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この空は君の色。  作者: 藍白かいと
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目玉焼きの黄身

あおー‼︎明日も学校なんだから早く寝なさーい!」


「うるさいなー。今いいとこなんだから静かにしててよ!」

母の心配を物ともせず、床をドンドンと叩いて返事をする。

これは一軒家だからこそ出来る、れっきとしたコミュニケーションの一つである。


「まったく…遅刻しても知らないからね」

そう言いの残して、母は部屋へと戻っていった。


「ふぅ〜、毎日毎日よくもまぁ飽きもせず怒鳴り散らせるもんだよ。カルシウム足りてないんじゃないか?」

ベッドの上でポヨンポヨンと跳ねては、さっきまで読んでいた漫画のページを一発で開いてみせた。


先ほど母が呼んでいたのでご存知だと思うが僕の名前はあお一色いっしき あおと言う。

ピカピカの高校一年生だ。

高校に入り出来ることが増えたせいか、未だに浮ついた生活習慣が抜けていってはくれない。

せっかくの高校生活!何かやりたい何か面白いことをやりたいと思っていたら、いつのまにか夏休みを終えてあっという間に十月になっていた。

特に変わったことをすることもなく毎日のように漫画にゲーム、さっきの光景も一色いっしき家では日常茶飯事である。

その度に喧嘩やらなんやらで、まったくもって面白くない日々をダラダラと送っている。


何かきっかけがあれば変われるなんてバカみたいなことを考えている自分をどうにかしてやりたいと思っている反面、もう少しこのままでもいいんじゃないかと思ってしまっている自分がいる。

今日だってもう夜遅い、机に置かれているデジタル時計を見てみると十月一日23時40分とはっきり映っている。

明日も朝早いと分かっていてもどうしても漫画やらゲームやらで起きて…おっとすまない、今いい感じに盛り上がってきてるからしばらく待っていてはくれないだろうか。

このシーンが終わったら改めて自己紹介を…自己紹介をした……したいと………思う…



あおー‼︎いい加減起きないと遅刻するわよー!」


「ハッ‼︎寝てしまった」

目覚まし時計を見ると8時を通り越していた。

普段家を出る時間は8時なので、昨日の僕なら今頃家を出て学校に向かっているに違いない。


「なんで目覚ましがならなかったんだ⁉︎」

見て見るとアラームがそもそも設定されていなかった。


「設定せずに寝ちゃったのか〜!」

いくら目覚まし時計だとしても設定されていない時間に、目を覚まさせることなど出来ようも無い。


急いでベッドから跳ね起き、汚い顔と口の中を磨くために洗面所へと階段を駆け下りた。

ドタドタという音が家中に響き渡る。


顔を洗い、リビングへと向かうと自分の分の朝食だけが残されていた。

パンにトマトに目玉焼き、基本を基本にしたような定番メニューだがそんな量を悠長に食べている時間は残念ながら残っていなかった。


パンを口に詰め込み、牛乳で一気に流し込むとリビングを後にした。


「ちょっと!ちゃんと残さず食べて行きなさい‼︎」


「そんな時間は無い‼︎」


「だから、早く寝なさいって言ったのよ!」


「わー!もう、うるさいな‼︎しょうがないじゃんかそのまま寝ちゃったんだから」

急いで制服に着替えて再び一階へと降りた。

ボタンの位置を掛け違えていることに気づき、直しながらどうにかして靴を履きたいと足をくねらせて押し込んでいく。


「今日はちゃんと早く寝なさいよ!」


かあさんは毎日毎日うるさいんだよー!それじゃ‼︎」


そのあとも母が何か言っていた気がするが、聞かずに家を飛び出した。



僕の母親はデザイナーをやっている。

そのせいか僕もよく絵を描くようになり、成り行きで美術部に入部してしまった。

特に後悔はしていないが、もっと派手な部活に入ればよかったと思ったことは何度かある。

美術部はそれほど活発に活動をしている訳ではないので週に二回しかない。

そもそもほとんどの部員が来ていないので、初めて見る人にはやっているのかどうかもよく分からないのではないだろうか。

それでも僕は決まって端っこの方で静かーに一人で絵を描いている。

絵を描くのが好きってほどでもないし、かと言って嫌いってわけでもない。

けど、空を描いているときはとても気分がいい。

大好きな青色をめーいっぱい使うことができるからだ。

豪快に塗りたくれるのも空の魅力の一つではないだろうか。


次に父親について紹介をしたいところだが、残念ながら僕の家庭にはいない。

僕が小さい頃に死んじゃったらしい。

今はあの家に僕と母の二人で仲良くではないにしろ元気に暮らしている。

寂しいかどうかを前に一度母に聞かれたことがあるが、まぁ優しい姉が欲しかったかなと僕は答えた。

正直、顔も覚えてないしほとんど記憶に無い。

空を描いているときにひょっとしたら僕を見ているかもと雲の周りを探したこともあるが、今思い出すとすごく子供っぽくて恥ずかしくなる。

例え見つけたとしても顔も覚えていないんだから手の振りようがない。

もし、間違えたりでもしたら天国で父に会わす顔がないどころか地獄に落とされてしまいそうでそれ以来やっていない。


と、自己紹介をしている間に教室に着いてしまった。

ここまでくるのに30分ほどかかる。

家から駅まで歩いて向かい、そこから電車で五駅ほど。

電車を使う限り、これ以上短い時間でつくことは出来ないが普通に登校すれば遅刻することもない。


教室からは先生の声やペンのカリカリとした音が聞こえてくる。

今からこの中に僕は入って行くのだ。

ひとまず大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

そーっと後ろのドアを開けて、バレないように教室に入る。


一色いっしき、遅刻とは珍しいな。それから、入ったらちゃんと挨拶をするように」


「…はい」

教室に入るなり待っていたかのように先生と目が合ってしまった。

教室中の目線が僕に集まり、急いで席に着いた。

タイミングの悪いことに一時限目は担任の先生の授業である。

名前はえぇ〜っと…覚えてないけど国語の先生だ。


クラスの視線が徐々に僕から離れていきホッとした。

まぁ、見られていたからといって大したことはない。


なんてったって、僕は友達がいないのだから。

そう、俗にいうボッチである。


クラスが決まって半年が経ったが未だに話しかけられていない。

別に話すのが苦手って訳ではないし、むしろ話すのは大好きなんだけれど…

いきなり話しかける勇気がなく、その上話しかけて気まずくなったらどうしようなどと考えていたら友達はおろか話しかけることも出来なくなっていた。

一つ誤解して欲しくないことは、僕がコミュ障って訳ではなくて人見知りなだけってことだ。

そこんところは注意して欲しい。


せめて隣の席の人とくらい話せるようになりたい。

左隣は山なんとか君って人で、右隣はクラスで一番人気がある小鳥遊たかなしさんという人だ。

左の席とはそこまで話せるようにならなくてもいいから、右の席の小鳥遊たかなしさんとは是非一度お話をしてみたい。

せっかく隣の席になれたんだから。


いつも休み時間は彼女の周りに人が集まり、ワイワイ楽しく会話をしている。

僕がしれっと紛れてもバレないんじゃないかと時々思うが、未だに実行に移したことはない。

いつもいい匂いがしていて、僕のホコリくさい学校生活に花を添えてくれている。

だが、たまにお手洗から戻ってくると僕の席が取り巻きの人たちに取られていたりするので、いいことばっかりって訳でもない。

ちなみに、そういうときは決まって廊下で景色を見ながら時間を潰している。

どいて欲しい理由も特にないし、もともと言える勇気なんて持ち合わせてはいないから。


「ねぇねぇきみ、先生に当てられてるよ?」


「ふぇ?あっ…ありがとうございます!」


「おーいどうした一色いっしき。早く続きの行から読んで」


突然小鳥遊(たかなし)さんに話しかけられ、つい変な返事をしてしまった。

恥ずかしいなー、ふぇ?ってなんだよふぇ?って。

だがそんなことより、どのページを読んでいるか分からない方が気持ち的には慌てている。

まず教科書すら開いていないというのに。


「七十三ページの六行目だよっ」

またもや親切に教えてくれる女神小鳥遊(たかなし)さん。

ただひたすらに感謝しかない。

こんな人見知りの僕に、ここまで優しくしてくれるなんて。

もう気安く匂いを嗅ぐのはやめよう、そう心に誓った。


「分からないのか一色いっしき


「は、はい!今読みます」


なんとか読み終え一安心した。

まったく、来たばっかりの生徒を当てるなよ先生。

他にもいただろ他にも。


だが、ようやく自分が小鳥遊たかなしさんと会話?をしたことに気づき思わず小さなガッツポーズをした。

しかも二回だよ二回。

ありがとう小鳥遊たかなしさん、そしてグッジョブ先生。


こうして浮かれてるうちに、あっという間に授業が終わり真っ白なノートだけが机に残った。


次の時間は僕の一番苦手な体育である。

女子はこの教室三組で着替え、男子は隣の四組の教室で着替える。

僕は体育着の入った袋を持って隣の教室へと移動をした。


全裸同然の姿で走り回っているむさ苦しい男子になるべく近づかぬよう細心の注意を払ってなんとか教室の隅に到着した。

常にどこかしらの隅を僕のようなはぐれものが陣取っているので、いつも早めに着替えを済ませてグラウンドへと向かうことにしている。

何よりこの教室に長くいるのは鼻に良くない。

10分もいたら鼻がもげて取れてしまいかねない。

この時期の男子は、僕を含めて少しばかり臭う。


だが、真の地獄はこれからである。

僕だって運動するのは嫌いじゃない、むしろそれなりに動ける自信すらある。

なのに、何故なにゆえ体育が苦手であるか。

それはもうじき嫌でも分かる。


授業効率を考え三組と四組は合同で授業を行い、男子と女子でグラウンドを半分に分けて使用する。


「はい!男子は二人一組に分かれて準備運動‼︎」


これ。

これですよ、僕が体育が苦手な理由は。


なんで二人一組⁉︎

ラジオ体操で済ませてれよ先生!


もちろんクラスにすら友達がいない僕が、隣のクラスの四組に話せる相手などいる訳もなく。

当たり前のように余るのである。

スーパーで売れ残りの惣菜のように、半額のシールでも貼っておけばいくらか手にとってもらえる可能性が高まるというものだが。

もちろんそんな恥ずかしいことが出来る鋼の心を持っているのであれば、友達の一人や二人と言わずクラスの中心でワイワイガヤガヤ出来るというもの。

僕に出来るのはせいぜい、クラス内で空気のように気配を消すコツを教えるくらいのおまけを付けるので精一杯だ。

まぁ、余ってしまった者たちなら誰でも教えることが出来ると思われるが。


余った者は余った者で身を寄せあうようにいつもの場所に集合する。

そして、似たような境遇を持つ『我らが同士』と無理矢理にでも組まされ、あまりにぎこちない準備運動を晒すこととなるのだ。


今回は隣の席の山なんとか君と組むこととなり、しっかりと体をほぐし終えてから近くの木の下までこっそりと移動して休憩をしていた。

そよそよと風が吹き抜けて行く度に、枯れかけの葉っぱがひらひらと流れていった。


「あぁ、空がやけに遠いな」


汚れひとつない真っさらな青い天井が、今日はいつもより断然遠くに感じた。


ふと手を上げて、撫でるように空に手を伸ばす。

カラッとした風が指の間を通り抜けていき、まるで空を撫でているかのような心地いい気分になった。


うとうとしていると先生の笛が鳴り、あたりを見渡すとみんなが片付けに入っている。

どうやら誰にも気づかれることなく授業が終わり、あっという間に片付けを始めたようだ。

嬉しいような、悲しいような。


雨雲みたいなどんよりとした気分が、真っさらだった心の中にモクモクと雲を作っていった。



体育が終わった後の教室はとても耐えられるようなものでは無い。

汗の匂いと制汗剤の匂いが混ざり合い、なんとも言えないカオスな空間を作り出していた。

先ほどまでとは比べのにならないレベルで鼻の中へと侵入を試みてくるのである。

入る前は必ず息を止めて、ギリギリまで吸わないように我慢をする。

急いで着替えを済ましてこの空間からの脱出を最優先に。


皆、着替え終わると元の教室まで戻るのだがどちらも同じような反応をするのは、女子も女子で匂いに気を使いすぎるほど気を使うので制汗剤を混ぜたような匂いが充満して結局鼻がツンとするような匂いが鼻に残るからである。


僕の席には何故か小鳥遊たかなしさんがまだ座って友達と話していたので、戻るに戻れず教室に入ってきた道をそのまま戻ってしばらく景色でも眺めていることにした。


始業のチャイムが鳴り席に戻ると、小鳥遊たかなしさんの物と思われる体育着袋が机の上に置いてあったので勇気を振り絞って、授業の準備をしている彼女の肩をトントンと叩いた。


「あの〜、これって小鳥遊たかなしさんのだよね?」


「え?あ〜ごめんごめん。置いておいたのすっかり忘れてた。ありがとう」


「こちらこそ、さっきはありがとうございました。おかげで怒られずに済みました」

同級生に対しての話し方では無い気もしたが、僕の感謝の思いはこれぐらいじゃないと到底伝えられるものではなかったのだ。


彼女が優しく微笑んでくれたなか、失礼ながら僕は手に残った温もりを大事に握りしめていた。

無論、君たちになんとさげすまれようと構わない所存しょぞんである。


次の時間ではただひたすらに数字を並べて答えを練りだすというとても面白みの無い授業が始まり、教科書は開いたものの規則正しく並んでいる数字を呆然と眺めていた。

暇だ。

非常に暇だ…

なんだか身体中の力が抜けて行くような関節が伸びて行くような、そんな気分になってきた。

体育では一切と言ってもいいほど動いていないに関わらず、じわじわと攻め立てる睡魔がゆっくりと僕を夢の世界に誘っていった。



どれだけ熟睡したのだろうか。

目を覚ますとみんなが立ち歩いており、既に授業が終わったことを理解した。


垂れかけていたヨダレをすすり上げ、ゆっくりと立ち上がる。

これから食堂に行くのだ。

僕はカバンから財布を取り出してユラリユラリと教室を抜け出した。


ーードン!!

「キャッ!」


「すみません!大丈夫ですか」


財布をポケットに仕舞おうと下を向いていたため、廊下の角で女子とぶつかってしまった。

あいにくお互いの肩がぶつかった程度だったので、尻餅をついたり吹っ飛ばされたりはしなかったのだが、こちらの前方不注意だったのと相手が女子だったこともあり、僕は彼女の顔を見れないでいた。


「大丈夫大丈夫!こっちもごめんね、スマホに集中しすぎて前をよく見てなかったよ〜」


彼女はスマホを持っていた手とは違う手で、ぶつかった方の肩をさすっていた。

さすったカーディガンからは、ほのかに甘い果実のような柔軟剤の香りがしていた。


「いえいえそんなことは…僕が全く前を見てなかったせいなので。もし打撲とかになっていたら教えてください、その時は改めてお詫びします。……それでは!」


僕は本当にダサい。

女子に自分の不注意でぶつかっておきながら、顔を見て謝ることも出来ず。

あげくの果てにはその場の空気に耐えられず、逃げるようにその場を後にする。

全くもって人間の風上にもおけんやつだ。


「はぁ…」


食堂の券売機に並びながら、改めて先ほどの自分を振り返り情けなさにため息をつく。

今日は本当に上手くいかないなぁ。

券売機で食券を買い、お盆と箸を準備しながら気持ちを切り替えて料理と引き換えをする列に並んだ。


食事をするからといって誰か一緒に食べる人がいるはずも無く、いつものように安い日替わり定食を頼んで二人用の席に座る。

僕が何故窓際の一人席で食べずに二人席を使うのかというと、別に荷物を置きたいわけでも無く周りに嫌がらせをしたいわけでも無く、ただ待っているのだ。

自分のような孤独主義者、もしくは偶然もう一人が休んでしまいしょうがなく一人で食べにきた人が座ってもいいかと声をかけてくれるのを待っているのだ。

はたから見れば陰湿極まりないと思われるかも知れないが、僕にとっては人と話すチャンスであり一日一度の賭けである。

今まで何度か座る人が出てきたが、どれも話しかけられたことにテンパってしまい頭がショートするか、もしくは礼儀のない人が無言で座るかのどちらかであった。

いまいち成果が出ていないが、それでも一人で外を見ながら食事をするよりかはいくらか気分が良かった。

そのうち誰か優しい人が僕に話しかけてくれることを願って、今日も寂しく食事を終えた。



教室に戻ると名前も知らない人が当たり前のように僕の席に陣取っていたので、僕は渋々お手洗いにでもいって時間を潰すことにした。


時間を潰すためとはいえ個室のトイレに入るのはなんだか気が引けたので、前の人が終わるの待ってからさっさと済ました。

ハンカチを口に咥えて石鹸で手をこれでもかと隅々まで綺麗にした後、ガラガラとうがいをして再び教室に戻っていった。

おそらく時計の針は全くといってもいいほど進んではいないだろう、だがかといってこれ以上ゆっくりと廊下を歩くのはロボットみたいになってしまいかねないので、なるべく人らしくそれでもってゆっくりと歩いた。


戻る途中、隣のクラスの四組では男子と女子が仲良さそうにはしゃぎまわっていたので、ひょっとしたらこのクラスならうまくやっていけたのかと考えている途中で、そんなうまく行くのなら少なからず友達が今現在いないと不可能だなと机上の空論であることを自分に教え込んだ。


だが、考えようによっては今日は友達が出来たわけではないにしろそれなりに頑張れたのではないか。

しかも、話した相手が女子でなおかつ小鳥遊たかなしさんときた、おまけでこちらから話しかけもしてしまった。

これは、だいぶ頑張ったと自分を褒めてもいいのではないだろうか。

他の人たちには大したことはなくても、僕にとっては人類の大きな一歩と並ぶくらい飛躍的な進歩をしたのでは。

そう考えれば考えるほど気分が高まってきた。


今なら誰にでも話かけられる。

そんな気分にさえしてしまう。


おっ、ちょうどいいところに美術部員の人がいるではないか。

タイミングよく、廊下の向こう側から一人で歩いてくる女子生徒がいた。

名前は覚えていないが、小柄で黒縁メガネをかけたあの子は確かに部活中に見かけた記憶がある。

よし、話しかけてみよう。


「やぁ、今日の部活はなんの絵を描くか知っているかい?」

なかなか爽やかに話しかけられた気がする。

僕の会話術も舐めたもんじゃないな。


「え…えっと、美術部の人ですか?」


ん?


「え…あ…あぁ、そうだけど」


「そうなんですか。すみません私もよく分かりません。それでは」


……


そう言ってそそくさと立ち去ってしまった。

一切後ろを振り返ることなく。

メガネ越しだったこともあり、目が合わなかったことがより一層今の出来事を淡白なものにしていた。


残された僕はただ時が止まったようにその場に立ち尽くしていた。


例え思い上がっていたとしても、気分はどこまで高めたところで所詮気分でしかなかった。


今なら誰にでも話かけられる。

そんな気分は僕の中で一瞬だけ沸き立ち、あっという間に鎮火しては僕の大事なものに根こそぎヒビをいれ、そのまま口から外へと逃げていった。


それからしばらく先のことは正直覚えていない。

授業中はどうしていたのか。

しっかり起きていたのか、はたまた落ち込んで寝ていたのか。


再び意識がはっきりし出したのは放課後になってからのことだった。


机に入れた教科書をカバンの中に詰め込み、これからどうしたものかと考え始めた。

まず第一に、部活に行くかどうかということ。

そして、さっきの部員の名前はなんだったかということ。

最後に、どうして僕のカバンに小鳥遊たかなしさんの体育着の上が入っているのかという三点である。


「な…なんでこんなことに」


三つめに関してはもはや何がどうしてこんなことになっているのか見当も出来ない。


ここは、冷静に一つずつ解消していこう。

部活に関してだが、先ほどのこともあり非常に行きにくいのは確かだ。

だが、果たしてそんなことは気にするほどのことなのだろうか。

どうせ行ったところで誰かと会話するわけでもない。

それに今日は空がとても綺麗、行かないのはあまりに勿体無い。

まぁ既に青空ではなくなりかけているが、綺麗なことには間違いない。


「よし、部活には行こう」


続いて名前に関してだが、もはやそんなことはどうでもいい気がしてきた。

それより早く次の問題を解消したい。


「あいつのことは知らん!」


さて本題に入ろう。

僕がこのいい匂いのする体育着に気づいたのは今さっきだ。

確認のために匂いを嗅いだのも今さっきだ。

教科書を入れようとカバンを広げたところ発見した。


最初は自分のものだと思い、机の上に雑にほうり投げたところやたらといい匂いがするもんだから、どう考えても僕のではないことを確信した。

名前は書いていなかったので誰のかはすぐには分からなかった。

迷った末、体育着に鼻を押し当ててみることにした。

これは別に、卑猥な意味や僕の趣味でやったわけでは無い。

純粋に嗅いだことのある匂いだったからである。

そこんところはよくよく覚えておいて欲しい。


嗅いだ結果分かったことは、若干湿っていて汗の匂いがするのと、この嗅いだことのある匂いが小鳥遊たかなしさんのものだったということだ。


それが分かって安心した僕は、改めて教科書をカバンに詰め始めた。

つめ終えてしばらく、やっとことの重大さに気づいた。


真っ先に頭に浮かんだのは、どのようにして僕のカバンに入ったのかという今更なことではなく、このままでは僕が変態のレッテルを貼られてしまいかねないということだった。

もしこの現場を誰かに見られでもしたら、確実に僕の高校生活は終了。

それどころか、下手したらイジメられることだってありうる。

それだけは勘弁してもらいたい。


僕には一切の身に覚えがなかった。

記憶を失っている間にやってしまった可能性はありえなくも無いが、そしたら僕は今頃既に処刑台に上がっていることだろう。

教室には誰かしらいただろうし。

ならば僕がやった可能性は非常に低い。

神が僕の煩悩を特別に叶えてくれたのならば、それはそれでいいがあまりに現実味にかけている。

むしろ現実では無い。


ということは、残された可能性として考えられるのは小鳥遊たかなしさんが好意もしくは悪意を持って僕のカバンに入れた、そうでなければ着替え中に誤って入ってしまったのいずれかだ。

出来れば前者であってほしくは無い、良くも悪くも彼女らしく無い。

僕が彼女の何を知っているのかと思うかもしれないが、普段隣の席から見ている限りそれらしいそぶりは一切見られなかった。

消去法でいくと誤って入った可能性が一番高かった。


僕は今のところ無罪ということになる。

やっと安心することが出来た。


既に時間がいくらか経過していて、空が暗くなり始めていた。

早くしないと部活が終わってしまう。


ならば、僕がするべき行動は何か。


そんなの決まっている。

あとあと後悔しないようにこれでもかとしっかり顔を押し付けて匂いを嗅ぎ、何事もなかったように彼女の机に置いてこの教室から…

逃げる‼︎


後ろを振り返らず一直線に部活へと向かった。

顔を撫でる風からは彼女の匂いがしている。

背徳感と罪悪感なんてものは綺麗に畳んで机の上に置いてきてやった。



部室に着き、早速カバンからノートと色鉛筆を取り出して絵を描く準備をした。

なんで色鉛筆?と思ったかもしれないが、これにはちゃんとした理由がある。

他の美術部員はもちろん絵の具で描いていて、今もペタペタと大きな紙に集中している。

一応学校の筆や絵の具などもあるのだが、如何いかんせん気に入らなかった。

家でやるにはお金がかかるし、服も汚れればそれなりに時間もかかる。

何より、昔から使っている色鉛筆に愛着があったからだ。


部に入って最初の頃は何度か絵の具を使って描いてみたが、あまり上手く扱えなくてイライラしていたところ、先生に色鉛筆で描いてもいいよと許可を得た。

それからは一度も絵の具に触れず、ひたすら色鉛筆で描いている。

色鉛筆はいい。

そんなに時間もかからないしサラサラと描ける。

こじんまりとしているのが僕には丁度いいのかもしれない。


ーーカリカリシャカシャカサラサラペタペタ


鉛筆や筆の音だけが静かな教室に響き渡る。

今日の課題であるリンゴと紐をささっと描きあげ、背景の空を念入りに塗り始めた。


「よし出来た。窓際から見るリンゴとよじれた紐」


描きあげたところで丁度チャイムが鳴り、それぞれが作品を提出して片付けに移った。

みんなが水道で筆やバケツを洗っている中、僕はノートと色鉛筆のケースをパタリと締めてカバンに詰めた。

僕の片付けはこれで終わり。

そういう面でも色鉛筆は非常に扱いやすい。


特に誰か待つ人がいるわけでも無いので、僕はお先に帰らせてもらおう。

僕は何も言わずにこっそりと部室を後にした。


帰りに教室の前を通ると、クラスの女子が何人かいてその中に小鳥遊たかなしさんの姿が見えたや否や、僕はダッシュでその場から退散した。

おそらく忘れ物の体育着を探しに来たのだろうが、探す前から既に机の上に綺麗に畳まれていたので少しばかり不思議そうな顔をしていた。

これを、落ちていたのを見つけて綺麗に畳んでくれた優しい人と捉えるか、はたまた怪しい人と捉えるかによって見知らぬその人の株が上がるか下がるかが決まってくるが、それを決めかねているのを待っていられるほど僕の臆病な心は落ち着いてはいなかった。


「どうか、一番最初に疑われるのが僕じゃありませんように」

教室から遠く離れた下駄箱の前で、そう声に出して願わずにはいられなかった。


靴を履き替え、僕は再び30分をかけて家に帰った。



家に着くとまず手を洗い、それから荷物を自分の部屋の机に置いて昨日の漫画の続きを読み始めた。

ペラペラとページをめくる音だけが部屋で聞こえるなか、ついにグウゥゥという力強い音が僕のお腹の中心から部屋いっぱいに響き渡った。

時計を見て見ると、帰ってきてからすでに二時間がたっていた。

本来なら今頃母親がリビングで夕食を作り終えて、いつものように家中に響く声で僕の名前を呼ぶ頃だ。

それなのに未だに母は帰ってきていない。

これはどうしたものか。


こうしている間にも僕のお腹は二度目のうめきをあげて、食べ物をほっしているというのに。

朝のことを怒って、自分だけ美味いものをどこかで食べているのだろうか。

空腹で僕が倒れるまで反省させようというのか。

どちらにせよ、それらはあまりにひどいんじゃなかろうか。


人は食事をしなくては生きていけない。

そして食事は睡眠の次に素晴らしい行為だ。

何としてもこの状況を打破しなくては。


ひとまず僕の腹が三度目のうめきをあげる前に、冷蔵庫にあった飲みかけの炭酸ジュースで空腹を紛らわせた。

だがこれも長くは持たないだろう。

早く帰ってきてくれと願うばかりである。

こんな状況じゃおちおち漫画も読めない。


家について三時間が経ったところで、ジリリと家の固定電話が鳴り始めた。


かあさんからかと思い、猛ダッシュで自分の部屋から走り出して受話器をとった。


かあさん?」





ーー空が明るくなり、窓から降り注ぐ日差しで僕はムクリと目を覚ました。


「9時か…」


あいかわず、僕のお腹は正直にグゥグゥとなり続けている。

眠いながらも体を起こして、寝巻きから着替えると近くのコンビニまで歩いていった。


起きてからそのまま来たので、顔も臭ければ髪も口も臭い。

寝癖でよじれた前髪が風に吹かれるたびにポヨポヨと顔に当たる。

外は曇っていて、今にも雨が降って来そうだ。

傘を持ってくるのを忘れたがしょうがない、もしも降って来たらその時は濡れながら帰ろう。

水もしたたればなんとやら。

雨に降られてずぶ濡れにでもなれば少しは周りからも注目を浴びるだろう。


「あっ…あれはイケメンが前提条件だったか。まぁいいや、なんとかなるだろう」


5分ほど歩いて目的地に着き、財布の中を確認した。

紙幣は一枚もなく、金色の丸いのが一枚と銀色の奴が二枚。


「700円か…なんとかなるか」


カゴに弁当と飲み物、それから今日発売の漫画に手を伸ばしたが今日はやめておこう。

それにお金が足りるか分からない。


「袋に入れますか?」

レジの店員が明るい笑顔で袋を見せる。


「お願いします」


「お弁当は温めますか?」


「お願いします」


「お箸はおつけしますか?」


「お願いします」


「レシートはご利用ですか?」


「お願いします」


レジ袋に商品を詰めてもらい、笑顔で見送られて店を出た。


少し歩いてポツポツと何かが手に当たるのを感じた。

どうやら雨が降って来たようだ。


漫画なんて買わなくてよかった、危うく濡れるところだった。

レジ袋をギュッと結んで中身が濡れないようにする。

家との半分くらいの距離ではすでに服がビショビショになっていて、お腹に抱えた袋の温かさでなんとかしのいでいる状態。

弁当、温めてもらっておいてよかった。


「お願いします…」


そう言うだけで、なんでも叶えてもらえる。


「お願いします……」

雨だかなんだか分からないものが顔をぐちゃぐちゃにしていく。


「お願い…します……お願いしまっ…す……お願い…お願いします…お願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いします!お願いします!お願いします!お願いします‼︎お願いします‼︎お願いします‼︎お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い‼︎どうか……どうかお願いします‼︎‼︎」


その場に座り込み、周りの人が不思議そうに見ては通り過ぎていく。

見るだけで、誰も助けてはくれない。

ズボンが濡れて体が寒い。


「誰でもいい…ひぐっ…誰か……」


せっかく温めてもらった弁当が冷めていく。



昨日の夜。


かあさん?」


「いえ。すみませんが、一色いっしきさんのお宅でよろしいでしょうか」

聞き覚えのない声が受話器から聞こえて来た。

母ではなかった。


「え、あ…はい。そうですけど」

誰だかは分からないがとりあえず返事をした。

名前を知っているってことは母の知り合いだろうか。

それとも勧誘の類だろうか。


「こちらは警察署です。お宅のお母様の件でお電話いたしました」


警察?

なんで?


「実は先ほどーーー」


僕は受話器を床に落としてその場に座り込んだ。

頭の中があっという間に真っ白になっていった。


かあさんが死んだ?」

涙が頬を伝ってポロポロと落ちていく。

口に入り、しょっぱい味が広がっていく。


「そんなわけ…」

声はかすれ、目を閉じても一向に涙は止まらない。

とめどなく溢れるそれは床にドンドン溜まっていった。


母が車で帰る途中、後ろを走っていたトラックがスピード緩めず母の車に突っ込み、前の車とで挟まれてぺしゃんこに潰されたのだと警察は言った。

トラックの運転手は居眠りをしていたらしい。


居眠り…そんなことで……そんなことで母は。

自分も授業中よくするだけに、悔しくてしょうがなかった。


「どんな人間でも寝てしまうのはしょうがない…しょうがないわけあるか‼︎死にたきゃ一人で死にやがれ‼︎俺のかあさんを巻き込むんじゃねー!巻き込むんじゃねーよ…」


祖父母にも電話がいき、次の日こちらに来てくれると電話があった。


もう何もやる気が起きない。

それなのに、相変わらずうるさい腹の音に怒りを覚えた。

何も出来ない自分に怒りを覚えた。

苦しくて悔しくて、ひたすらに涙を流した。

身体中の水分を絞りきって枯れるまで。



そして、今もこうして道路の真ん中で一人で泣いているのだ。

雨を吸い上げ、恥も振り払い泣いているのだ。


「なんとかなる…なんとかなる?なんとかなってねーよ‼︎これぐらいの雨なんとかしてみろよ」


弁当が冷めた頃、ゆっくりと立ち上がってまた歩き始めた。

ここで泣いていてもなんの意味も無い。

ここで止まっていてもなんの意味も無い。

そのことだけはしっかりと理解していた。


人には出来ることと出来ないことがある。

死んだ人は生き返らないし、過ぎた時間は戻って来ない。

それでも願うしかなかった。

何かにすがるしかなかった。


足取りは重く、靴は濡れて歩くたびにビチャビチャと音がなる。

今の自分はまるでこの空のように暗く重々しく、そしてやむことのない大粒の雨を流していた。


あの時こうしていれば良かったと思うことは数あれど、本当に大事なことはいつもすぐ近くにあり、それでもそれに気づかないようにわざと離れたところに遠ざけていた。

だが、あの時遠ざけたものはもう二度と近づくことすら出来ない。


顔は雨と涙でグショグショになり、前を向いて歩くことはおろかまともに目を開くことすら出来ていない。


こうなることが分かっていれば、変えることが出来たのだろうか。

今となってはもう試すことすら不可能となってしまったが、次があれば…次があればその時はこのような悲劇だけは絶対に避けたい。

避けたいと思っている。

やり直せるチャンスがあるのなら。



「おい君止まれ!赤だぞ‼︎」

「危ない‼︎」

「キャー‼︎」


「え?」



ーードスンッ‼︎‼︎



身体の構造を内側から粉々に砕き、体内の血液は一斉に外へと溢れる。


とても重いその衝撃は、あっという間に僕の体を人ではないものに変えた。

身体は寒さを感じなくなっていて、むしろ頭がおかしくなるくらい熱い。

意識は徐々に薄れていき、既に手足を動かすことは出来なくなっていた。


かすかに残る視界には、僕と同じように中身をぶちまけられた弁当と駆け寄り慌てる人々。

そして、青くは無い空が見えた。


こんな曇った日に死にたくなかったな。

まだ死にたく無い。

こんなすぐに死んだらかあさんになんて言えばいいんだよ。

追いかけて来ちゃった、か?

それとも寂しくなった、とか?

どちらにせよまだ言えそうに無いな。

死んでまで喧嘩なんてしたくないし。


こんなところで死ぬわけには!まだ死ぬわけにはいかない‼︎


『そんなに死にたく無いか…』


どこからか声が聞こえる。

耳はもう使えないので、それ以外のどこからか。

響くような声が。


「もちろんだ」

口はもう既に動かないので、聞こえてくる声に応えるように頭の中で返事をした。



『そんなに生きていたいか…』


再び声が響く。


「もちろん」


『例え苦しくてもか…』


「あぁ、もちろん‼︎辛いのには慣れた。もうこれ以上無いってくらいには絶望した」


『……』


返事が返って来ない。

意識が消え始めている。

僕は天国行きだろうか、それとも地獄だろうか。



『よかろう。ならばお前の全てを『代償』に、精一杯『もがき』『苦しみ』そして『叶える』がいい‼︎とことんやり切って、再びここで会おう』


「???」


状況が理解出来ない。

頭を失い、知力が下がったのか?

いや、そういうレベルの話ではない。

明らかに理解の範疇はんちゅうを超えている。


『どんな顔で戻ってくるかを楽しみにしている』


「え?ちょ待って…」



『さぁ!行くのだ‼︎」





あおー‼︎いい加減起きないと遅刻するわよー!」


懐かしい母の声で僕は目を覚ました。


「ハッ‼︎生きてる!」

何が起きたのか。

奇跡か、それとも夢か。


机の上の時計を見てみる。

なんだかピントが合わなくてよく見えない。


「えっと、十月二日8時06分…遅刻だ……って十月二日‼︎⁉︎」

日付が戻っている。

やはり夢か?


「何してんの!早く降りて来なさい‼︎」


「はっ、はーい」


急いで下に向こうとするが、目の前がよじれるように見えてまっすぐに歩けない。

頭がひどく痛む。


やっとのことでリビングに着いた僕を待っていたのはパンにトマト、そして『真っ白な目玉焼き』だった。


目玉焼きなのに黄身が無い。

いや、無いのではなく白い。

つまり…色がなかった。


その真っ白な目玉焼きを見て確信した。


僕は色を一つ失ったのだと。

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