第25話 幕は上がる、絶唱の『愛してる』
国立スタジアムが、一つの巨大な「発光体」と化していた。
七万人の観衆が振る白いペンライトが、夜の闇を完全に駆逐している。その中心、眩いスポットライトを浴びて、二人の少女がステージの端に立っていた。
地鳴りのような歓声。空気を震わせる重低音。
桐島美玖は、溢れ出しそうになる感情を鉄の意志で抑え込み、隣に立つ早乙女梨乃の手を握った。
(――ついに、この時が来た。五年前、私たちはこの場所を目指して走り始めた。嘘を重ね、虚飾を纏い、最高に美しく不純な『ビジネス』を演じ続けてきた)
美玖はマイクを強く握りしめた。
指先が震えているのは、恐怖のせいではない。これから世界に放つ「最後の一閃」への高揚感だ。
「……梨乃。準備はいいかしら。私たちの五年間の『総決算』を見せてあげるわ」
「うん。……美玖、私、今が一番幸せだよ」
梨乃が、美玖の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
その瞬間、一曲目のイントロがスタジアムを貫いた。
一曲目は、二人のデビュー曲。
かつては、お互いに一メートル以上の距離を保ち、「洗練されたライバル関係」を演出していた楽曲だ。しかし、今日のフォーメーションは異常だった。
肩が触れ合い、指先が絡み、互いの吐息がマイクに混ざり合う。
「(……ねえ、美玖。今のステップ、ちょっと近すぎない?)」
「(……黙りなさい。これは『究極の親密度』を提示することで、ファンの心理的充足度を最大化させるビジネス戦略よ。……離れないで)」
美玖は心の中で、自分自身にそう言い聞かせた。
情報格差。
美玖の中では、これはあくまで「引退前の大サービス」という名の高度な経営判断だった。しかし、七万人の観客と、モニター越しに見守る数百万人の目には、それが「愛の重力に抗えない二人の姿」にしか見えていなかった。
* **二曲目:『偽りのプロトコル』**
* **五曲目:『ビジネス・ハネムーン』**
* **十曲目:『契約のキス』**
曲が進むごとに、二人の距離は物理法則を無視して近づいていく。
曲間のMCですら、美玖は梨乃の腰を抱き寄せ、耳元で何かを囁き続けていた。
「(……梨乃。次のサビ、私と視線を合わせて。……逸らしたら、減俸よ)」
「(……ふふ、美玖。それって、私を独り占めしたいだけじゃない?)」
「(……し、私情を挟まないでちょうだい! これは……これは統計学的に導き出された、最もエモいアイコンタクトの角度なのよ……!)」
ライブは佳境を迎えた。
スタジアム中のファンが、二人の五年間の歩みを辿る映像と共に、声を合わせて合唱する。その声は、もはや応援ではなく、二人の門出を祝う「祝福の賛歌」のように響いていた。
そして、本編最後の曲。
五年前に、二人が初めて「ビジネス百合」を意識して歌った、伝説のバラードだ。
美玖は、梨乃と向き合った。
スポットライトが二人を包み、周囲の音が遠のいていく。
梨乃の瞳の中に、自分だけが映っている。
(……ああ。……そうよ。私は、この子のために今日まで……)
美玖の脳裏に、五年間の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
楽屋で隠れて手を繋いだこと。
スキャンダルを恐れて泣きそうになった夜のこと。
「ビジネス」という言葉の裏側に、大切に、大切に隠し続けてきた、たった一つの真実。
「――世界中を、騙し続けてきたけれど」
美玖の歌声が、震えた。
完璧な氷の姫。
決して人前で涙を見せず、常に冷徹に「正解」を選び続けてきた彼女の瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。
「――あなただけは、本物だった」
歌詞ではない。
それは、メロディに乗せて放たれた、美玖の魂の告白だった。
サビが訪れる。
第一話の対比。あの日、二人は客席のファンに向けて「愛してる」と微笑んだ。それは、計算された『営業』としての言葉だった。
しかし、今は違う。
美玖は、七万人の視線など、もはや意識の外に追いやっていた。
彼女が見ているのは、目の前で涙を浮かべて微笑む、早乙女梨乃ただ一人。
「――愛してるわ、梨乃!!」
スタジアムを震わせる、魂の絶唱。
マイクを通した音などではない。美玖の剥き出しの感情が、空気を震わせ、七万人の心臓に直接叩きつけられた。
梨乃もまた、叫ぶように声を重ねる。
「――私も! 私も、美玖を愛してる!!」
二人はステージの真ん中で、誰の目も憚らず、力強く抱き合った。
楽曲のエンディング。
重厚なストリングスの音が消え、スタジアムに静寂が訪れる。
美玖の肩は激しく上下し、崩れたメイクがその頬を汚していた。
だが、その顔は、五年間のアイドル人生の中で、最も美しく、最も晴れやかだった。
(……ああ。……言ってしまったわ。……ビジネスとしての整合性も、アイドルとしての規範も、すべて……。でも、不思議ね。……後悔なんて、一塵も感じないわ)
ステージ袖。
マネージャーの佐々木恵は、手にした胃薬のボトルを落とし、呆然とモニターを見つめていた。
「(……絶唱……。絶唱だった。……でも美玖さん。今のはもう、カミングアウトを通り越して、『公開入籍』よ。……見てよ、あのアリーナ前列のファン。……尊すぎて、泡吹いて倒れてるじゃない……)」
スタジアムの外では、チケットを取れなかったファンたちが、音漏れから聞こえた二人の叫びに、狂喜乱舞していた。
SNSは既に壊滅状態だ。
* 『【悲報】国立スタジアム、物理的に光の柱が立つ』
* 『ビジネスという名の盾が、今、完全に粉砕された』
* 『美玖様の涙……あれは演技じゃない。五千年の歴史でも作れない真実だ』
* 『#みくりの結婚おめでとう がトレンド世界1位から不動』
曲が終わり、静まり返るスタジアム。
美玖はゆっくりと梨乃の肩を離し、正面のカメラを見据えた。
涙を拭うことさえせず、彼女は再びマイクを口元に寄せる。
その声は、もう震えていなかった。
「……皆様。……最後の一曲を前に。……私たちから、お伝えしたいことがあります」
梨乃が、美玖の手をしっかりと握りしめる。
七万人と全スタッフ、そして会場外のすべてのファンが息を飲んだ。
二人の指には、あの日から二人が大切にしていた「共鳴用デバイス」という名の指輪が、スポットライトを反射してまばゆい輝きを放っていた。
七万人の呼吸が、一つになる。
情報格差という名のエンターテインメント。
その「答え合わせ」の瞬間が、ついに訪れようとしていた。
「私たちは、……ずっと、……」
美玖の唇が、次の言葉を紡ごうとしたその時ーー。
次回
――史上最大の「勘違い」が、最高の結末を迎える。




