第29話 秘密は解けた、愛は続く
引退から一ヶ月。
かつて日本中の視線を釘付けにした『氷の姫』こと桐島美玖は、今、人生最大の危機に直面していた。
「……梨乃。これは由々しき事態だわ。私たちのセキュリティ・プロトコルが、根本から脅かされている可能性がある」
「えー、またぁ? 美玖、今度は何なの? お醤油が切れたこと?」
早乙女梨乃は、新居のキッチンでエプロンをなびかせながら、楽しげに鼻歌を歌っている。
美玖は、リビングのソファで最新のスマートフォンを握りしめ、眉間に深い皺を寄せていた。
「これを見てちょうだい。昨日、私たちが『完璧な一般人』として近所の公園を散歩した際、接触してきたあの婦人のことよ」
「ああ、ポチの飼い主の佐藤さん? いい人だったじゃない。大根お裾分けしてくれるって」
「違う! その『大根』よ! 彼女、私に手渡す際、一瞬だけ……本当に一瞬だけ、私の指輪を見て『末永くお幸せに』と呟いたの。……これは、私たちの正体が露見しているという明白なシグナルではないかしら」
美玖は戦慄していた。
彼女たちの引退は、全人類に『知ってた!』と祝福されるという、未曾有の公開処刑……もといカミングアウトによって完結したはずだった。
だが、美玖の脳内では未だに「自分たちは高度な隠密生活を送っている一般人」という設定が稼働し続けている。
「……いい、梨乃。今日からは『レベル7』の変装を導入するわ。サングラスの上にダミーの眼鏡を重ね、さらに――」
「美玖。……ストップ」
梨乃が、濡れた手をタオルで拭きながらリビングへ歩み寄り、美玖の隣にどっかと座った。
そのまま、美玖の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「ん……いい匂い。美玖、落ち着いて。……あのね、近所の人たちが優しいのは、私たちが『元アイドル』だからじゃないの。私たちが『いつも幸せそうにイチャついて歩いてる、ちょっと変わった新婚さん』だからなんだよ」
「……イチャついて? 心外だわ。あれは、公衆の面前における『相互扶助のシミュレーション』であって……」
「はいはい、シミュレーションね。……もう、美玖は本当に嘘が下手なんだから」
梨乃が美玖の頬をぷにぷにと突つく。
美玖は顔を赤らめつつも、梨乃の手をしっかりと握り返した。
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その日の午後、二人は「社会との再統合プロセス」の一環として、個人のSNSアカウントを開設することにした。
『早乙女美玖(旧姓:桐島)』
『早乙女梨乃』
IDを作成した瞬間、待機していたかのように認証バッジが付与された。
美玖は、震える指で最初の一投を書き込む。
【皆様、お久しぶりです。現在は『永久業務契約』に基づき、極めて安定した共同経営(家庭生活)を継続しております。本日は、地域社会との共生(お買い物)について報告します。】
添えられた写真は、二人の影が並んで伸びているだけの、素っ気ない地面。
だが、その数分後。
隣で梨乃がスマートフォンを操作し、美玖の投稿を引用した。
【美玖、硬い。硬いよ!笑 今日は二人でお揃いのエプロン買ったよね。美玖の分は私が選んだんだよ♡(自撮りツーショット添付)】
画面の中で、無防備に微笑む梨乃と、その後ろで耳を真っ赤にしてそっぽを向いている美玖の姿が、全世界に共有された。
「――っ、梨乃! 私の不覚な表情を全世界の観測者に晒すなんて、セキュリティ意識が低すぎるわ!」
「えー、いいじゃない。ほら、もう一〇万リツイート超えてるよ? コメント見て。『美玖様、引退しても相変わらず梨乃ちゃんに勝てないの尊い』だって。……みんな、喜んでるよ?」
美玖は、押し寄せる大量の通知を眺めた。
かつてのような「監視の目」ではない。そこにあるのは、自分たちの幸せを栄養にして生きる、巨大な「応援団」の熱量だった。
(……不思議だわ。……隠さなくていいということが、これほどまでに心を軽くするなんて)
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夕暮れ時。二人は再び、近所のスーパーへと出かけた。
美玖は今日も、一応の「プロ意識」として深い帽子を被っているが、その足取りは軽い。
「あら、早乙女さん。またお二人で? 仲が良いわねぇ」
レジの店員が、当たり前のように話しかけてくる。
美玖は一瞬身構えたが、すぐに優雅に微笑んだ。
「ええ。……本日の夕食は、彼女という資産のコンディションを整えるための重要なタスクですので」
「はいはい、美味しいもの作ってあげてね。……あ、これ、おまけの三つ葉。お吸い物に入れるといいわよ」
「……感謝します。……この『付加価値』、有効に活用させていただきますわ」
美玖が、三つ葉のパックを丁重に受け取る。
スーパーを出ると、オレンジ色の夕焼けが駅前広場を染めていた。
かつてはこの時間、誰にも見つからないように、窓の閉め切られた送迎車で移動していた。
今は、ただのビニール袋を提げて、隣にいる愛する人の体温を感じながら歩いている。
「ねえ、美玖。……隠さない生活って、ちょっと物足りない?」
梨乃が、美玖の手をぶんぶんと振りながら尋ねた。
美玖は、夕日に照らされた梨乃の横顔を見つめ、静かに答えた。
「……いいえ。……隠蔽という行為には、ある種のスリルがあったけれど。……今のこの『平穏』こそが、私が五年間のビジネスの末に手に入れたかった、最大のリターンなのだわ」
「そっか。……よかった。……あ、でもね、美玖」
梨乃が、悪戯っぽく美玖の顔を覗き込む。
「たまには『隠密ごっこ』しない? ほら、今夜とか。……家の中の、誰にも見えない場所で。……私と美玖だけの、極秘会議」
「……。……梨乃。……それは、就業規則違反ではなくて?」
「もうアイドルじゃないんだから、校則も就業規則もないよ。……あるのは、早乙女家の『家訓』だけ」
梨乃が、美玖の耳元で囁く。
「家訓第一条。……夜の残業は、美玖が満足するまで終わらせないこと」
美玖は、沸騰しそうなほど顔を赤くし、梨乃の手を強く握り返した。
「……ふ。……いいわ。……私のマネジメント能力を、存分に思い知らせてあげる。……覚悟しなさい、梨乃」
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マンションの廊下。
自分たちの部屋のドアの前に着いた時、美玖はふと足を止めた。
表札には、新しく掲げられた『早乙女』の文字。
秘密は解けた。
世界はすべてを知っている。
それでも、愛は続く。
かつて、自分たちを閉じ込めていた「アイドル」という名の檻は、今や二人を守るための、温かい「街」へと姿を変えていた。
「……ただいま、梨乃」
「おかえり、美玖」
ドアが閉まる音。
その瞬間、二人は吸い寄せられるように唇を重ねた。
それは、ビジネスでも、演出でも、隠蔽でもない。
ただ、一生涯を共にすると誓った二人だけの、静かな真実だった。
***
その頃。
事務所のデスクで、二人の個人アカウントの初投稿をチェックしていた佐々木恵は、本日最後の一錠となる胃薬を飲み下した。
「(……ツーショットの自撮り。……エプロンの報告。……あーあ。……全人類が「待ってました!」って叫んで、サーバーが半分死んでるじゃない。……隠す必要がなくなっても、結局振り回されるのは私なのね……)」
佐々木は、幸せそうに「家訓」について呟いている梨乃の投稿に、そっと『いいね』を押した。
「(……お幸せにね、お馬鹿さんたち。……でも明日、ゴミ出しの分別を間違えて、美玖さんが『これは不測の事態だわ!』ってパニック電話してくるのは、もう勘弁してちょうだい……)」
秘密は、最高の結末を迎えた。
だが、彼女たちの「ガチすぎる日常」という名の伝説は、まだ始まったばかりである。
次回、最終回。




