第28話 おはよう、私の奥様。
午前十時。
遮光カーテンの隙間から、細い、しかし力強い初夏の陽光が寝室へと差し込んでいた。
かつてなら、この時間は既に分刻みのスケジュールに追われ、三本目の番組収録に向けて楽屋で死んだように仮眠を取っていたはずだ。
だが、今のこの部屋を支配しているのは、静寂。
そして、隣から聞こえてくる、規則的で、どこか無防備な寝息だけだった。
「……ん、……ぅ……」
桐島美玖……いや、今は戸籍上の本名を名乗る必要すらない、ただの一人の女性に戻った彼女は、ゆっくりと目を開けた。
視界のすぐ側に、柔らかそうな栗色の髪が広がっている。
(――ああ。……そうか。……終わったのね、本当に)
美玖は、まだ夢の続きを見ているような感覚のまま、隣で眠る早乙女梨乃の寝顔を見つめた。
引退コンサート、国立スタジアムでの大乱戦。
全人類への「ビジネス解消(入籍)」宣言から、数日が経過していた。
事務所に山積みになっていた事務手続き、区役所への「最終業務報告書(婚姻届)」の提出、そして新居への「戦略的拠点移転(引っ越し)」。
怒涛のスケジュールを終え、昨夜ようやく、二人はこの新しい家で、初めて目覚まし時計をセットせずに眠りについたのだ。
「……梨乃。……起きてちょうだい、梨乃」
美玖は、自分でも驚くほど甘い声で囁きながら、梨乃の肩を優しく揺すった。
梨乃は「ふにゃ……」と頼りない声を漏らし、布団を被り直そうとする。
「……だめだよぉ、恵さん……。あと五分……、ビジネスおねんねさせて……」
「……。……恵さんはもういないわ、梨乃。……それに、これは『ビジネス』ではないわ。……私たちの、新しい生活の……第一フェーズの始まりよ」
美玖は、布団を強引に剥ぎ取った。
そこには、昨夜二人で選んだお揃いの、少し丈の短いTシャツを着た梨乃が、丸くなって震えていた。
「……あ、……みくねぇ? ……あ、ううん。……美玖、おはよ」
梨乃が、寝ぼけ眼をこすりながら体を起こす。
その瞬間、美玖は梨乃を迷わず引き寄せ、その細い首筋に顔を埋めた。
石鹸の香りと、梨乃特有の甘い体温。
「……おはよう、私の奥様。……気分はどうかしら?」
「っ、……ぅわ! ……な、何それ、美玖! ……朝から、破壊力が凄すぎるよ……!」
梨乃が、顔を真っ赤にして美玖を押し返す。
美玖は、氷の姫の仮面を脱ぎ捨て、勝ち誇ったような、それでいて最高に幸せそうな微笑みを浮かべた。
「ふ。……引退した以上、私はもう『アイドルとしての自制心』というコストを支払う必要がないのよ。……これからは、24時間365日、あなたの夫として……いえ、パートナーとして、全出力をあなたへの愛に注ぐつもりよ。……覚悟はいいかしら?」
「……もう。……美玖、アイドルやめてから、どんどん性格が『ガチ』になってない? ……でも、……私も、嬉しいよ」
梨乃が、美玖の首に腕を回し、その額に自分の額をコツンとぶつけた。
至近距離で見つめ合う、二人の瞳。
そこには、カメラのレンズも、ファンの期待も、マネージャーの胃薬も介入しない、剥き出しの真実だけがあった。
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ベッドから出た二人は、まだ段ボールが少し残るリビングへと向かった。
「……あ。これ、昨日届いたやつだね」
玄関。
そこには、美玖が「引退後の最優先調達物資」として、あらかじめ注文していたものが並んでいた。
色違いの、お揃いのスリッパ。
美玖がシックなグレー、梨乃が可憐なピンク。
五年間、二人は同じ楽屋にいても、同じ靴を履くことすら憚られた。
お揃いのものを持つことは「匂わせ」と呼ばれ、ビジネス上のリスクとして処理されるべき事案だったからだ。
「……梨乃。これを履きなさい。……これが、私たちの『共同生活という名の不可侵条約』の、最初のマイルストーンよ」
「あはは! ……美玖、それただのスリッパだよ。……でも、……うん。……お揃い、初めてだね」
二人は、並んでスリッパを履いた。
たったそれだけのことが、今の彼女たちには、スタジアムで七万人の拍手を浴びるよりも、ずっと重みのある出来事に感じられた。
「……さて。梨乃。朝食の準備に取り掛かるわよ。……といっても、冷蔵庫には、昨夜の『お祝いという名の暴飲暴食』の残骸しか入っていないけれど」
「あ、そうだ。美玖、パンと牛乳がないよ。……買いに行かなきゃ」
梨乃が、当たり前のように言った。
その言葉に、美玖の全身に電流が走った。
「――買い物!? ……私たちが!? ……二人で!?」
「うん。……だって、もう隠れる必要、ないでしょ?」
「……。……そ、それは……理屈では分かっているけれど……。……でも、梨乃。これは極めて高度な『隠密技術』を要するわ。……いい、レベル3の変装を準備して。……サングラスとウィッグ、それから……」
「美玖。……ストップ」
梨乃が、美玖の手を優しく、しかし力強く握った。
「……もう、アイドルじゃないんだよ。……ただの『美玖』と『梨乃』なの。……ね? 手を繋いで、普通の女の子として、お買い物に行こう?」
美玖は、息を呑んだ。
隠さなくていい。
その事実が、五年間の『職業病』に蝕まれた美玖の脳内では、まだエラーを吐き続けていた。
だが、梨乃の瞳が、優しくエラーを上書きしていく。
「……。……そうね。……これも、引退後の重要なリハビリテーションの一環だわ。……よし。……行くわよ、梨乃」
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マンションから徒歩五分のコンビニエンスストア。
美玖は、Tシャツにデニムという「超・低コスト装備(私服)」で、梨乃と手を繋いで歩道を歩いていた。
周囲の視線が、時折二人を捉える。
「(……ねえ、見て。あの二人……)」
「(……えっ、嘘、もしかして……)」
すれ違う人々が、小声で囁き合う。
美玖は反射的に、梨乃を引き寄せて顔を隠そうとした。
「……梨乃、警戒して。観測者が発生したわ……!」
「あはは、美玖、大丈夫だって! ……見て、あの人たちの顔」
美玖が恐る恐る顔を上げると、そこには驚きや侮蔑ではなく、どこか温かい、慈愛に満ちた笑顔があった。
「あの……。……おめでとうございます! 応援してます!」
自転車に乗った女子高生が、通り過ぎざまに笑顔で叫んだ。
美玖は、呆然と立ち尽くした。
「……。……お、……ありがとう、ございます……?」
震える声で返した美玖の隣で、梨乃が誇らしげに胸を張る。
「ね? ……みんな、表立って、私たちの味方だよ。……『ビジネス』なんて盾、もういらないんだよ、美玖」
コンビニに入り、二人はカゴを持ってパン売り場の前に立った。
「美玖、このクロワッサン美味しそう!」
「……ええ。……でも、こちらの全粒粉パンの方が、栄養学的……いえ、新婚生活の健康管理としては適切だわ」
「もう、理屈っぽいなぁ! ……じゃあ、両方買っちゃおうよ」
カゴの中に、二人が食べるためのパンが放り込まれる。
レジで会計を済ませ、袋を受け取った美玖の手を、梨乃が再びしっかりと握った。
「……梨乃」
「なあに?」
「……明日も、こうして買い物をしてもいいかしら」
「明日も、明後日も、一年後も。……ずっとだよ、美玖」
帰りの道。
繋いだ手から伝わってくるのは、もはや隠蔽のための暗号ではない。
ただ、この世界で一番大切にしたい、一人の女性の温度。
新居のドアを開け、玄関に並んだ二足のスリッパを見た時、美玖は初めて、心の底から『アイドル・桐島美玖』の鎧を脱ぎ捨てることができた。
「……さて。梨乃。朝食を食べ終えたら……。……さっきの『残業』の続きをしましょうか」
「えへへ。……望むところだよ、私の美玖」
朝の光が、二人の静かな城を、より一層明るく照らし出した。
アイドルをやめても、世界は終わらない。
ただ、少しだけ糖度の高い日常が、永遠に続いていくだけだ。




