第6話 侵入者、純真すぎる新人スタッフ
芸能界という場所には、明文化されていない「暗黙の了解」が数多く存在する。
ケータリングの弁当は先輩から選ぶこと。エレベーターでは後輩がボタンの前に立つこと。そして――特定のトップアイドルが二人きりでいる楽屋に入る際には、ノックのあと絶妙な「間」を置くこと。中の二人が「ビジネス上の適切な距離」へ戻る猶予を与えること。それが「優しさ」であり、プロの仕事というものだ。
だが、その日配属された新人現場スタッフの佐藤は、あまりにも純真で、あまりにも「空気が読めない」という才能に溢れていた。
「失礼しまーす! お茶のおかわり持ってきましたー!」
本来であれば、ノックをしてから少なくとも五秒、できれば十秒は待つのが『みくりの』担当スタッフとしての鉄則だ。その間に、中の二人が「ビジネス上の適切な距離」へと戻るための猶予を与える。それが優しさであり、プロの仕事というものだ。
しかし、佐藤くんはノックと同時に、元気よくドアを開け放った。
その瞬間、彼の目に飛び込んできたのは――。
ソファの上で、桐島美玖の膝の上に早乙女梨乃がすっぽりと収まっている。美玖は梨乃の首筋に鼻を寄せ、目を閉じて、深く――それはもう深く、呼吸をしていた。
窓から差し込む午後の陽光が、二人の輪郭を柔らかく縁取っている。まるで美術館の一角に紛れ込んだかのような、完成された構図だった。
「…………へっ?」
佐藤くんの手から、お盆の上のペットボトルがガタガタと音を立てる。
静寂が楽屋を支配した。美玖の動きが止まり、梨乃がゆっくりと佐藤くんの方へ顔を向ける。
一秒。二秒。
「――っ、違うのよ! これは、その……静電気よ!」
美玖がバネ仕掛けの人形のように跳ね上がった。その勢いで梨乃がソファに転がり、美玖はあろうことか、空中で変なポーズを決めたまま静止する。
「静電気……ですか?」
「え、ええ! 梨乃の衣装に強い電気が溜まっていたから、私がそれを、こう……鼻先で吸い取って除電していたの! トップアイドルとして、ステージで火花が散ったら大変でしょう!?」
「じ、除電……鼻で……火花?」
佐藤くんの純粋な瞳が、混乱に揺れる。
美玖は冷や汗を流しながら、必死に『氷の姫』の威厳を取り戻そうと背筋を伸ばした。
「そうよ! これが最先端のメンテナンステクニックよ。……あなた、新人ね? あまりの高度な技術に驚くのも無理はないわ。でも、これはあくまで『ビジネス』の一環。他言は無用よ」
「わあ……すごい! さすが美玖さん、相方の梨乃さんのために、そこまで身体を張って……! 僕、感動しました!」
佐藤くんの顔が、ぱあっと明るくなった。
疑いを知らない。その純粋すぎる反応に、美玖は逆に罪悪感で胸が痛みそうになる。
「えへへ、そうなんだよ佐藤くん! 美玖先輩はとっても責任感が強いから、私の隅々まで『チェック』してくれるんだぁ♡」
梨乃がソファから起き上がり、悪戯っぽく微笑みながら佐藤くんに近づいた。
その足取りには迷いがない。梨乃は最初から――美玖の膝の上に収まった時から、「見つかった場合の展開」まで含めて楽しんでいる節があった。
「佐藤くん、お茶ありがとう。君、とっても気が利くね? でもね、次に楽屋に来る時は、もう少し……そう、ノックして十秒くらいゆっくり数えてから入ってくれると、美玖先輩の『除電』がもっと完璧になると思うなっ♡」
「なるほど、十秒ですね! 勉強になります!」
佐藤くんは深々と頭を下げた。
その背後から、地獄の底から這い上がってきたような足音が近づいてくる。
「……さ・と・う君。ちょっといいかしら?」
マネージャーの佐々木恵が、既に三錠目の胃薬を噛み砕きながらそこに立っていた。勿論、彼女の目は笑っていない。
「あ、佐々木さん! 今、美玖さんのすごいテクニックを教えてもらったんです!」
「……ええ、そうでしょうね。さあ、佐藤くん。あなたには教えなきゃいけないことが山ほどあるわ。……特に、『見なくていいものを見た時の記憶消去術』についてね」
佐々木は佐藤くんの首根っこを掴むようにして、ずるずると廊下へ連れ出した。
バタン、とドアが閉まる。
再び二人きりになった楽屋で、美玖は膝から崩れ落ちた。
「……梨乃、今の……今の言い訳、通じたかしら」
「完璧だよ、美玖先輩! あの子、すっごく純粋そうだったもん。『除電』なんて素敵な言葉、よくパッと出たね。さすが私の美玖先輩♡」
「……もう、心臓が止まるかと思ったわ。でも、そうね。新人の彼があんなに納得していたんだもの。私たちの『ビジネス』設定は、今日も守られたということね」
美玖は乱れた前髪を整え、ふぅ、と長い溜息をついた。
「(危なかった……。でも、あの新人があんなに信じ込んでくれたのは、私の演技力が本物だという証拠だわ。スタッフさえ欺けるのだもの、ファンなんて余裕ね)」
美玖は再び自信を取り戻し、自分を肯定する思考へと逃避した。
一方、後ろから美玖の背中に頬を寄せながら、梨乃は小さく笑った。
「(みく姉は本当にチョロい。自分がわざとカーテンの近くのソファを選んだことにも、この楽屋の窓が向かいのビルから見えることにも、まるで気づいていない。
――ま、いっか。面白いから、このままにしとこ。)」
***
その頃、廊下では。
「いい、佐藤くん。……あの二人が何をしていようと、それは『幻覚』よ。わかった?」
佐々木マネージャーが、壁に佐藤くんを押し付けて詰め寄っていた。
「えっ、でもあんなに近くで鼻を……」
「幻覚よ。あるいは、高度なホログラムによる演出。とにかく、あの楽屋の鍵が閉まっている時、あるいはノックの返事がない時にドアを開けるのは、『みくりの』の現場では『死』を意味するの。……わかった?」
「は? はい……!」
「いいわね。……ふぅ、今日だけで胃に穴が三つくらい増えた気がするわ」
佐々木はよろよろと壁に手をついた。
そこへ、他のベテランスタッフたちが通りかかる。彼らは佐藤くんと佐々木の様子を見て、全てを察したように温かい、そして慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「おっ、佐藤くんもついに『みくりの洗礼』を受けたか」
「佐々木さん、お疲れ様です。……さっきの生配信のアーカイブ、もう『除電』がトレンド入りしてますよ」
「……何ですって?」
佐々木が震える手でスマホを確認すると、そこには美玖が楽屋の窓際(カーテンが少しだけ開いていた)で梨乃に顔を寄せている様子を、遠くのビルから執念で撮影したと思われる不鮮明な画像が拡散されていた。
『【衝撃】みくりの、楽屋で謎の儀式「除電」を執り行う?』
『美玖様、梨乃ちゃんの首筋からマイナスイオン吸ってて草』
『もはや除電じゃなくて充電だろwww』
『公式が「ビジネスメンテナンスです」って言い訳する未来が見える』
ファンの考察班は、既に美玖の苦しい言い訳を先読みし、それを「様式美」として楽しむ準備を整えていた。
「(……もう無理。守りきれない。世界中が二人の愛に協力して、この嘘を楽しもうとしている……!)」
佐々木は膝をついた。
純真な佐藤くんだけが、「芸能界って、除電とかしなきゃいけないんだなぁ……大変だなぁ」と、あらぬ方向の決意を固めていた。
***
そんな外の喧騒など露知らず、楽屋の中では。
「美玖先輩、まだ静電気が残ってる気がするの……。もう一回、除電して?」
「……仕方ないわね。ビジネスのためだもの。……覚悟しなさい、梨乃」
美玖は真顔で、再び梨乃を抱き寄せた。
「完璧に隠せている」という強固な、あまりにも強固な勘違いという盾を構えながら。
今日もトップアイドル二人の「ガチ」な日常は、純真な新人を巻き込み、ファンの妄想を加速させ、マネージャーの健康を蝕みながら、糖度を増し続けていく。
「あん、美玖先輩、今の、ちょっと『ビジネス』の域を越えてない……?♡」
「うるさい。……全力を尽くしているだけよ」
閉ざされたドアの向こうから、そんな甘い会話が(廊下に少しだけ)漏れていた。
次回、“隠蔽不可能”な撮影回。明日18:30。




