僕を巡る
真っ白な目玉焼きに箸を入れると、これまた真っ白なとろけたものが中から溢れ出てくる。
色が違うだけでどうしてここまで食欲が失せるのだろう。
色のことは諦めて口の中にパンと一緒に流し込んだ。
「そんなゆっくり食べてる時間あるの?ちゃっちゃと食べなさい」
「えっ!えぇ〜」
食べたら食べたでこうなるのか。
これ以上早く食べられないよ。
「ほんなほほひっはっへ、ふひはほんはふひはほ」
口の中に詰め込んだまま喋ったので、自分でも何を言ってるのか分からない。
急いで牛乳で流し込み、自分の部屋に戻って行った。
手早く制服を着ようとしても視界が歪んで上手く着ることが出来ない。
距離感すらもあっているのか怪しい。
ズボンを履こうとして片方の足を上げたところ、案の定バランスを崩して机に倒れかかった。
倒れかかった際、机の上にあった色鉛筆をケースごと落としてしまい部屋の中にぶちまけてしまった。
「あぁ〜あ。急いでるのにまいったな」
急いで拾おうにも距離感が掴めなくて、細い鉛筆を拾うのはあまりに難しい。
どうにか掻き集めているとあることに気づいた。
白の色鉛筆が増えた、そんでもって同じ色の鉛筆もいくつか。
白い鉛筆を見比べてみると、片方の鉛筆には小さい文字で白色と書いてあり、もう片方には黄色と書かれていた。
他のも見比べてみると、オレンジ色と書かれた赤い鉛筆があった。
どれも色と名前が合っていない。
「それに真っ白な目玉焼き…。そうか!」
全ての謎にピッタリ当てはまる答えがあった。
「黄色か!」
真っ白な目玉焼き、オレンジ色と書かれた赤い鉛筆、そして真っ白な黄色の鉛筆。
どれも黄色を失っていた。
オレンジ色は赤色と黄色を混ぜると作れる。
そこから黄色だけを抜くと、今回のようにオレンジ色と書かれた赤い鉛筆が完成する。
ただ単純に黄色だけが見えなくなったのでは無く、黄色そのものが僕の目から消えたのだ。
これはおそらく僕にだけ見えていて、他の人には赤い鉛筆では無くてちゃんとオレンジ色鉛筆に見えているのだろう。
どうりで人の肌もやたらと白く見えたわけだ。
真っ白なものにも一応輪郭があって区別はされている。
だが、僕の知っている世界はもうなくなってしまった。
鮮やかだった世界が淡白に。
それはもう、今まで僕が見ていた世界とは全く違うものになっていた。
知っているものはなんとか記憶からの修正で補い、淡いにせよどうにか認識出来るようになった。
目もだいぶ慣れてきた。
片足で立つくらいならなんとか。
とりあえず学校に行かなくては。
「何やってるのー?早く行きなさーい」
「分かったー。今いくよー」
急いでカバンに色鉛筆を詰めて、履きかけだったズボンを上げた。
落ちてしまいそうな気がして怖かったのでゆっくりと階段を降りていく。
「明日はちゃんと早く寝なさいよ」
「あーもう、分かったよ。しつこいなー。あっ!今日母さん何時に仕事終わるの?」
「なぁに?そんなこと聞いて」
台所で食器を洗っていた母が手を拭きながら玄関まで来た。
「いやー。買っておいて欲しいものがあって」
「仕事なら7時ごろ終わると思うけど。自分で買って来たら?お金あるでしょ」
「えっと…今日の昼飯で全部使うから無い!」
なかなか手強いな。
この買い物は母さんの命がかかってるんだぞ。
「まぁいいわ。で、何が欲しいの?」
「それは後で電話するから。それじゃ!」
僕は勢いよく玄関を飛び出した。
…のでは無く、ぐらついて前のめりになっただけ。
後少しでバランスをうまく取れそうなんだけど。
「行ってらっしゃい‼︎」
母さんが玄関から手を振っているのがドアの隙間から見えた。
前回何を言っているのか聞き取れなかった答えが分かり、それがあまりに当たり前な見送りの言葉だったのがとても嬉しくて涙が出て来そうだった。
僕はこれをもう一度聞くためだけに生き返った気さえした。
「行ってきます‼︎」
当たり前なことを当たり前に出来るということは、とても素晴らしいことだ。
そのことに気付けるのは、おそらく何か大事なものを一度失った人でないと分からないんじゃないだろうか。
だって、その人にとってはそれが当たり前の日常なのだから。
これに気づけただけでも生き返れて本当に良かった。
泣きそうだった顔に喝を入れて、僕は電車に乗った。
小刻みに揺れる電車の中で、車窓を覗きながらこんがらがった頭を整理することにした。
やることを明確にしなくては。
母を救うのは多分簡単だ。
あの時間にあの場所を通らせなければいいのだから。
先ほどの母との会話でどうにか帰る時間をズラす手筈はとれた。
なのでこの問題自体はそれほど難しくはないだろう。
だが…僕のこの目は。
色を失ったこの目は元に戻るのだろうか。
時間をやり直す引き換えにした代償は、いつか戻る可能性があるのだろうか。
状況を整理すればするほど、頭の火照りと一緒に背中と手足が冷たくなるように思えた。
僕は普段と変わってしまった風景を眺めながら、吐こうとしたため息をゆっくりと飲み込んだ。
「一色、遅刻とは珍しいな。それから、入ったらちゃんと挨拶をするように」
今回も教室に入った途端先生に見つかった。
いや、逆を返せば見つかりにいったということになる。
「はい」
今日はなるべく前回と同じように行動して、この先に影響がないようにしなくてはならない。
もしも仮に僕が怪我をして例の時間まで気を失っていたとしたら、前回と同じような結末になってしまう。
つまり、なるべく前回と同じ状況を作り出さなくてはそこから先の未来が予測出来なくなってしまうということである。
なので、不本意だがここは怒られると分かっていながらもバレなくてはならなかった。
僕は椅子に座り、机の上に教科書とノートを出した。
もちろん教科書は閉じたまま。
次に起こることは予測出来ている。
教科書を読み上げる番が僕にまわって来て、それに気づかなかった僕が隣の席の…
「なぁなぁ君、先生に当てられてるよ?」
と、このように隣の席の小鳥遊さん…じゃない‼︎⁉︎
「一色君の番だろ?」
なんで君なんだ⁉︎山なんとか君。
「えっ…あぁ。ありがとう」
まさか声をかけてくるのが小鳥遊さんでは無く、左隣の山なんとか君だったとは。
小鳥遊さんに関しては眠そうにしていて教科書すら開いていない。
てか、なんで僕の名前を知っている‼︎
何故⁉︎どうして⁉︎前回と同じように行動しているはずなのに!
なんで俺の思い通りに動いてくれないんだ‼︎
「分からないのか一色」
「は、はい!今読みます」
僕はペラペラとページをめくり、前回と同じ73ページを開いて読んだ。
僕は一安心すると、隣の山なんとか君が何やらこちらをチラチラと見てくる。
なんだ?感謝して欲しいのか?
はぁ。
「あ、ありがとう。助かったよ」
僕がそう言うと、彼は嬉しそうにして再び黒板を写し始めた。
なんだこいつ。めんどくさ!
一体何がおかしかった。
前回と何が違かったんだ。
分からない。
ただ単純にみんなが前回とは違う動きをしているのか?
そしたら母さんのことはどうなる。
助けられないのか?
それとも事故そのものがなくなるのか?
分からない。
だが、そんなことは一切お構いなく授業のチャイムが鳴り響いた。
もちろん今回もノートは真っ白。
まず開いてすらいない。
そんな余裕はなかった。
どうやら次の時間もその余裕はなさそうだな。
僕の一番苦手な、地獄の体育の時間が始まってしまったのだ。
男子は四組に移動して、女子は三組に移動。
相変わらず男子が走り回っていて、熱気と匂いが凄い。
僕はそそくさと着替えを済まして教室を後にした。
「はい!男子は二人一組に分かれて準備運動‼︎」
前回のことですでに余るのは分かっているので、一切慌てることなくその場に立ち尽くしていた。
ほとんどの人が組み終わり、ボッチがふるいにかけられたころを見計らっていつもの場所に集まろうとしていたら、後ろから生暖かいものが僕の肩にポンポンと触れた。
あまりの気持ち悪さに急いで振り向くと、そこには人間が立っていた。
しかも、それほど仲が良くない人間が。
「一色君。もしよければ一緒に組もうよ」
そう、左隣の席の山なんとか君だ。
普段慣れていないのが分かるくらい不気味な笑みでこちらを見ている。
だからなんで僕の名前を知っているんだ。
「え、あぁそうだね。それじゃあ一緒に組もうか」
あまり嬉しいお誘いではなかったが断れる理由も勇気も無く、何より前回同様余り物同士で組まされるのが分かっているので、どっちみち用意された道は一つしかなかった。
どう転んでも組まされる運命なのだろう。
まぁ、隣の席と話せるようになってよかったじゃないか僕。
「それじゃあよろしく一色君」
だから、なんで何度も名前を呼ぶんだ君は。
そして、何故知っている。
あー、出来れば前回のように小鳥遊さんと仲良くなりたかったな〜。
結局、ぎこちなさは全く変わらずにガタガタの準備運動を終わらせた後、前回にならって木の下に移動した。
少しでも僕の知っている未来の形に修正していかなくては。
空に向けて手を伸ばし、風が通り抜けていくのを感じた。
「どんなときでも空はいいな。変わらずそこにいてくれるんだから。もし、空がなくなったら僕は生きていけないよ」
そんな当たり前のことを呟き、葉っぱと仲良く風に揺られていた。
カラッとした風が頬を撫で、木漏れ日が僕を優しく包む。
「色を失っても空は相変わらず青くて広いなぁ…」
あまりの心地よさにまぶたがゆっくりと降りてくる。
それを受け止めるようにして下のまぶたが僕の視界を閉じた。
男子女子の賑やかな声、ボールの跳ねる音、走る足音、先生の笛の音。
それらも徐々に聞こえなくなっていった。
聞こえなくなった時には既に夢の中だろう。
ーー土砂降りの中、傘もささずに下を向いて歩いていた。
黒と白が交互に地面に並んでいる横断歩道。
手には濡れないよう口を縛られているレジ袋。
地面に溜まった雨に反射して映る赤いライト。
叫ぶ人々。
横からの眩しい光に遮られる視界…
「起きてよ一色君。授業終わったよ」
「ハッ‼︎夢か…」
体を揺すられて目が覚めた。
目の前にはしゃがむ山なんとか君。
どうやら片付けは終わったようだ。
「こんなところで休んでいたのか」
「今、何か嫌なことを思い出していたような」
あっという間に夢の内容を忘れてしまっていた。
思い出そうとしても全く思い出せない。
ほんの少し前まで覚えていたのに。
「なんだか凄く気分が悪い…」
「どうかしたの?」
不思議そうな顔で僕の顔を見つめている。
「いや、なんでもない」
「なら早く戻ろう」
「…うん」
ゆっくりと立ち上がり両腕を高く伸ばして体をほぐす。
体を反った際、はるか遠くの空に黒い雲が見えた。
空がくっきりと青から黒に変わっている。
やはり明日は雨だろうか。
午前の授業が終わり、居眠りをして顔についた袖の跡をなんとか消そうと必死に顔をこすったり伸ばしたりした。
全体的に頬が赤くなって跡より腫れの方が目立ち始めたころ、ようやく体と張り付いていた席をたった。
ご飯の時間だー。
前回同様に食堂の日替わりを頼んで二人席に座る。
これから先のことを考えよう。
どうして同じ日に同じ行動をとっているはずなのに前回とは違う流れになっているのか。
明らかに前回より悪くなっている。
そろそろ挽回のチャンスが来てもおかしくないのではないだろうか。
まぁ流石にそんな都合よくいいことが起きるわけないよな。
と、思いながらもやはりどこか期待している自分がいた。
「あの〜。そこの席空いてる?」
来た⁉︎
「あーどうぞどうぞ。誰もいないので大丈夫ですよ」
そう言いながら後ろを振り返る。
ってお前かー‼︎
「やあ一色君。君も食堂で食べてるんだね」
「や、やあ。そうなんだよ。今日はよく会うね…」
はは、ははは。
「何言ってるんだい。いつも隣の席じゃないか」
笑いながらうどんに七味を入れている様は、まるで何かに取り憑かれて操られているようだった。
「た、確かに。それもそうだね」
君も使うかい?と言わんばかりに差し出された七味を、一度受け取ってから使わずに元の位置に戻した。
僕は一味派だ。
ーーズルズル
名前もよく知らない彼は今も慣れない笑顔でうどんをすすっている。
いつも静かなのに一体どうしたんだ?
僕、何かしちゃったか?
だいぶ失礼なくらいには避けてるかもしれないが。
今の彼には鬼気迫るものがある。
それにいつまでうどんをすすっているんだ。
さっきから麺が切れてないぞ。
うどんの噛み方知らないのか。
ーーズルズルズル
僕は見せつけるようにうどんをすすり、プツンと噛んで見せた。
お互い見合わせるようにうどんをすするという、なんとも地獄絵図のような状況が作り出されてしまった。
だが、その状況もあっという間に終わりを告げる。
なんと、僕が先にうどんを食べ終えてしまったのだ。
山なんとか君、君の食べているものは本当にうどんなのかい。
実は新手の和風スパゲッティなんじゃなかろうか。
その麺なんだかおかしいよ、そしてその笑顔もなんだかおかしいよ。
しょうがなく、サラダにのっていたトマトを口に放り込んだ。
トマトの酸味が薄味だったうどんの余韻をかき消す。
この定食、うどんにトマトは合わないよ。
「ねぇ、一色君は普段何をして過ごしているの?」
わぁ、いつのまにかうどんを食べ終わってるよ。
しかも僕と同じようにトマトを食べて難しい顔をしている。
だからあれだけやめておけと心の中で言っておいたのに。
伝わらなかったかな〜。
「普段は絵を描いたり漫画を読んだりしてるよ」
「へぇ、絵を描いてるんだ。漫画はどんなのを読むの」
「どんなの?うーんそうだな…熱いバトルものとかかな」
「バトルもの…そうかい」
ん?
聞いて来た割には反応が薄い。
あんまり興味なかったかな。
「山なん…君は普段何をしてるの?」
「僕かい?僕はねー……僕の趣味は、これさ!」
そう言いながら突然服をめくって見せつける彼。
腹筋をピクピクとさせながらドヤ顔でこちらを見ている。
そういう系の人か〜。
わざわざこんな人の多いところで見せなくてもいいのに。
せめて腕くらいで済ましておけばいいものを。
「すごいねー」
あまりに感情のこもっていない言葉が口から出て行く。
「だろ!秘訣は毎日欠かさず続けることさ」
「それはそれは」
「どうだい一緒にやらないか?」
「いやいや、僕はこの長年だらけきった体が気に入ってるから別にいいよ」
試しに腕に力を入れてみせたが一切変わらなかった。
まるで麺棒のように真っ直ぐな腕。
「そうかい。鍛えたくなったらいつでも言ってくれよ」
「一生来ないその日を楽しみにしててくれ。それでは僕はお先に失礼させてもらうよ」
時計を見ると、昼休みが終わりそうだったので慌てて食器を片付けに行った。
「んっ、ちょっと待ってくれよ」
さも当たり前のようにぴっちりと後ろをついてくる山なんとか君。
もっとゆっくりと交流を深めれば仲良く慣れたかもしれない。
今はあまりにグイグイ来すぎて引いてしまう。
トイレに行ってから教室に着くまで磁石のように離れず、その光景はさながらゲーム内でプレイヤーについてくるパーティーメンバーのようだった。
残念ながら僕が今倒すべき敵は後ろにいる君なんだが。
寝返るならさっさと寝返って、僕の後ろではなく前方に現れてくれ。
さすがに仲間は攻撃出来ないよ。
「あっ」
美術部の人に話しかけるのを、席についてから思い出した。
まぁいいか。
この世界は僕の知っているルートとは少しばかり違うみたいだし。
午後の授業はもちろん寝ていて、目がさめると教室には誰もいなかった。
ただ一人を除いては。
「やっと起きた。一緒に帰ろうよ」
「君もなかなか律儀だね。わざわざ残ることないのに」
左隣を向いてしまったがために、こちらを向いていた彼と目が合ってしまった。
いや、あいもかわらず君が悪いことこの上ない。
「なかなかに気持ちよさそうな寝顔をしていたから起こすに起こせなくて。それに見ていて飽きなかったし」
ひぃ!おいおい。そこは起こそうよ。
ずっと見てないで起こそうよ。
男の寝顔なんて見ても面白くないでしょ。
「さいですか」
ここは感情を顔に出さないように大人の対応を。
きっと表情に出していたら、先ほど昼食に出たトマトを齧った時のような顔になっていたに違いない。
急いで帰ろうと思い、荷物を詰めるためにカバンを机の上にあげた。
机の中から教科書などを取り出してカバンを開ける。
「なっ⁉︎」
「どうしたの?」
彼は、カバンを凝視する僕を不思議そうに見ている。
「いや何でもない。ほんとなんでもないから気にしないで。しゃっくりみたいなもんさ」
「そうかい」
なんてこった‼︎
すっかり忘れてた。
それどころか起きないと思っていたのに。
なんで入っているんだ小鳥遊さんの体育着‼︎
本来なら飛び跳ねて喜ぶ…じゃなくて、飛び跳ねて驚くところだがそうもいかない。
彼にバレてしまっては一貫の終わりだ。
どうする…どうすればいい‼︎
正直に話すか?だがそれだとごまかす事もそれ以上引き返せなくもならないか。
ならカバンに入れたまま持ち帰るか?いや、それはありだが人として引き返せなくなるのでは。
他に選択肢は!
第三の選択肢はないのか‼︎
額の汗がポツリと手の甲に落ちる。
「どうしたの?帰らないの?」
ん?
いや、有る‼︎
まだ出していない選択肢が。
「そうだね帰ろうか」
カバンのチャックを閉めて、教科書を再び机に戻す。
「あれ、教科書置いて帰るの?せっかく出したのに」
「今日はカバンがいっぱいで、それに帰っても勉強する時間ないから」
「へぇー忙しいんだね」
「まぁね。はははぁ」
彼と目を合わせないようにカバンを背負うと、とりあえず僕は一度教室を後にした。
下駄箱まで行ったところで、こう言いだす。
「あ!そういえば今日は部活があったんだった」
とんだ三文芝居である。
今時の小学生でも、これよりいくらかは上手いに違いない。
「えっそうなの」
「うちの部活、週に二回しかないから忘れてたよ」
計画通り‼︎
これでこっそり教室まで戻ればミッションコンプリート。
完全にして完璧な計画。
僕ながらいい考えだ。
「でも今日はせっかくここまで来たし、一緒に帰ろうよ」
な!なに‼︎
だがここで根をあげるようでは小鳥遊さんは遠い。
帰ったら帰ったで小鳥遊さんはカバンの中にいるけれども。
…いや、いないけれども。
「で、でもこう見えて僕は部活に欠席した事ないんだー」
諦めろ。
諦めてくれ。
その時だった、遠くから女子の話し声が聞こえて来て僕の視界が確かに捉えた。
取り巻き女子を引き連れた彼女…小鳥遊さんの姿を。
まずい!
これはひじょーにまずい。
もうそんな時間だったか?
ただ行動が早まっただけか?
いずれにせよ、彼女達が先に教室についてしまったらゲームオーバーだ。
今度こそどう頑張っても挽回のしようがない。
彼女達が教室に着くそれまでに…
「友達より大事なことってある?」
お前ー‼︎
そんなことを言っている時間は今の僕にはない!
第一友達なのかもあやふやだろ。
「君ならもっとふさわしい友達がきっと出来るよ。だから今日のところは」
先ほどまでとは違いセリフの一つ一つに魂が込められている。
込められている事自体は嘘では無い。
「そんなことわからないだろ」
「学校は勉学に励む場所です‼︎友達にうつつを抜かしていたら本末転倒」
諦めてくれー。
もう小鳥遊さんがすぐそこまで来ている。
「そうかい。つまり君はそういうやつだったんだね」
「も、もちろんだ!」
早く、なんでもいいから早くしてくれー。
自分でも何を言ってるかよくわからないよ。
「じゃあね…一色君」
「おう!」
僕は元気よく返事をした。
彼がトボトボと帰って行く背中は少しばかり悲しそうに見えた。
明日ちゃんと謝ろうかなと思いながら、僕は急いで教室に向かった。
「間に合え!」
教室に着くと、急いでカバンを開けて中身を出す。
長らく閉じ込められていた芳醇な香りが一斉に解き放たれ、僕は顔を押し付けて彼女の匂いを蓄えた。
しっかりと堪能したのち、綺麗に畳んで机の上に置く。
「ごちそうさまでした」
急いで教室を出ると、最悪のタイミングで彼女達に出会ってしまい、僕の体は固まったように動かなくなってしまった。
僕の横を素通りして彼女達は教室に入っていく。
終わったー。
僕の人生終わったー。
「あ!あった」
「よかったじゃん」
「しかも綺麗に畳んであるよ」
ギクリ。
そもそも、僕はこの世界ではまだ小鳥遊さんとちゃんと話すらしたことがない。
ここでバレたらいよいよもって変態である。
何処でバレても変態には変わりないのだが。
やはり変態と一口に言っても度合いというものがあり、たとえば一から十の段階があるとして一番低い一だとしてもーー
「ねぇ君。そこの君」
「は、はい!」
ギクリギクリ。
僕はまだ振り向いていない。
「君が拾ってくれたの?」
「そ、そうです!僕のカバンに間違って入っていたので、もしかしたら小鳥遊さんのものかと」
どんな悪口でもかかってこい。
流石に振り向くしかないと思い、ゆっくりと彼女たちの方に振り返った。
「へぇー。ありがと」
あっ…
彼女の屈託の無い笑顔に、僕の優しい心が痛んだがそんなものはすぐにねじ伏せてやった。
そうでもしないと叫び散らしながら逃げてしまいそうだ。
「よくわかったねー」
「匂いでもしたんじゃないの、あんたいつも近くにいる時いい匂いするから」
「本当だ、どっちもいい匂いするー」
「ちょっと、嗅がないでよー!」
教室では乙女達がキャッキャウフフな世界を作り出しているなか、僕は一言だって口を動かすことが出来なかった。
下手に喋って感づかれたらまずい。
これ以上心が痛まないよう、消えるように美術部へ向かった。
美術部の教室までたどり着いたところでふと足を止めた。
しばらくドアの前で頭を抱えて悩んだ。
いや、それほど考えることではなかったのかもしれない。
「前に一度描いたし、今日部活行かなくていいかな」
時間も過ぎているし、何より今日は色々あって疲れた。
一つ心残りがあるとすれば、モチーフが変わっていないかということだ。
前回はりんごと紐だったが、もしかしたら今回は違うものになっているかもしれない。
もしそうならば、この世界は僕の知っている世界とは全く別の流れで出来ていることになる。
それだけは、どうしてもこれだけは確認しなくてはならなかった。
僕はドアをそーっと開け、誰にも気づかれないように中を覗いた。
それぞれ描いている人がモチーフと重なって何を描いているのかが分からない。
少しでいい、一瞬でいいから動いてくれ。
ーーカタンカタン
後ろの方から足音が聞こえてくる。
まずい。
このままでは教室を覗いている変態扱いをされてしまう。
早く、早くどいてくれ!
ーーガタン‼︎
身を乗り出した衝撃で手に持っていたカバンがドアに当たってしまった。
途端に教室にいた一人の女性が音に反応してこちらに気づく。
「誰?誰かいるの?」
まずい、まずい!まずい‼︎
どうしようどうしよう‼︎
どこかに逃げようにも逃げる場所が無い。
目だけがあちらこちらに走り回る。
そうしている間にもあちらはどんどんこちらへと近づいている。
後ろからの足音もだんだん大きく。
「用があるなら入ってきてもいいわよ」
一瞬、一瞬だけだが彼女が動いたおかげで後ろにあったモチーフを確認することが出来た。
りんご‼︎
「な、なんでもありませーん」
ドアを閉めて勢い良いく後ろを向いて走り出した。
ーードン!
「おやおや。もう帰るんですか?」
下を見て走っていたので前から人が来ていたことに気づかずぶつかってしまった。
右頬に柔らかな感触が二つ。
押し付けられた後、反発するようにはじき出された僕は尻餅をついてその場に倒れ込んだ。
「いってて」
「廊下は走っちゃいけませんよ」
「あ、先生。すみません」
顔を上げると二つの柔らかなものがぶら下がっていて、下から見上げている僕には顔がよく見えないがおそらくこれは美術部の顧問だろう。
「そんなに急いでどこに行くんですか。まだ部活は終わっていませんよ」
「えっと、それは」
先生が屈んだせいで、僕の視界は振り子のように揺れる二つの柔らかなものでいっぱいになった。
未だに顔をちゃんと確認出来てはいないが、これだけのものを持っている先生は僕の知っている限り学校には一人しかいないので間違いは無いだろう。
今年から教師になったらしく、ピチピチでモチモチのお肌が印象的だ。
「お腹でも痛いんですか?それとも他にどこか悪いところが」
何か言い訳を考えていると、先ほど顔から突っ込んだことを思い出し、途端に身体中が強張るように硬くなり熱くなった。
「よく見てみればこんなに顔を真っ赤にして。熱ですか?なんだか汗もすごいようですし」
近づくな、近づくな。
それ以上こっちに来たら当たるだろ。
「はい!ちょっと熱がありまして」
「それはそれは大変です。急いで保健室に行かなくては。先生も一緒について行きますから、とりあえず立ち上がりましょう」
僕の腰に手を回した。
「だ!大丈夫ですから。もう立って…じゃなくて、一人で立って行けますから」
もう、これ以上喋らせないでくれ。
汗が首筋を凄い勢いで流れ落ちる。
「そうですか…。それでは心配ですがお大事に」
「あ…ありがとうございます」
先生と別れ、保健室になど勿論向かうわけもなく。
廊下を曲がった後、下駄箱まで猛ダッシュで階段を降りていった。
雫のような大粒の汗がポタポタと垂れて、足元をジワジワと湿らせていく。
「ハァハァ…殺す気かよ」
息を整え終わり下駄箱から靴を取り出していると、聞き覚えのある声が近づいてきているのに気付いた。
そして、止まりかけていた汗がまた身体中から溢れてくるのだ。
「でさぁ〜、そこのお店のクレープが」
「へぇー、今度私も連れて行ってよ」
「あれっ…君」
ギクリ
開いていた下駄箱をそっと閉じると、僕の横には不思議そうな顔をした彼女たちが立っていたのだ。
先程逃げ切ったはずの小鳥遊さんとその友達が。
「あっ、さっき体操服返してくれてた人か」
「確かいつも休み時間寝ている子だよね」
「いつの間にいなくなったと思ったらこんなとこにいたー」
おぅ。
一応クラスメイトとしては認知していてくれたのか。
流石、小鳥遊さんの横に座っている僕。
「部室に寄ろうかと思ったんだけど、今日は用事があったのを思い出したから途中で引き返してきたところなんだ」
こんなにすらすらと嘘を並べられたのは、きっとどれもこれもあながち嘘とは言い切れないことをオーバーヒートしつつある脳みそが適当に並べてくれたおかげに違いない。
さっきまでの汗と今現在の冷や汗が合わさって、プールの授業後みたいに髪からポタポタと水分が肩に垂れていき、白いワイシャツがもうすぐ肌と一体化するんじゃ無いかと思えるほどピッタリと背中にくっついている。
こんな時期にプールに入る馬鹿なんて存在するはずが無い。
温水プールや室内ならありえるだろうが、残念ながらうちの学校は温水でもなく室内ですら無いときた。
こんなにヒタヒタしている奴が下駄箱に立っていたら人はこう思うだろう。
変態だと。
「ふぅーん」
とても美しい顔立ちをした彼女は、不思議そうに僕の顔を見つめながら息を漏らすように一言だけ残した。
どうやら僕の状態にはあまり興味がないらしい。
全く持って僕に興味が無いからなのか、それとも僕がしっかりと自分の靴を持っているから深くは考えなかったのかは定かで無いが、どうやらセーフだったようだ。
彼女たちに見られている今、目を見て話し合うことなどできる訳もなく。
地面に落ちた自分の汗をただじっと数えていた。
「そっ、それじゃあ!僕は用があるから」
まさか僕の方から切り出すとは自分でも意外だった。
まぁもちろん地面に向かって喋りかけていたので、もはや独り言と捉えられなくも無いが、それでも彼女たちが先に行くのを待つつもりだった身としては驚きでしかなかった。
それほどにも僕はこの空間から逃げたかったのだろう。
急いで靴を履き、彼女たちから来るかどうかもわからない返事を待たずして僕は校門に走って行った。
どうか地面に残った汗まみれの足跡が馬鹿にされませんように。
秋の風に吹かれシャツはあっという間に乾き、帰りの電車に揺られながらやっと一つため息をついた。
高校に入ってあんなに女子と会話をしたのは初めてだ。
家に着くとケータイを取り出し電話をかけた。
相手はもちろん母親である。
「もしもし母さん?」
「あら、どうしたの青?珍しく電話してきて」
「いや、朝言ってた話を」
「あーなんか買ってきて欲しいものがあるんだっけ?ちょっと待ってね。今信号変わっちゃったから」
母の言葉通り、ケータイ越しに車の走る音が聞こえていた。
つまり、急がなくてはもうじき母は事故にあってしまう。
それを阻止するために僕は前回より大変な一日を送ってきたのだ。
もはや、前回と同じに過ごせたところなど思いつかないが。
「新しい色鉛筆を買ってきて欲しいんだ。今持ってるやつと同じやつ」
「え?何?今運転中だから聞こえないって行ってるでしょ」
「だから!い ろ え ん ぴ つ‼︎」
運転中だからというのは分かっているが、それでも少しでも早く話を聞いて欲しい気持ちがどうにも僕を静かにさせてはくれなかった。
正確な時間が分からない以上、すぐにでも車から降りて欲しかった。
こんな気持ちで今を過ごしているのは世界中で僕だけだろう。
僕だけがもうじき起きる未来を知っている。
こんなに急ぐなら家を出るときに言っておけばよかったのにと思うかもしれないが、それだと帰る前に空いた時間で買いに行く可能性があったのだ。
帰るときに買いに行ってもらわなくては時間をズラすことが出来ない。
今聞いて欲しいのだ。今!このとき‼︎
「信号で止まったわ。で、何?」
「色鉛筆!今持ってるやつと同じの‼︎」
「あー色鉛筆ね。替えたばっかなのにもう無くなったの?」
「そ、そうだよ!なんてったって美術部だからね」
いや、正直言うとまだ一本も無くなって無い。
青色は確かにもうすぐ無くなりそうだが、それ以外はほとんど新品に近い状態だ。
「ちょうどすぐ近くにお店があるから買って帰るわ」
「ありがとう」
「お風呂でも沸かして待ってなさい」
「分かった‼︎」
「それじゃあね。切るわよ」
通話が切れ、時計の音だけが聞こえて来る。
待ってなさいと言われたからには無事に帰ってきてくれなくては困る。
困る。
やれるだけのことをやったのだから、もう後のことは祈るしかない。
母が帰って来るのを信じて待つだけ。
自分の部屋に上がり鞄を机の上に投げ捨てた。
制服を着替えて風呂のスイッチを押した。
あとは僕の日常が帰って来るのを待つだけだ。
あぁ、おかえりを言う準備はもちろん出来ている。