゼンクロイツへ」
「ごめん……ほんとに、ごめんね……」
美月ちゃんが百合の胸の中で涙ながらに話した告白により、大まかな事情は理解した。まったく、親がそんな酷い事をするなんて考えられない。だが、私たちがそんなことを想像も出来ないような家庭だからこそすれ違ってしまい、今回の事件が起きたのだと思うと中々にやり切れないな。
とにかく、これで本当に一件落着だ。
「百合」
後はイザヤを引き剥がすだけで決着が付く。その意味を込めながら慈母のように美月ちゃんを抱きしめる妹の名を呼ぶ。頷いた百合は、未だ背中に張り付いたままの異世界の幻蟲に手を伸ばしかけ、しかし止めた。
「……百合?」
「あ、うん。……ねぇ、お姉ちゃん、殺さなくても、いいんじゃないかな」
何を、と言いかけ、振り返った百合がいつも通りの表情になっているのを見て溜息をつく。
はぁ、いつもの博愛主義が出てしまった。対象が生きていると言えるのか怪しい怪物でも、百合の心は痛むようだ。まぁ昔から可哀想だからとゲームのモンスターを倒せなかったような子だしな……。今回はイザヤを殺すことを躊躇っているようだ。
「この子は、美月ちゃんの心の支えになったんだし……それに、もう美月ちゃんが悪いことをしないなら、このままでも……」
「……ううん、それは駄目よ」
どうしたものかと考える私よりも早く返事が上がる。
百合の言葉を否定したのは意外にも美月ちゃんだった。
「私は……たくさんの罪を犯した。父を、赤星を監禁したことはあまり後悔していないけど……」
百合の胸から顔を上げ、泣きはらした瞳に浮かぶのは悔恨だった。
「それでも、昴星官の関係ない社員を危険に晒したのは免れようもない罪だわ。偽造、器物破損……問われるべき罪は無数にある。起こった経済損失は数え切れない程だわ。路頭に迷った人もいると思う。そんな巨悪を放置しては、いけないわ」
内心を吐露して冷静になった美月ちゃんは今まで自分がやってきたことを改めて認識し、悔やんでいるようだ。例え憎き父の会社であっても、無関係の人間を巻き込んだことに変わりは無い。人死にが無くとも会社を失い、途方に暮れた人間はいる筈だ。二次災害も把握しきれない程起こったことは想像に難くない。憎しみの毒を吐き出した美月ちゃんにとってその事実は、贖うべき罪と映っている。実際、美月ちゃんが犯人だと知れば恨む人もいるだろう。罪を告白し、償う。それが正しい道と万人が言う。
だが、私にとっては違う。
「だから私は……イザヤを、手放して、自首を……」
「あー、そういうのはいいんだよ」
懺悔するような言葉をスパッと遮る。え、と驚いた表情で見上げる美月ちゃんにヒラヒラ手を振った。
「悪いことをしたから謝るとか、誰かを傷つけたから罰を受けるとかはどうでもいいんだよ。ヒーローや傭兵怪人を束縛したことだって別にいい。警察やユナイト・ガードに自首とか、そんなことをする必要はない」
「え、だ、だって……」
「――私たちは悪の組織だからな」
困惑する美月ちゃんの前で言い張る。
「そういう、"正しさ"とかそういうのは関係ないんだ。私たちはやりたいようにやる。誰かに迷惑を掛けても知らんぷりだし、真実を闇に葬ることだっていつものことだ。……だから、どうでもいい。悪いことをしたら責任を取るとか、罪を償うとか、そういうのは考える必要はないんだ」
そっと目線を合わせ、頭を優しく撫でる。いつも百合にやるみたいに。
そうとも、私は最初から美月ちゃんをどっかに突き出すつもりなんか毛頭無い。イザヤの力を警戒しただけで、美月ちゃん自身を罰するつもりは欠片も無かった。
「私たちが見ているのは、君だ。支社長の娘でも政略の道具でも、ましてや予言者でも無い。百合の親友の、美月ちゃんだけだ」
法とか、善意とかではこの子は救えない。
赤星のやろうとしたことは法律的にはまったく問題が無いし、その後の人生もそうだっただろう。彼女が自由になるには、異形の力を頼るしかなかった。それが誰かを傷つけるとしても、この子自身が救われるにはそれしかなかった。
だったら正しさなんてクソくらえだ。
「ただ、君がどうしたいかだけ教えてくれ。世の中の正義とか関係なく。それだけでいいんだ」
「……わ、私は」
また涙目になりながら美月ちゃんは答える。つっかえながら、少しずつ。
「私は……自由に、なりたかったんだ、最初は。赤星から……色んなしがらみから。途中で百合への見当違いな憎しみに囚われてしまった、けど……やっぱり、それがイザヤを手に取った一番最初の願い」
「じゃ、逃げだそう」
なんのことはないと私は言った。
「我がローゼンクロイツなら人一人の痕跡を消すことなんて楽勝だ。それが大企業のご令嬢でもね」
実際にはそんなに簡単じゃないけど、やってやれないことは無い。百合の許可が出たならば巨額の費用は掛けてでも成し遂げる。それがローゼンクロイツ構成員だ。
「勿論、閉じ込めるなんてことはしない。隠れることなく堂々と送れる第二の生活をプレゼントしよう」
「……イザヤは、どうなりますか」
ポソリと呟き、美月ちゃんは背後の蝶に視線を向けた。
「イザヤがいたらいけないってことは、分かってます。また私が、力を悪用するかも知れないから。……でも」
淡く光る翅にそっと触れる。
「イザヤと、一緒にいたい、です。私にはイザヤの力しか無い、から。それに……ずっと支えてくれたイザヤを、死なせたく、ない……」
確かに、今の美月ちゃんにはイザヤの力と百合との友情しか寄る辺が無いと言ってもいい。赤星の元から逃げ出すということは戸籍もそれまでの生活も全てほっぽり出すということだからだ。この上イザヤまで失ったら……そう不安になる美月ちゃんに、私は肩を竦めた。
「なら、それも仕方ない」
「えっ……」
受け入れられるとは思っていなかった美月ちゃんが再び驚く。無理もない。さっきまで私はイザヤを殺そうとしていたのだから。
「私としては危険な力であるイザヤは葬りたいところであるが……百合が反対し、そして君がどうしてもと言うなら意見を翻そう。イザヤはそのまま。後でどんなことが出来るかデータを取らせてくれるだけでいい」
「えっ、えっ」
あまりにも鮮やかな掌の返しように、ポカンと口を開けてしまっている美月ちゃんに戯けて振る舞う。
「ん? 知っているだろう? 私は百合にはだだ甘なんだよ。愛しい妹の言うことは何でも聞いてしまうくらいにな」
「……もう、お姉ちゃんったら」
憚りもなく言う私に百合がいつものように苦笑する。そう、いつものことだ。
美月ちゃんを庇う。イザヤも安堵する。百合の友達で、私としても可愛い後輩だから。それだけの理由だ。
倫理に照らし合わせれば許されない行為だ。キチンと然るべき場所で罪を裁かれるべきというのが、大多数の"正しい"意見だ。実際、それはどこも間違っちゃいない。
けど悪の組織は正しく無くていいから。
全部無視して一人の女の子を救ったっていい。
「……さて、美月ちゃん。それからイザヤ」
私は手を差し伸べる。罪も正しさも、私が全部撥ね除けるから。
君はこの手を取っても許されるんだよ。
恐る恐ると美月ちゃんは手を伸ばす。触れた手を私が強引に掴み取り、微笑む百合の手が上から覆ってもう離れない。
「ようこそ、ローゼンクロイツへ」
「おかえり、美月ちゃん!」
「……うんっ」
こうして黒死蝶事件は幕を閉じた。
悪の組織だからこそ、これで一件落着だ。明日からは、美月ちゃんと百合はただの親友同士。積もる話もあるだろう。
だが私には……無数の後始末が待っているがな!




