第24話 運命の朝、氷の姫の震える指先
国立スタジアムの夜明けは、ひどく静かだった。
空は薄い群青色から、地平線の方だけが淡いオレンジ色に染まり始めている。数時間後には七万人の熱狂に包まれるはずの巨大な器は、今はまだ深い眠りについている巨獣のように、ただそこに鎮座していた。
桐島美玖は、スタジアムの最上段の客席に立ち、冷たい朝の風を一身に浴びていた。
その視線の先にあるのは、点検作業が進められているメインステージ。
(――ついに、この日が来たのね。五年間、私はこの場所に辿り着くために『桐島美玖』を演じ続けてきた)
美玖は、漆黒のコートの襟を立て、独りごちた。
その左手、手袋に隠された薬指には、あの「共鳴用デバイス」という名の婚約指輪が、体温を吸って微かな重みを伝えている。
(今日のコンサートは、アイドル史に残る最高難度の『撤退戦』になるわ。引退という名の完璧なカモフラージュを施し、梨乃との永久業務契約――入籍へと至る。ファンは引退に涙し、私たちの『美しきビジネスの終焉』を称賛するはず。……そう、すべては計算通りよ)
美玖は、自らの内に構築された鋼の論理を再確認した。
昨日、佐々木マネージャーに「バレている」というニュアンスの説教を食らったような気がするが、美玖の脳内では、ここに来てもなお「マネージャーなりの、高度な激励のブラックジョーク」として美しく変換されていた。
「――みくねぇ。こんなところにいたんだ」
背後から、柔らかい声が響いた。
振り返らなくても分かる。世界で唯一、自分の「氷」を溶かすことができる熱を持った少女。
早乙女梨乃が、美玖の隣に並び、手すりに肘をついた。
「梨乃……。準備はいいかしら。今日が最後よ」
「うん。……なんだか、夢みたいだね。この五年間、いろいろあったけど……。結局、美玖の隣にいるのが当たり前になっちゃった」
梨乃が、美玖の腕にそっと自分の腕を絡める。
美玖は、わずかに顔を赤らめつつも、その体温を拒まなかった。
「……ええ。私たちの『ビジネスとしての整合性』を、今日、世界に証明するのよ。……世界中を驚かせる、最高のハッピーエンドをね」
「あはっ。……美玖、本気で言ってる? みんな、もう『お幸せに』って言いたくてウズウズしてるよ?」
「……。……そう。……ファンの皆様の『演技力』も、私たちが育て、また私たちを育ててくれた、素晴らしい宝ね。彼らもまた、私たちの『秘密』という名のエンターテインメントに付き合ってくれている、共犯者なのよ」
美玖は、どこまでもポジティブに勘違いを加速させた。
***
開演一時間前。
ステージ裏の廊下は、まさに「戦場」だった。
飛び交う怒号。走り回るスタッフ。
その中心で、マネージャーの佐々木恵は、本日十五袋目となる胃薬を口に流し込んでいた。
「(……ああ、神様。どうか今日という日が、無事に終わりますように。……いえ、無理ね。無事になんて終わるはずがないわ。……演出家が「最高のバージンロードを!」って叫びながら照明をセッティングしてるし、音響スタッフは「二人の誓いのキスをハイレゾで録音する!」って鼻血を出しながら調整してるんだから……)」
佐々木の視線の先では、ファンたちが持ち寄った「白いサイリウム」の箱が山積みになっていた。
本来、このコンサートのテーマカラーは決まっていなかったはずだ。だが、ネット上の『観測者』たちの間で、ある「聖戦」のルールが共有されていた。
『ラストの曲では、白のライトを一斉に点灯させろ。……これは引退をおくる光ではない。二人の「門出」を祝う、ウェディング・ホワイトだ』
スタジアムの外からは、チケットを取れなかった数万人のファンが上げる地鳴りのような「みくりの!」「結婚!」コールが響いてくる。
佐々木は、空になった胃薬の箱を握りつぶし、楽屋のドアを叩いた。
「二人とも、準備はいい? ……そろそろ、本番よ」
***
ステージ袖。
暗幕が垂れ下がる暗闇の中で、美玖と梨乃は出番を待っていた。
表のスタジアムからは、爆発的な歓声と、数万人の熱気が壁を突き抜けて伝わってくる。
美玖は、ふと自分の右手を見つめた。
震えていた。
氷の姫、桐島美玖。
どんなトラブルにも動じず、完璧なパフォーマンスを披露してきた彼女の指先が、微かに、しかし止まることなく震えている。
(……おかしいわ。……これは、武者震い? ……いいえ、違う。私は……怖いのかしら。この幕が上がれば、もう『アイドル』としての私は終わってしまう。……世界を欺き続けてきた、この五年間という名の心地よい嘘が……)
冷たい汗が、美玖の背中をなぞる。
足が、すくんでいる。
七万人の視線を浴びることへの恐怖ではない。自分がこれまで築き上げてきた「完璧なビジネス」が、自分の本当の感情によって壊れてしまうことへの、無意識の恐怖。
その時だった。
震える美玖の右手を、柔らかい、熱を帯びた手が包み込んだ。
「……梨乃」
「美玖。……手が、冷たいよ」
梨乃が、暗闇の中で美玖を見つめていた。
その瞳は、一点の曇りもなく、深い慈愛と信頼に満ちている。
「……大丈夫よ。これは、エネルギーの充填作業の過程で起きる……その、生理的な現象であって……」
「美玖。……もう嘘、つかなくていいよ。……今は、私しか見てないから」
梨乃が、美玖の震える指先を自分の頬に寄せた。
そのまま、彼女は美玖の指一本一本に、唇をそっと寄せていく。
吸い付くような感触。
美玖の体内に、梨乃の「本気」の熱が、電流のように流し込まれる。
「……あ……っ、梨乃……。……本番前に、何を……」
「おまじない。……美玖、今日は私のことだけ見て歌って。……世界中が敵になっても、私が美玖の『一番のファン』でいてあげるから」
梨乃が、美玖の首筋に顔を寄せ、熱い吐息を漏らした。
その唇が、美玖の耳たぶを甘く噛む。
「……っ、……ずるいわね。……そんなことをされたら、もう……」
「……あはっ。……美玖、震え、止まったね」
梨乃が離れると、不思議なほど美玖の心は静まっていた。
全身に漲るのは、恐怖ではなく、圧倒的な独占欲と幸福感。
「ええ。……最高の自分たちを見せましょう、梨乃。……私たちの愛が、どれほど完璧な『本物』であったか……。全人類に、その目に焼き付けさせてあげる」
美玖が、梨乃の手を強く握り返した。
指の間を深く絡ませ、骨が軋むほどに。
「「――行くわよ/行くよ」」
二人の声が、重なる。
照明が、一斉にスタジアムを貫いた。
暗幕が左右に開かれ、二人の目の前に広がったのは――。
七万人のファンが灯した、まばゆいばかりの「白」の海。
それは、引退を惜しむ雪の色ではなく。
これから始まる、新しい物語を祝福する「花嫁の白」だった。
美玖は、一瞬だけ目を見開き、そして――最高に不敵で、最高に美しい、氷の姫の微笑みを浮かべた。
(……ふ。……みんな、白なんて用意して。……私たちの『撤退戦』を、これほどまでに華々しく演出してくれるなんて。……お礼に、一生忘れられない『嘘』を、今ここで魅せてあげる!)
美玖が、マイクを握りしめた。
第一声。
スタジアムを震わせたのは、絶唱の始まりだった。
カウントダウンは、もう止まらない。
終わるための曲が、始まった。
次回
――魂の咆哮が、国立スタジアムを塗り替える。




