不妊の妻と蔑まれた私が消えたあと、夫は真実を知って壊れた
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月光を映した湖面はまるであつらえた絹のドレスのように滑らかだった。
オリーブは岸辺に一足の靴を揃えて置いた。
深夜の冷気が薄い寝間着を通り抜け痩せ細った肌を刺す。けれど彼女の足取りに躊躇いはなかった。
***
——少し前。
屋敷の勝手口から外へ出ると、夜の空気は驚くほど澄んでいた。
オリーブは履き慣れた柔らかな靴の感触を確かめながら、ゆっくりと歩を進める。この道はかつてセバスチャンと何度も歩いた散歩道だ。
(ああ、このベンチで、彼と一緒に将来の話をしたこともありましたわね)
古びた木のベンチを見つめ、彼女は微かに目を細めた。
当時はまだ彼も、思いやりのある優しい人だった。
「君に似た女の子が生まれたら、きっと屋敷が花が咲いたように明るくなるね」と、彼は私の手を握って笑いかけてくれたのだ。
オリーブはその記憶を、そっと心の奥に仕舞い込んだ。
恨みはない。彼を責める気持ちも、もう枯れ果てていた。ただ彼をあんなに追い詰め、嘘を重ねさせ、私への当てつけのような日々を強いてしまったのは自分だという思いだけが、彼女の背中を静かに押していた。
(……ごめんなさい、セバスチャン様。私が、あなたをあんなに冷酷な人に変えてしまったのね)
湖へと続く庭の隅に一本のオリーブの木が立っている。
二人の結婚を祝して植えられた木だ。オリーブは立ち止まり、その乾いた幹にそっと手を触れた。
「……ごめんなさいね。私と一緒に、あなたまで枯らしてしまったわ」
実をつけない木。世継ぎを産めない自分。
その共通点に彼女は不思議な連帯感を覚えた。
彼がこの木を見るたびに「不妊の妻」を思い出して苦しむのなら、いっそこの木も自分と一緒に記憶の底へ沈めてあげられたらいいのに。
屋敷を振り返ると、セバスチャンの書斎の窓がまだ明るい。
あそこには今、私の知らない彼がいる。私を拒絶し、別の誰かを求める彼がいる。
けれど、それでいいのだと彼女は思った。
(私は、あなたの幸せの邪魔になりたくないだけなのです。……ただ、それだけだったのですよ)
彼女は一度だけ深く頭を下げ、愛した家と、愛した背中に別れを告げた。
迷いはなかった。
月明かりに照らされた湖面が見えてくる。
その輝きは彼女にとって「絶望の淵」ではなく、愛する人を自由にするための「唯一の扉」に見えていた。
屋敷の窓からはまだ明かりが漏れている。
あの部屋では今も、夫のセバスチャンと、私の従姉妹のキアラが睦み合っているのだろう。
「お姉様に聞こえてしまいますわ?」というキアラの残酷な嘲笑と、それに否定もせず応えるセバスチャンの笑い声が夜風に乗って幻聴のように鼓膜を震わせた。
結婚して数年。一度も子を授かることができなかった自分。
オリーブは彼が自分を疎み、若く瑞々しいキアラを愛でるのは、すべて「産めない自分」に原因があるのだと信じて疑わなかった。彼が冷たい言葉を投げかけるのも、他の女を寝室の隣に連れ込むのも、正当な報いなのだと。
ならば自分が消えることこそが、彼をこの「地獄のような結婚生活」から救い出す唯一の方法なのだ。
「愛しています。だから、あなたを自由にして差し上げますわ」
彼女は一歩、また一歩と、冷たい水の中へ進んでいく。
足元を濡らす波紋はどこまでも清らかで、彼女の献身を祝福しているかのようだった。
腰まで水に浸かったとき、オリーブは最期に屋敷を振り返った。
自分さえいなくなれば、彼は「世継ぎが得られない絶望」から解放され、キアラと幸せな家庭を築けるはず。
その唇には愛する人の幸せを確信する、汚れなき微笑が浮かんでいた。
やがて、銀色の湖面が静かに彼女を飲み込んだ。
***
それは数日前のことだった。
オリーブはテラスのテーブルに丁寧に刺繍の施されたクロスを広げていた。
今日はセバスチャンの好きなレモンケーキを焼いた。彼が昔、「君の焼くケーキは春の味がするね」と笑ってくれた、思い出の味だ。
「あら。お姉様、またそんな古臭いお菓子を? 旦那様は最近、もっと刺激的なものがお好きですわよ」
キアラがひらひらと軽やかなドレスをなびかせてやってきた。彼女の手には街で買ってきたばかりの真っ赤なベリーのタルトがある。
「キアラ、それは……」
「旦那様のために買ってきたんです。お姉様のお菓子って、なんだか『お母様が作った』みたいで古臭いんですもの。旦那様も気を遣って召し上がっているんですよ。可哀想に。子も産めない妻に縛られてお辛いでしょうに」
キアラはオリーブが数時間かけて焼いたレモンケーキを当然のようにテーブルの端へ押しやった。
そこへセバスチャンがやってくる。彼はオリーブの瞳を見ようともせず、キアラの隣に腰を下ろした。
「セバスチャン様、お茶が入りましたわ。レモンケーキも……」
「……ああ、後でいい」
セバスチャンは、キアラが差し出したタルトを口にし、「美味しいな」と微笑んだ。オリーブの心臓が小さく縮むようだった。
「ねえ、旦那様。お姉様がね、またお世継ぎのことで悩んでいらっしゃるの。お姉様の実家の方は、皆さん子宝に恵まれているのに、どうして私だけ、って」
キアラの無邪気な一言にセバスチャンの顔が瞬間的に凍りついた。
「オリーブ。君がそうやって自分を被害者のように扱うたびに、俺はこの家の主としての責任を感じて息が詰まるんだ。君のその『健気な努力』が、どれだけ俺を追い詰めているか分かっているのか?」
オリーブは震える手で膝の上のドレスを握りしめた。
彼女は自分が彼を「追い詰めている」のだと本気で信じていた。自分が子を産めないせいで彼は世間体と良心の呵責に板挟みになり、苦しんでいるのだと。
(……ごめんなさい。私が、あなたをこんなに疲れさせてしまったのね)
セバスチャンは彼女の悲しげな瞳から逃げるように、キアラの肩を抱いて立ち上がった。
「キアラ、庭を歩こう。この席はどうにも空気が重くていけない」
その背を見送りながら、オリーブの脳裏に、ふと書斎の光景がよぎった。
机の引き出しに見慣れない書類がしまわれているのを一度だけ目にしたことがある。
残されたのは手つかずのレモンケーキと冷めきった紅茶。
オリーブは誰にも見られないように、一切れだけ自分のケーキを口に運んだ。
春の味なんて、しなかった。
ただ、砂を噛むような乾燥した虚しさが喉を通り過ぎていった。
(ああ、そうか。私はもう、この人の隣にいてはいけないのだわ)
この「無自覚な排除」が少しずつ、けれど確実に彼女をあの月明かりの湖畔へと歩ませていく。
その夜、屋敷は死んだように静まり返っていた。
オリーブは寝室のベッドで横たわっていたが意識は鋭く尖り、隣室から漏れ聞こえる小さな物音を拾い続けていた。
かつては夫婦の語らいの場だった隣の書斎。
——あの夜、湖畔で聞いた声と同じものが今度ははっきりと響いていた。
今はセバスチャンとキアラが「深夜の密会」を隠そうともしない場所だ。
「……ねえ、セバスチャン様。私、もう限界ですわ」
キアラの甘えるような、けれどはっきりとした声が聞こえた。
「お姉様のあの、死人のような顔。屋敷中が暗い影に包まれているみたいで、息が詰まります。あの方がいる限り、私はいつまでも他人のまま。旦那様も、いつまでも『子が成せない妻に縛られた不幸な夫』のままですわ」
オリーブは暗闇の中で目を見開いた。心臓が早鐘のように胸を打つ。
「……ああ。分かっている」
セバスチャンの、低く掠れた声。その声にオリーブは微かな希望を抱こうとした。「それでも彼女は私の妻だ」と言ってくれるのではないか。そんな無惨な希望だ。
「分かっているなら、早く自由になりましょう? お姉様には田舎の別荘へでも行っていただいて……。旦那様だって、本当はもう、彼女を見るのもお辛いのでしょう?」
キアラの言葉はまるで真実を突く刃だった。
セバスチャンは子供のできない夫婦という「欠陥」から逃げるために、キアラに縋っている。彼にとってオリーブの存在は己の卑怯さと無能さを突きつけてくる、鏡そのものなのだ。
長い、長い沈黙が流れた。
オリーブは祈るように胸元でシーツを握りしめた。
だがセバスチャンから返ってきたのは拒絶ではなく、弱々しい同意だった。
「……そうだな。彼女がいては俺たちはいつまでも前に進めない。……明日、話をしよう」
その瞬間、オリーブの中で何かが完全に断ち切られた。
明日。明日の朝、彼女は彼から「離縁」か「追放」を告げられる。
彼にその残酷な役目を、自分の口で言わせなければならない。
愛する彼に、「不妊の妻を捨てた男」という汚名を、自ら背負わせることになる。
(……そんなことは、させられませんわ、セバスチャン様)
オリーブは音もなくベッドから這い出した。
彼がこれ以上、私を恥じ、嘘を重ね、罪悪感に苦しむ必要がないように。
彼が明日、鏡の中の自分を軽蔑しなくて済むように。
彼女は彼が一番誇り高く美しくいられるための「贈り物」を決めた。
自分が「愛に絶望して勝手に消えた」ことにすれば、彼はただの「不運な男やもめ」となり、世間からの同情すら得て新しい人生を歩めるだろう。
(愛しています。だから、あなたに泥は塗らせません)
彼女は彼が昔贈ってくれた、あの一足の靴を手に取った。
——そして、物語は冒頭の湖畔へと繋がっていく。
***
翌朝、湖畔に立ち込めた朝霧はすべてを覆い隠すほどに深かった。
セバスチャンは震える手でその白い靴を拾い上げた。
指先に伝わる冷たさは、そのまま彼の心臓を凍りつかせていく。靴の傍らに置かれた一通の手紙。彼はそれを自分の死刑宣告書を受け取るような心地で開いた。
『愛するセバスチャン様。あなたが私に何を話そうとしていたか、分かっておりました。けれど、それをあなたの口から言わせてしまうほど、私は厚顔ではいられません。あなたがこれ以上、ご自分を責める必要がないように、私はこの場所で幕を引くことにいたしました』
セバスチャンは目を見開いたまま固まった。
オリーブは彼が「離縁」を切り出そうとしていたことすら、自分の「不妊のせい」だと思い込み、彼にその残酷な役目を負わせまいと自ら消えたのだ。
「違う……違うんだ、オリーブ……。俺が言いたかったのは……!」
彼は懐の診断書を握りしめ、喉の奥から獣のような呻きを上げた。
本当は今日こそ謝るつもりだった。
医師から告げられた診断が、彼の逃げ場を奪っていたのだ。
自分が不妊だと打ち明け、キアラを追い出し、君だけを愛していると伝えたかった。――だが、それもまた、自分のプライドが許すギリギリのところで出した、あまりにも遅すぎた「良心」でしかなかった。
「旦那様? まあ、こんなところで何を……あら、お姉様の靴?」
背後から、物音を聞きつけたのか、キアラが軽やかな足取りで現れる。彼女の顔には邪魔者がいなくなったことを本能で察したような、残酷なまでの明るさがあった。
「ようやく決心がついたのね、お姉様。自分から身を引いてくださるなんて、最期まで悲劇の主人公のような……」
「黙れッ!!」
セバスチャンの怒声が静かな湖面を震わせた。キアラが言葉を失って立ち尽くす。
セバスチャンは血の滲むような瞳で彼女を睨みつけた。
「彼女は……オリーブは死んだんだ。俺たちが殺したんだ。お前のその『無邪気な言葉』と、俺の『卑怯な沈黙』が、彼女をこの水底に沈めたんだよ!」
彼はキアラを突き放すと、手の中の診断書を彼女の足元に叩きつけた。
「俺は不妊だった。子が成せないのは俺だ。オリーブはその『冤罪』を背負って、俺のために死んだんだ! お前のような醜い女のためにじゃない!」
キアラの顔から血の気が失せていく。彼女が欲しがっていた「世継ぎの母」としての椅子は最初から存在しなかったのだ。
「お前は今すぐ、この屋敷から出て行け。二度とその顔を見せるな」
キアラは泣き叫びながら、這うようにして去っていった。だが、その断罪にカタルシスなどなかった。
キアラがいなくなってもオリーブは戻らない。
セバスチャンは冷たい湖に膝をついた。
手紙の最後には震えない文字でこう結ばれていた。
『どうか、ご自分を許して。あなたは私の、唯一の光でしたから』
その清らかな「許し」こそが、彼にとって一生消えない「地獄の檻」となった。
彼は一生、この湖畔を離れることはないだろう。
自分を裏切り、自分を追い詰めた男を、最期まで愛して消えていった妻。その潔い微笑みが彼の脳裏から離れることは二度とない。
実ることのないオリーブの木が、屋敷の隅で静かに枯れていく。
朝日は登ったが、セバスチャンの世界は、あの月明かりの夜から、一歩も進むことはなかった。




