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旅路(2)

 RPGをプレイしたことがある人間ならば異世界の旅路というものを一度は想像してみたことがあるのではないだろうか。

 心が躍る未知の光景、

 立ち塞がる様々な障害、

 そして、新たな出会い、

 だが、そのすべてはあくまでフィクションの中で描かれる仮想でしかないことを紅刃は痛いほど実感していた。

 景色など早々変わるわけも無く一面は草原と石畳。

 夜に聞く狼の遠吠えは恐怖でしかない。

 新たな出会いと言えば御者を務めてくれているおじさんくらいなものだ。

 だが、それ以上に現代人としては堪えきれないことが多くある。

 まずは眠る場所。

 馬車の中はそれなりに広いが眠るには狭い、というか狭すぎる。加えて硬いし、虫は飛ぶ、それに寒い。古谷が魔法で温源を置いてくれているからいいもののそれさえ無いと震えて眠れそうもない。

 次に食事。

 基本的にメインは干し肉だ、塩味だけで硬く、あまりおいしいとはいえないだろう。朝と夜は火を炊いて汁物を作るが現代の食事に慣れた身としては一味も二味も物足りない。

 だが、これも勇者見習い一行である紅刃達はマシな部類である。その理由は王宮から与えられた魔宝具スフィア次元袋にある。ある一定量までならば物を入れておける空間拡張の魔法が封じ込められた道具である。中の時間が止まる時空間袋ではないため、保存の利きにくい食材は入れられないがそれでも、百キロ近い収納袋には必要以上の物を詰め込めている分、食事も多少は豪勢だ。

 そして何よりも、風呂、これがないのが我慢ならない。

 紅刃は男勝りと言われることもあり、一日くらいならば風呂に入らなくとも生活できる。だが、それでも現代日本に十七年も住み着いた人間である。二日入らなければストレスが溜まり、三日になれば我慢などできるはずもない。水浴びだとか、身体を拭くだとか、そんな物で我慢できるわけがないのだ。個人差はあるだろうが友樹も古谷も気持ちは同じだろう。

 そして一番我慢が効かなかったのはアリスだ。

 元々アリスはそれなりに贅沢を覚えてきた人間なのだろう。風呂が無ければ王都から離れないとまで豪語していた。食事や睡眠という三大欲求の二つを自制できるにも関わらず、お風呂を我慢できないとは、日本人の業の深さを感じずにはいられない。

 そう言う訳で、王都を離れる折にひと悶着あったのだが、それを解決したのはまたしても魔宝具スフィア次元袋であった。

 勿論次元袋にお風呂をそのまま収納することは難しい。

 妥協案として用意されたのは、それはもう日本人らしい特大のドラム缶だった。

「ふぁっー、生き返りますね~」

 多量のお湯が溜められたドラム缶風呂に、一糸纏わぬアリスが純白の肌を晒して浸かりながら吐息と共に声を漏らした。

「そうだなー、最初はドラム缶の風呂なんてって思ってたが。案外慣れるといいもんだな、住めば都か、住んでねーけど」

「そうですね~、まさかアリスが立ったままドラム缶のお風呂に入ることになるなんて想像もしていませんでした。けど、こっちではこれも贅沢ですよね~」

 そう言って、濡れた手を組み伸ばすアリス。

 水が肌を滴り、小ぶりな胸が前に出される。中学三年、十四歳にしては少しだけ発育が遅いような気がしないでもないが、大小はそこまで重要な要素ではない。

 重要なのはバランス。

 アリスはその小柄な体系にマッチする発展途上な胸をその身に宿している。胸から腰、腰から尻にかけてのラインも素晴らしいもので、思わず視線が胸に向かうと、

「あんまり、見ないで欲しいです……胸は小さいですから……」

 なんて視線を下げ、頬を染めながら俯くアリスに言いようもない魅惑を感じずにはいられない。

 それほどまでに何度見てもアリスは反則だ。何だこのいかにもヒロインな女の子は――少なくともアリスと並ぶほどの美少女はゲームの中でしか見たことがない。別段紅刃にそっちの気はないが、美しいものを見たとき人間の心が惹かれてしまうように、ごくごく自然な本能としての反応が表に出てしまう。

 そんな紅刃の視線に羞恥よりも、憤怒の方が勝ったのかアリスはただでさえ余裕のない空間を詰め、密着するように近づいてきた。

「おっきいですよねー、張りがあって綺麗ですし……この憎たらしい脂肪の塊、こうしてやります」

 そしてあろうことか、アリスは純白の手を紅刃に添えると、掬うように持ち上げ揉みしだきはじめた。

「なっ! ちょ、アリス……ふぁっ! やめっ……ん、そこは止めろぉ……」

 予想外の攻撃に紅刃の表情から余裕が消えた。柔らかい女の子特有の手のひらが触れた場所から電流のような感覚が広がる。

「アリスも可愛いですけど、豊崎さんも相当ですよね、高い身長にこのプロポーション、出るとこでて締まる所はきちんと引き締まってて――ふふっ、悪戯したくなっちゃいます」

 アリスの左手がへそを伝い腰へ、そして内腿へと伸ばされた。

「こらっ……アリスぅう! てめっ、やめねーと……」

 紅刃の静止、だがアリスの手は力を強めた。胸に添えられた小さな手が敏感な部分をぎゅっと摘できた。

「止めないと?」

「ひゃんっ……あっ……こらぁっ……」

 アリスにいいようにされていることに苛立ちを感じるが、目の前の美少女が上気した頬で迫る、そんな異常な状況と初めて経験する他者との交わり、さらには身体を伝う艶かしい感覚が紅刃の判断力を殺いでいた。

 徐々に冗談ではなくなっていくのを感じ、紅刃は右手をぎゅっと握り締め、

「もう、駄目っ……いっ……」

「いっ? 何ですか、豊崎さん――――いえ、紅刃お姉ちゃん、もっと大きな声で」

 目上の相手を自らの手で圧倒しているという嗜虐と愉悦。

 温厚で上品な振る舞いに隠されたS心でこちらに問うアリスに向けて、

「いっ…………いい加減にしろぉおおおっ、馬鹿アリス!」

 一切の加減無く鉄拳を振り下ろした。

「いったぁああぃ! 痛いです、何するんですか、今回はほんとに冗談抜きで痛いです! アリスはほんの冗談のつもりだったのに!」

「冗談も過ぎればまた偽りに変わり、罪となる。自業自得だ、馬鹿アリス」

「うぅ……頭にたんこぶが……」

 頭を抱えて少しだけ離れたアリスを見て、紅刃はため息が自然と口から零れた。

「ったく、お前のせいで風呂に入っているのに余計に疲れた……」

 肌に残るピリピリした感覚を押さえつけ、乱れた呼吸を正しながら紅刃は言う。

「ふふ、でもいいじゃないですか、こういうの。向こうにいたころは経験できませんでしたし、アリスは楽しいですよ?」

 それは紅刃にとって意外とも思える発現だった。

「何だ、姉妹とか友人とかとじゃれあったりしなかったのか? アリスなら交友関係も広そうだがな」

 何をせずともこの美貌だ、紅刃でさえ数多の声をかけられたのだからアリスを周りが放って置くわけがない。

 それか、もしかするとアリスに妬みを覚え、才覚ゆえに孤立でもしていたのだろうか。そうであるならこちら側に来る理由にもなる。

 紅刃はアリスもまたぼっち仲間かと思い口にしたが、それはあっさりと否定された。

「あ、何か期待されてるようですが、アリスは友達は一杯いましたよ~」

「何だ、つまらん」

「でも――それは世間一般に友達と呼べる人達で、アリスの思うお友達じゃなかったですけど。それにお姉ちゃんは仕事一筋な人でしたから、アリスと関わりはそんなに無かったんです…………

 ねぇ、豊崎さん、

 覚えてますか、あの日この世界に召喚された時のことを……」

 アリスの言うあの日、それは紅刃がマウスを動かし異世界召喚に応じた時ではなく、四人が勇者システムを通じて、王宮の一角に建てられた召喚の間に呼ばれた時のことを指すのであろう。

 どこか遠く、過去を見据えるように悲しげに瞳を歪ませアリスは口を開いた。

「――アリスはね……アリスは可愛いんですよ……」

 普通の人間がそれを口にすれば、自信過剰と笑われるかもしれない。

 傲岸不遜と貶されるかもしれない。

 だが、アリスが言えば、それはもうただ事実を告げているに過ぎなかった。

「はっ? 急に何だ、嫌味か? 知ってるぞ、んなこと」

「それに、お金持ちでした。父は外資系の大きな企業の社長で、母はアメリカ人のモデル兼デザイナーでした。二人とも凄い人でして、アリスは欲しいと思う物全てが手に入りました」

 他者から見れば羨ましく、妬ましく思えるアリスの独白。だが、本人は幸福とは遠く離れたどこかに埋もれているような、そんな悲哀がひしひしと伝わってくる。

「恵まれて、恵まれて、これでもかってくらい恵まれていました。命令を下せば人が動き、お願いをすれば物が集まり、にっこりと微笑めば友達が生まれ、恥かしそうにすれば男が群がる。アリスは何一つ努力をしていないのに、生まれた時に一方的に渡された才能を使えば何でもできました」

 闇夜に吹きすさぶ風に運ばれ、アリスの言葉は続く。

「何不自由なく生きて、何不自由なく生きられて、それが当たり前だった――そんな何も知らない愚かな少女は中学生になる少し前、ネットで世界の現実を知りました」

 貧困。

 人々にある絶望的なまでの格差。

 それを見て、初めてアリスは世界を認識したと言う。

「だからと言って、じゃあアリスが助けようとか、将来はそんな格差をなくすために生きようとか、そんな思いは抱きませんでした。ただ、私にとって世界は生き易いんだなー、とそれだけを思いました。

 まるで私だけイージーモードです――――皆必死になって生きていて、報われるか分からない努力を重ねて、挫折して、挫けて、また立ち上がって、未来を切り開いていく。そうして必死になって得た職で稼ぐお金はアリスのお小遣いの何十分の一で、もしアリスがメディアに進出したり、モデルでニコリと微笑めば一瞬で稼ぎ終える金額だと知りました。やっとのことで彼氏にした男の人は、アリスが媚を売れば横取りできてしまう、全員とは言いませんけど、九割以上と言いきれるでしょう。

 嗚呼――

 ああ、なんて、なんて《つまらない》のでしょう、人生と言う物は」

「…………」

 何と答えていいものか、紅刃はただ沈黙を保つしかなかった。

 ただ、全くと言っていいほどベクトルが違ってはいるが、アリスの言葉は紅刃と同じだった。

「アリスは羨ましかったんです……皆、皆必死になれて……与えられた物じゃなく、自分で磨いたもので生きていく大多数の皆さんがただただ羨ましかった。

 でも、アリスは弱い子です。今ある全てを投げ打って、苦手なもので生きていこうとは思えなかった。

 だけど、望みはしました。

 与えられて、恵まれた才能だけじゃ生きていけない世界を。恵まれた物を磨いて、足掻いて、努力して、そうしてやっと生きていけるそんな世界を望みました」

「だから、あの小っ恥かしいインチキメールに引っかかったと」

「言わないで下さい! それに、それは豊崎さんも同じでしょう!」

 それを言われると返す言葉が無くなる。

 紅刃は呻くと共に、再び無言となった。

「アリスは十四年間、もうすぐ十五年ですけど、生きていた中で一番鮮明に覚えているのが、あの召喚の間での出来事です」

「まあ、確かにあの光景は印象的ではあったな、やけに物騒だったし……」

 そんな紅刃の言葉にアリスは首を振った。

「違います、アリスの印象に残ったのは豊崎紅刃さん――貴方ですよ」

「はぁ!? 私? 何で私?」

 予想外の発言に驚くほど素っ頓狂な声が出てしまった。

「あの日、私達は冗談だと思って選んだ選択肢で異世界に飛ばされました。望んでいたこととはいえ私も混乱していて、そんな状況で甲冑着込んだごっつい騎士団やらローブ羽織った勇者神教の面々やらが言葉を交わしていて、視線を向けられて――そりゃあ怖いですよ、女の子ですもん、あの時は特に」

 与えられた加護や身体の変化に気づいたのは召喚されてからしばらく後のことだ。召喚された時点では紅刃たちは何も知らないただの子供に過ぎなかった。

「ああ~、特に王様――あの眼光はやばいよな、いい人だったけど」

「そうです、あの人は私のような親の威をかって威張っているんじゃなくて、本物の威圧を持ってました。重圧を押しのけ、大きな責任を抱える人間の瞳です。騎士団も命を懸けて剣を振るっている人達ですし、あんな状況じゃ何も言えないし、何もできません――普通は、ですけど」

 アリスがこちらを見る目が微かに変わった。

 まるで、家族を慕うような、それでいて憧れを抱く子供のような瞳に。

「そんな連中相手に、豊崎さんの言った言葉、覚えてますか? 

 『ああ、お前らちょっと五月蝿い。こっちは困惑してるんだよ。それに見た目が物騒な奴ばっかだな、空気読めよ、全く……』

 ですよ? あははははは、笑っちゃいますよもう。

 何て命知らずで、向こう見ずで、無鉄砲で――

 でも、貴方だけが私達の前に出てくれた、まるで庇いたてるように」

「買いかぶり過ぎだ、単に煩わしかった、それだけだ」

「それでも――それでも嬉しかったし、悔しかったです。自分で望んであの場にいたのに結局何もできなかった。与えられた才能から逸脱すればアリスはこうも役立たずだった、そう思い知らされました」

 アリスは背を向けて湯に浸かり、そっと体重を紅刃に預けてきた。

「ずっと昔、私が幼かった頃に一度だけ似たような光景がありました。屋敷ではしゃいでいた私が父の大切な花瓶を割ってしまって、泣いていた私を姉が庇ってくれました。父の所に頭を下げにいって、怒らないように説得してくれて、汚れた服を脱いでこうやって一緒にお風呂に入りました。『大丈夫?』とか『お父さんに謝ろうか』とか、そんな言葉じゃなくて、何も言わずにただ行動で助けてくれました。不器用で恥かしがりや、昔の姉に紅刃さんはそっくりです」

 体重を預けたまま、アリスは紅刃を見上げてきた。

「だから――」

 後から思えば、きっとアリスは不安だったのだろう。

 自分から望んだとはいえ、強力な後ろ盾が無くなり、家族と離れ、一人となったこの状況に。

「二人だけの時は、紅刃お姉ちゃん、って呼んでもいい?」

 今にも泣きそうな、それでも何かを期待するアリスの言葉に紅刃は戸惑った。

 自分はきっと、アリスが思うような大層な人間じゃない。自分の気に食わないもの、それから逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、そうしてここに居るのが豊崎紅刃という人間だ。

 きっと、アリスの望む誰かになることなど紅刃にはできっこない。

「ったく、甘えてんじゃねーよ」

 一瞬、拒絶に思ったのかアリスの顔が悲痛に歪んだ。

 そっと、預けていた体重を放し、離れようとするアリスに手を回してそれを止める。

 そして、頭に手を置いてくしゃくしゃと乱雑に撫で回した。

「だがまあ、別に呼び方くらいは好きにしろ……」

 それもまた紅刃の本音だ。

 呼び方で心を支えれるのなら遠慮なくそうすればいい。

 言いたいこと、やりたいことがあるなら遠慮なくすればいい。

 謁見の間で紅刃がそうしたように。

 もし結果が自分の思うことと違ったら、その時になって初めて止めてしまえばいいんだ。

 逃避のプロは別に逃避がしたくてしていたわけじゃない。何をしても逃避にたどり着いてしまったから逃避し、諦め、止めたのだ。

 アリスの現実が変わるまで、そんな一時の間くらいは、

「うん、じゃあこれからもよろしくね、お姉ちゃん!」

 姉でいるのも悪くない。

合法的にお風呂でイチャイチャするために女主人公にしようと思ったなんて口が裂けても言えない

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