市役所妖怪返送担当『怪し課』 曖々傘
雨のよく降る時期ということで
気ままに短編を一つどうぞ
――既に季節は夏へと入り、七月の半ばに差し掛かっていた。
空は快晴、風は吹かず、湿気だけが勢いを増して。更には追いうちと言わんばかりに蝉たちの大合唱。岩に染み入るなら染み入って欲しいところだけれども、悲しいかな真っ直ぐに私の鼓膜へとおいでなさっていた。
「……なんで、あそこまで必死なんですかね」
「ん? そりゃあ、虫なんて子孫を残すことしか考えてないからじゃろ」
蝉がああやってギャンギャン喚くのも、つまりは求愛行動に他ならず。彼らは生まれてから、ただ成長して子孫を残すためだけに。ああやって鳴いてパートナーを探しているのだ。
『種が次代に続けばそれでいい』だなんて。
ただ一つ、それだけが生きる意味だなんて。
生き物というのは、本来そういうものなのかも知れないのだけれど、私にはもはやそれが、何かの部品のようにも思えて。
「自分の喜びが他の幸せ、と考えれば高尚なものに見えんかね」
「少しは周囲からどう思われているかを考えて欲しいものですけどね……」
「はぁ……。そんなじゃけぇ、公務員にもなって未だに結婚できんのよ」
「……先輩も人の事言える立場じゃないですよ」
流石に職場でジャージを着たままカップ焼きそばを啜っている人に、嫁の貰い手は来ないだろう。そもそも、公務員だから誰でも結婚できるだなんて、大間違いだと思う。
「おおう……」
少しは気にしているのだろうか、少し怯む先輩。それなら、せめてジャージぐらいはやめとけばいいのに。
「それじゃ、ちょっと街を見回ってきますんで」
冬の天蜘蛛の件から半年近く。あれからも‟妖怪っぽい”出来事には遭遇するものの、未だにはっきりとした姿なんて見たこともなく。一応の仕事として、妖怪に関係していそうな異変――それこそ具体的な事件にはならなくとも、誰かが困っている不思議な出来事――という曖昧なモノを探しに出回っているのである。
……ちなみに、収穫は二度ほど。それも解決したところで、本当に妖怪が関わっていたのか疑問なレベルのものだった。
「はいよー。この季節は急に雨が降ることもあるんじゃけぇ、傘持ってっとき」
「いやぁ……結構荷物になりますし、いいんじゃないですか?」
折り畳み傘も持ってきてないし、普通のサイズのものは持ち運ぶには窮屈。だいいち、朝の天気予報では雨が降るなんて言っていなかったし。
「急に降った時が困るじゃろ。ちょっと倉庫にあるやつを借りてくるけぇ待っとき」
『人だろうが虫だろうが物だろうが、目的・使命があるんじゃけぇ。機会があるならしっかり果たさせてやらんと』とは言うけれども、そんな大げさな……。
「ちょっと行って戻るだけですから大丈夫ですよ――」
先輩から渡されているお守りだけは、一応持っているか確認して。一人で外へと出て行ったのだけれど――
「嘘だぁ……」
まるで薄墨をぶちまけたかのような灰色で空が染まっていて。足元のアスファルトは、叩きつけられる雨粒の飛沫によって白く見える程。実に清々しいまでの豪雨。
「案の定、ゲリラ豪雨に降られちゃってんじゃない……」
いやいや、曇るまでが早すぎだし。曇ってから降るまで数分もなかったし。
傘も何も持っていなかった自分は、全身ずぶ濡れで。仕方なく公園内に設置された、屋根のある休憩所で雨宿りをすることにした。
「先輩の言うこと聞いとけば良かったかなぁ」
急に降ったのなら急に止むのが道理なのだろうけれども、いくら空を見上げたところで、そんな気配は微塵も無く。文字通り、一筋の光明も差し込まない状態。
こちらとしては身体も濡れて、風邪をひいてしまう前に役所へと戻りたいところなのだけれど……。正直なところ、既に手遅れなような気がしないでもない。
大雨のせいであたりも霧っぽく見通しが悪いし、どうにも頭もぼんやり熱っぽい気もするし。いっそのこと、この雨の中走って帰ってしまうおうかと思ったところで――
「…………」
「え、なに? ……私に?」
自分が訪れる前からいたのか、一人の女の子が私に傘を差し出してきた。
小さな手の上に乗せられているのは、紳士用の紺色をした大きな傘で。目の前の彼女が使うにしては、不釣り合いなほどで。
それを私に貸してくれるつもりなのだろうか。そんな私の疑問に答えるように――何も言わずゆっくりと頷く女の子。
一人で無暗に動くなと言いつけられているのだろうか。後から誰か迎えに来てくれるのだろうか。私がまごついていると、押し付けるように傘を手渡してきて。一歩下がる様にして、私にもう一度頷いてくる。
とっても優しい女の子なのだけれど――ここで『ありがとう、すぐ返しに来るからね』と言うわけにもいかない。
「…………?」
「……一緒に行こっか。寒いでしょ? うどんぐらいなら直ぐ出てくるよ?」
そう言って、差した傘を少女の方へと寄せて。この大きさなら二人でも十分濡れずに戻れるだろう。……足元がびしょびしょなのは、もうどうにもならないけど。
「…………」
無言のまま、黙って私の隣を歩く女の子。前も後ろも、まるで靄に包まれてるかのように視界は通らない。もしかしたら熱が出ているのかもしれない。正直、頭の中がぼんやりしていて、思考も不鮮明。
どれくらいの間歩いたのかも。今はどのあたりを歩いているのかも。そもそも正しい帰り道を通っているのかも、分からないままで――
ここからだったら、あと何分ぐらいで戻れるんだっけ……。
雨脚の弱まらない中、まるで隔離された世界のような街を二人で歩く。誰ともすれ違うことなく、車すら横を走る様子もなく。正しい道を歩いているかすら、判別が付かない状態でも――それでも気が付けば、いつも出入りに使っている市役所の裏口へと辿り着いていて。
まだ頭の中のもやもやは晴れてはいないけれど、原色そのままの青いジャージを着た先輩が、雨の当たらないところで待っていたのが見えた。
「おーう、おかえり。ほらみぃ、やっぱり降ってきたじゃろ――って……」
私が傘を差して戻ってきたことが意外らしく、目を見張るようにしてこちらをみると、先輩はおもむろに私の隣にいる女の子を指さす。
「その紺色の傘と……その子は?」
「あ、あー。私が公園で雨宿りしてたらですね、傘を貸してくれるというので……。いっそのこと、ここまで付いて来てもらいました……」
あれだったら、先輩の余ったカップ麺でもあげようか――と言おうとした矢先。
「へぇーえ。そうかねそうかね……ちょやっ」
「…………っ!?」
「何してんですか先輩!?」
女の子と目線を合わせるように屈んだ先輩は、間髪入れず目の前の額へとチョップをかました。突然振るわれた理不尽な暴力に、目も覚める。――更にそれだけでは満足していないらしく。悶絶する女の子に向かって、更に追い討ちをかけていく。
「まぁた、悪戯しようとしたんじゃろ。あんたも懲りん奴よねぇ……」
「…………?」
私の手から傘を取り上げ、怠そうに横へと移動すると――
「ふんっ!」
「なっ!?」
ゆっくりと上げられた左足。身体全体をバネのようにしならせ。ギリギリまで引かれた上半身を、軸をぶらすことなく回して。――そして、飛び散る水滴。バツンッと物々しい音を立てて逆向きに反る、骨という骨。
「鬼ですかあんたはっ!?」
思わず叫んでいた。いきなり分捕った傘を振るう奴がいるだろうか。
「そりゃ、多少は常識が無い人だなとは思っていたけど……まさかそんなヒトデナシだとは――!」
「いやいやいや。こうしておかんと、この妖怪はまた悪さをしよるけぇ」
「……妖怪?」
「そう、妖怪。傘の妖怪。付喪神」
出た出た、また妖怪だって。そんなこと言って一度も――と、先輩が指した方へと向くと。
「…………」
「……なんで!?」
なんと少女のスカートがまるで重力に逆らうかのように、勢いよく逆立っていた。そう、まるで先輩が裏返しにした傘とそっくりに。
「なんでって、妖怪だしそんなもんじゃろ」
そんなことを言いながら、無理矢理にバッツンバッツンと開いたり裏返しにしたりを繰り返す先輩。傘に合わせて荒ぶるスカートも気になるけれども、それ以上に今にも悲鳴を上げそうな傘の方が見ていて気が気では無かった。
どうやら傘も少女も繋がっていて、そうそう簡単には壊れないらしいけど。
未だにその仕組みがよく理解できていないけれど。
――付喪神。使われるべくして生まれた物が、使命を果たせずに捨てられてしまい、恨みを募らせた結果に動きだしたもの。だったはず。
「殆どのものは、よくやっても人を驚かせるぐらい。害をなすこともないんじゃけどね――ほら、とっとと帰れぇ!」
涙ぐみながら裏返った傘を抱えた少女を『シッシッ』と追い払う様は、どこからどうみても苛めているようにしか見えない。せめて外に出た時ぐらいはジャージを止めたらいいのに……。
そして数日経ってその雨も止み。
それまで抑圧されていた蝉たちが、一斉に自己アピールで競い合っている中――なんとか、事務所へと顔を出すことができたとある朝。(熱は結局出ていなかったのだけれど、先輩に休めと命令された)私の視界に飛び込んできたのは、どこかで見たことのあるような藍色の傘だった。
「……あのー、先輩」
「んー? どうしたね」
「あそこの傘立てに入ってる傘って……」
「あぁ、気にいられてしもうたんじゃろ。迂闊に借りるからそうなるんよ」
お湯の沸いたやかんから、インスタントのきつねうどんへ湯を注ぎながら。先輩はこちらに向くことなく、そっけない感じでとんでもないことを言い出した。
……気に入られた? 私が? 妖怪に?
「いやいやまさか……これって、先輩が仕掛けた悪戯でしょう?」
「案外、簡単に出逢ってしまうんじゃけぇ、これが」
そうして、うどんが出来上がるまでの五分間。先輩はいつものように黒のマーカーを取り出すと、ホワイトボードへ何やら書き始める。……こう言ってはなんだけど、天蜘蛛の時もそうだったけど、外面の印象とは裏腹に字が綺麗だった。
「――その昔、江戸時代から。傘ってのは、男と女を繋いでたもんで。異なるものを繋ぐってんなら、人と妖怪を繋ぐこともあるじゃろ。……ほら、あんたもしてたあれよ、あれ。‟相合傘”っての」
相合傘。先輩が言うように、男と女のというと小学生の時の――
「懐かしいですね。黒板の隅っことかに、男子に悪戯で描かれたり」
「なになに? 描かれたことがあるんかいね」
嬉しそうに詰め寄ってくる先輩。どうやら人の色恋話を聞くのが好きらしい。
「先輩は無いんですか?」
「おおう……」
……割と聞いてはいけない手ごたえがあった。耳年増ですか。
「今回のは、靄逢傘。曖々傘。そんなところかね。どう取っても大して変わらんじゃろうけど、人を化かして惑わして。そうやって襲う妖怪もおったわけよ。そういった類のは、呼びかけに応えずに無視するのが一番なんじゃけど――」
「……私は傘を受け取ってしまったと」
あの時、あの場所で、判断力を失っていた自分はものの見事に傘を掴まされて。いや、むしろあれは受け取らざるを得なかったんじゃなかろうか。……という状況を狙ってくるのが妖怪という存在なのかもしれないのだけれど。
「ま、結果的には――二人ともが傘の中に入っていたおかげで、傘の方もどちらを襲やぁいいのか分からなかったんじゃろうね。向こうも初対面で相合傘に誘ってくる人間なんているとは思わんかったんかもなぁ」
「……なんだか、私が変だって言われている気がするんですけど」
「ま、世の中には人の物だと分かってて勝手持っていく常識知らずな輩もおるし。人の親切を笑って踏みにじる輩もいる。そういうのだったら今頃、昏睡状態で道端に倒れとったかもしれんね」
「危ない妖怪だったんですか!?」
昏睡状態って相当なのだけれど。異変どころか怪事件。警察が動いて迷宮入りしてもおかしくないのでは?
「あくまで‟かもしれん”って話。そうはならんように、ちょくちょく様子見て、悪さをしてたら叱ってやってるわけで。ま、今回はその優しさが自分を救ってくれたってことでいいんじゃないかいね?」
この炎天下の中、きつねうどんを完食し、いつも通りつゆまで全部飲み干し。勢いよく立ち上がるとビシィッと指をさしてきた。
「ごちそうさま! というわけで、しっかりその傘も使うように!」
「ちょっと!? どこに行くんですか!」
「ちょいとお花を摘みに!」
……トイレでいいじゃないですか。
なんで変なところで上品なのか。
そうして事務所という名の物置に、私一人が取り残されてしまった。……いや、正確には私以外にまだ‟いる”のだ。
――曖々傘という名の付喪神が。
まだまだ弱まることのない蝉時雨の中、自分の視線に反応したかのようにグラリと揺れる紳士傘ひとつ。
『人だろうが虫だろうが物だろうが、目的・使命があるんじゃけぇ』
そんな先輩の言葉を思い出したけど――
「……暑いし、喧しいし、どう反応していいのか困るし……」
――もう少し控えめでよろしくお願いします。と、そう思わずにはいられない、真夏の日の朝だった。