第22話 演技不要、120%の本気を撮れ
都内近郊の巨大な撮影スタジオ。その中心には、どこか寂寥感の漂う、しかしこの世の贅を尽くした「ベッドルーム」のセットが組まれていた。
ラストシングル『永遠の隠れ家』。
引退を控えた『みくりの』が世に放つ、最後にして最大のラブレター。そのミュージックビデオ撮影は、今、まさに佳境を迎えようとしていた。
「――いいか、二人とも。これが最後だ」
メガホンを握る鬼才・黒田監督の目が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。彼は数々の名作を世に送り出してきたが、この三ヶ月間、彼はある種の「使命感」に突き動かされていた。それは、この二人がひた隠しにしている「真実」を、銀幕という名の残酷な鏡に叩きつけることだ。
「今回のテーマは、タイトルの通りだ。世界から逃げ出し、二人だけの聖域に辿り着いた恋人たちの、一夜の終焉。……美玖、梨乃。芝居はするな」
「芝居を、するな……ですか?」
桐島美玖は、純白のシルクガウンを羽織ったまま、氷の姫らしい冷静な声で問い返した。その内側では、心臓が爆音を立てて暴れ回っているというのに。
「そうだ。ファンは君たちの完璧な『営業』を五年間見てきた。だが、最後くらいは『剥き出しの人間』を見せてくれ。カメラがあることを忘れろ。……君たちが、今、この瞬間に最も愛している相手にだけ向ける、あの表情を撮りたいんだ」
美玖は、隣に座る早乙女梨乃と視線を交わした。
梨乃は、少しだけ乱れた髪を指でいじりながら、挑発的な、それでいて蕩けるような笑みを浮かべている。
(……なるほど。監督は、私たちの『ビジネス百合』としての演技力が、ついにリアリティの限界を超えたのだと勘違いしているのね。……いいわ。ならば、その期待に応えてあげましょう)
美玖は、自らの内に構築された高度な理論を再確認した。
最高の隠蔽工作とは、真実を隠すことではない。真実を「最高の演技」というラベルを貼って、白日の下に晒すことだ。
どれほど熱く梨乃を抱きしめようとも、それが「MVの演出です」という看板の下で行われる限り、世間はそれをプロの仕事として称賛する。
(ふふ……完璧だわ。今から私が梨乃に注ぐすべての愛欲は、監督の目には『役作りの極致』として映るはず。……梨乃、覚悟しなさい。今日は仕事という大義名分のもと、あなたを完膚なきまでに愛でてあげるわ)
美玖は、自分でも驚くほど攻撃的な独占欲を瞳に宿し、セットのベッドへと潜り込んだ。
「本番、いきます! カメラ、回して!」
監督の合図とともに、スタジオの照明がゆっくりと落ち、夕暮れ時のような、オレンジ色と群青色の混ざり合う幻想的な光がセットを包み込む。
静寂。
聞こえるのは、自分の鼓動と、すぐ隣に横たわる梨乃の吐息だけだ。
美玖は、台本に従って梨乃の肩を引き寄せた。
だが、その指先が梨乃の肌に触れた瞬間、あらかじめ用意していた「演技プラン」はすべて霧散した。
(――熱い)
梨乃の体温。五年間、ずっと隣で感じてきた、世界で一番愛おしい熱。
梨乃が、美玖の首筋に鼻先を寄せ、深く、深く呼吸をする。
「……みく姉。……演技、しなくていいんだって」
マイクが拾いきれないほどの微かな囁き。
梨乃の手が、美玖のガウンの隙間から滑り込み、背中をゆっくりとなぞった。
「……っ、梨乃。……カメラが……」
「いいよ、そんなの。……今の私たちには、関係ないでしょ?」
梨乃の瞳が、至近距離で美玖を射抜く。
そこにあるのは、営業用の天使の微笑みではない。獲物を前にした、飢えた獣の――いや、一人の女性としての、剥き出しの情熱だ。
美玖の理性が、音を立ててメルトダウンを起こした。
美玖は、梨乃をベッドに押し倒した。
台本では、軽く抱き合って見つめ合うだけのシーンだった。
だが、美玖の腕には、梨乃を絶対に離さないという、暴力的なまでの独占欲がこもっていた。
「あ……っ、美玖……」
梨乃の唇を、奪うように塞ぐ。
スタジオのスタッフたちが、一斉に息を呑んだのが分かった。
だが、美玖は止まれなかった。
キスは、一秒、二秒と長引き、やがて粘り気のある濃厚なものへと変貌していく。
美玖の指が、梨乃の細い指に絡まり、力強く握りしめられる。
その時だった。
モニターをチェックしていた若手スタッフが、思わず声を上げそうになった。
美玖の左手薬指。
そこに、衣装合わせの時にはなかったはずの、まばゆいばかりの輝きが映り込んでいた。
(……え。あの指輪……。小道具のシルバーリングじゃない。……昨日、美玖様が『宝石のメンテナンス』って言って、こっそり宝石店から受け取ってた、一〇カラットの特注ダイヤ……!)
スタッフたちは、もはやモニターを見るのも躊躇われるほどの「真実」に圧倒されていた。
美玖は、確信犯だった。
あえて私物の婚約指輪をつけたまま撮影に臨む。
「あまりに役に入り込みすぎて、私生活の私物すらも小道具として使ってしまった」という、プロ意識の高さを装った、最高級の匂わせ。
いや、もはや匂わせですらない。
それは、世界に向けた「勝利宣言」だった。
「…………カット! ……カットだ!!」
黒田監督の声が、震えていた。
彼はモニターを見つめたまま、涙を流していた。
「……歴史が動いた。……今のは、映像じゃない。……魂だ。……全人類が、嫉妬で死ぬぞ、これ」
スタジオに、長い、長い静寂が訪れた。
誰も、言葉を発することができない。
美玖と梨乃は、ベッドの上で乱れた服を整えることもせず、しばらくの間、お互いの鼓動を確かめ合うように抱き合っていた。
ようやく美玖が顔を上げ、氷の姫の仮面を(半分だけ)貼り直して、監督に告げた。
「……失礼いたしました。……少々、役に入り込みすぎたようですわ。……監督の『演技をするな』という言葉を、私なりに極限まで解釈してみたのですが……。ビジネスとしてのクオリティ、いかがかしら?」
「……完璧だよ、美玖君。……君は、世界で一番残酷な、そして世界で一番美しい嘘つきだ」
監督は、そう言って力なく笑った。
***
撮影現場の隅。
マネージャーの佐々木恵は、壁に頭を預け、本日三箱目となる胃薬を口に放り込み、庭で育てたセンブリ茶で流し込んだ。
「(……ビジネス? 役作り? ……どの口が言ってるのよ、美玖さん……。指輪、映り込んでたわよ。確信犯でしょ。……スタッフ全員、今夜は赤飯炊くか、遺書を書くかで迷ってるわよ……)」
佐々木の手元のスマホは、既に異常な熱を持っていた。
現場のスタッフ(という名の観測者)たちが、我慢できずにこぼした断片的な情報が、ネット上を狂乱の渦に叩き込んでいる。
『【速報】みくりのお蔵入り寸前の神MV確定』
『美玖様、撮影中にガチで梨乃ちゃんを食べようとしていた説』
『指輪が……私物のダイヤだったってマジ? これ、引退コンサートの前に「既成事実」を映像に残したってことだろ』
『スタッフが「撮影じゃなくて、二人の初夜の覗き見をしてしまった気分だ」って言ってる。尊死する……』
ファンたちは誰も「隠蔽」という単語を信じていなかった。
彼らが待っているのは、もはや「引退」という別れではない。
その後に控えているはずの「入籍」という名の、世界最大のエンターテインメントだった。
***
撮影後の楽屋。
美玖は、ようやく鍵を閉めると、震える足取りでソファに沈み込んだ。
「……ふぅ。……梨乃。今日の私たちのパフォーマンス、完璧だったわね」
美玖は、自分の指で光るダイヤを見つめ、陶酔したように呟いた。
「……監督も、あんなに感動していたわ。……まさか、私たちが本当に、昨夜この指輪をはめて、一生の愛を誓い合ったなんて――誰一人として、疑う余地もなかったはずよ」
「あははっ! そうだね、美玖先輩。……みんな『さすがプロの役者魂だ!』って、尊敬の眼差しで見てたもんねっ♡」
梨乃が、美玖の膝の上にすっぽりと収まり、その耳たぶを甘く噛んだ。
「……ねえ、美玖。……次の撮影は、シャワーシーンがあるんだって。……もっとすごい『演技』、見せつけちゃおうか?」
「……ええ。……ファンの皆さんに、最高の『嘘』を届けるのが、私たちの務めだもの。……覚悟しなさい、梨乃。……ビジネスの限界を、教えてあげるわ」
美玖は、再び梨乃を強く抱きしめた。
自分たちの愛が、世界中で最も「祝福された真実」として既に共有されていることなど、彼女たちはまだ知らない。
完璧な隠蔽工作は、いよいよ「隠す」という工程を放棄し、圧倒的な「実演」へと進化していく。
楽屋の外。
佐々木マネージャーが、中脘の経穴を押し込みながら、四箱目の胃薬を求めてカバンを漁る音が虚しく響いた。
「(……シャワーシーン。……もう、勝手になさい。……私は、スタジアムの真ん中に教会を建てる予算を、今すぐ社長と相談してくるわ……)」
終わりの始まり。
秘密の恋は、カメラの前で、誰にも気づかれないまま(と本人たちが信じ込んだまま)、まばゆいばかりの輝きを放ち続けていた。




