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第9話 氷の姫の誕生日と、熱い嫉妬


 大型音楽フェス『アイドル・サマー・ガーデン』の舞台裏は、戦場のような喧騒に包まれていた。

 無数のアイドルグループが行き交い、スタッフの怒号に近い指示が飛び交う。その中心で、一際異彩を放つ一角があった。


 トップアイドルユニット『みくりの』の専用待機スペースだ。

 今日、八月九日は桐島美玖の二十一歳の誕生日。

 ステージでは数万人のファンによるバースデーソングが合唱され、楽屋には溢れんばかりの花束とプレゼントが届いていた。


「美玖先輩、お誕生日おめでとうございますっ! これ、私からのプレゼントです!」


 そう言って、後輩ユニット『ルミナス』のセンター、ひまりが梨乃の隣に割って入った。

 ひまりは「天使りの」に憧れて業界に入ったと公言する、いわば梨乃の熱狂的な信者だ。


「わあ、ひまりちゃんありがとう! 美玖先輩、よかったですねっ♡」


 梨乃がいつもの営業用スマイルでひまりの肩を抱き寄せる。

 美玖は、届けられたプレゼントを優雅に受け取り、氷の如き完璧な微笑を浮かべた。


「ええ、ありがとう。大切にするわ」


 その声は凛としていて、いささかの乱れもない。

 周囲のスタッフたちは「さすが氷の姫、誕生日の高揚感にすら流されないプロの鑑だ」と感嘆の眼差しを向けている。


 だが、美玖の脳内は、その瞬間、プロ意識とは程遠い「猛火」に包まれていた。


(……ちょっと。近すぎるわ。その距離は何? なぜ梨乃の肩に手を置いているの? 梨乃も梨乃よ、なぜそんなに嬉しそうに鼻先を近づけているの……?)


 美玖は、手に持っていたプレゼントの箱を、指先が白くなるほどの力で握りしめた。

 内側から溢れ出しそうな黒い感情を、鉄の自制心で押し殺す。


(落ち着きなさい、桐島美玖。私は『みくりの』のリーダー。後輩に嫉妬するなど、アイドルの品格に関わるわ。これはビジネス、これはファンサービスの一環よ……)


 そう自分に言い聞かせるが、梨乃がひまりの頭を撫でた瞬間、美玖の自制心という名の防波堤に巨大な亀裂が入った。


「梨乃、次の打ち合わせがあるわ。……行くわよ」


 美玖は努めて冷静なトーンで告げると、梨乃の手を「ビジネス上の確認」を装って強引に引き寄せた。


「あ、美玖先輩! そんなに急がなくても……。じゃあね、ひまりちゃん!」


 梨乃が名残惜しそうに手を振る。

 美玖はその背中を突き動かすようにして、足早に自分たち専用の楽屋へと向かった。


 ***


 バタン!


 楽屋に入るなり、美玖は乱暴にドアを閉め、迷うことなく鍵をかけた。

 カチャリ、という無機質な音が静かな室内に響く。


「……美玖先輩? そんなに急いでどうしたんですかぁ? 打ち合わせなんて、まだ三十分も先――」


「梨乃」


 美玖が振り向いた。その瞳には、先ほどまでの冷徹な光ではなく、どろりとした執着の色が混じっている。

 美玖は一歩、また一歩と梨乃を壁際まで追い詰めた。


「……な、なんですか? 美玖先輩、顔が怖いですよ?」


「怖い? そうかしら。私はただ、プロとして『教育』が必要だと思っただけよ」


 美玖が梨乃の両脇に手をつき、いわゆる「壁ドン」の体勢になる。

 梨乃は目を丸くしたが、その口角がわずかに吊り上がったのを、美玖は見逃さなかった。


「……あの後輩との距離、何だったのかしら。節度を越えていたと思わない?」


「えー? ひまりちゃん、可愛い後輩ですよぉ? 美玖先輩、もしかして、やきもち焼いちゃったんですかぁ?」


 梨乃がわざとらしく首をかしげ、上目遣いで美玖を覗き込む。

 美玖は顔を真っ赤にしながら、さらに梨乃の顔を近づけた。


「……嫉妬? そんな低俗な感情、私にあるわけないでしょう。私はただ、ユニットの風紀を乱さないように注意しているだけよ」


「ふーん。じゃあ、なんでそんなに手が震えてるんですか?」


 指摘され、美玖はさらに言葉を失う。

 梨乃は、待ってましたと言わんばかりに美玖の首に腕を回した。


「美玖ねえ。今日は誕生日だよ? 本音を言わないと、プレゼント、あげないからね」


「……っ、プレゼントなんて、もうたくさん貰ったわ」


「私が用意したのは、そういうのじゃないよ。……それとも、あの子の方がよかった?」


 梨乃の挑発。

 それが決定打だった。

 美玖の『氷の姫』という仮面が、音を立てて崩壊する。


「……いいわけないでしょう! 誰があんな小娘に! あなたは私のパートナーなのよ! 私の梨乃なのよ! 今日一日、一秒たりとも、私以外の誰かに触れさせたくなかったのに……っ!」


 美玖は吐き出すように言い切ると、梨乃の唇を奪うように重ねた。

 それは「営業」の域を完全に踏み越えた、飢えた獣のようなキスだった。


「ん……っ、ふふ……。やっと言った。お誕生日おめでとう、美玖」


 梨乃がキスの合間に、勝利者の笑みを浮かべる。

 美玖は、自分がまんまと梨乃の策に嵌まったことを理解したが、もう止まれなかった。


「……お仕置きよ、梨乃。今日はずっと、私のそばから離さないから」


「望むところ♡。……ほら、もっと『補給』して?」


 二人の影が、ソファに重なり合う。

 外の喧騒はもう聞こえない。

 そこには、自分たちが「完璧に隠している」と信じ込んでいる、糖度過剰な恋人たちの時間だけが流れていた。


 ***


 楽屋の外、数メートル離れた廊下。

 そこには、大きなバースデーケーキを台車に乗せたマネージャーの佐々木恵と、十数名のスタッフが立ち尽くしていた。


「……あの、佐々木さん。そろそろ入って、サプライズでお祝いしませんか?」


 何も知らない若手スタッフが、無邪気に提案する。

 佐々木は、楽屋のドアの隙間から漏れ出てくる、文字通り「甘すぎて窒息しそうなオーラ」を、麻薬犬のごとき「嗅覚」で敏感に察知していた。

 そして、先ほど美玖が後輩を睨みつけていた時の「般若のような顔」も、彼女は見逃していない。


「……ダメよ。今は……不適切なタイミングだわ」


 佐々木は震える手で胃薬の袋を破り、水なしで飲み込んだ。


「不適切? でも、打ち合わせの時間ですよ?」


「いいから! 今は……そう、美玖さんが誕生日の重圧に耐えかねて、梨乃さんに精神的なカウンセリングを受けている最中なのよ。プロのアイドルには、そういうデリケートな時間が必要なの!」


「カウンセリング……ですか。さすがトップアイドル、意識が高いですね」


 若手スタッフは納得したように頷いた。

 その背後で、ベテランの照明スタッフが「鍵、閉まってるしな」「いつものカウンセリング(物理)だろ」「今日は長そうだ」と小声で囁き合っている。


 ファンコミュニティの掲示板も、既に祭りの状態だった。


『【速報】美玖様、ルミナスのひまりを視線で殺害。梨乃ちゃんを奪い返して楽屋へ監禁』

『今日の美玖様、過去最高に「俺の女に触るな」オーラ出てたな』

『楽屋の鍵が閉まったという未確認情報。お祝いは三時間後だな』

『#みくりの結婚しろ #氷の姫の独占欲』


 ファンたちは、美玖が「完璧な隠蔽」のために行っている不自然な行動のすべてを、正しく「嫉妬と愛」として解釈し、祝福していた。


「(……もう、隠す努力すら放棄してるじゃないの、あの二人。カウンセリングって言い訳、もう何度目だと思ってるのよ……)」


 佐々木は壁に頭を預け、冷え切っていくバースデーケーキを見つめた。

 彼女の脳内には、今夜の宿泊先として予約されている高級ホテルのスイートルームのことが浮かんでいた。


「(どうせ今夜も、二人で『完璧に隠し通して宿泊に成功した』とか言いながら、ルームサービスでシャンパン開けてイチャつくんでしょ。チェックインの時に二人で同じマフラー巻いてたの、コンシェルジュが全員見てたっていうのに……)」


 佐々木の胃痛は、もはや慢性的なものへと進化していた。


 一方、楽屋の中。

 一頻りの「お仕置き」を終えた美玖は、梨乃の胸元に顔を埋め、満足げに喉を鳴らしていた。


「……梨乃。最高の誕生日だわ」


「あはは、よかったね、美玖先輩。……でも、ケーキ、外で恵さんが持ってる気がするよ?」


「……放っておきなさい。今は、ビジネス上の機密事項を共有している最中なんだから」


 美玖は、自分でも驚くほど甘い声でそう言った。

 「完璧に隠せている」という幸福な勘違いこそが、彼女にこの上ない全能感を与えていた。


 世界で一番嘘が下手な誕生日の主役と、それを掌で転がす天使。

 そして、それを知っていて守り続ける世界。


 二人の秘密は、今日もまた、誰一人として知らない(と本人たちが信じる)まま、深い愛とともに深まっていく。


「ねえ、美玖。ホテルの部屋、ジャグジー付きなんだって。……楽しみだね♡」


「……ええ。そこで改めて、今後の『ユニットの方向性』について、じっくり話し合いましょう」


 美玖の頬を染める熱は、真夏の太陽よりもずっと、情熱的だった。

どこが刺さったか、一言でも残してもらえたら嬉しいです。


次は社長室。逃げ場ゼロです。明日18:30。

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