第21話 重大発表、世界が息を呑む瞬間
その日の都心は、記録的な熱気に包まれた。
『みくりの』の公式SNSが、前日の深夜に放った「緊急生放送」の告知。それだけで、インターネットという名の広大な海は、未曾有の大時化に見舞われていた。
事務所の地下にある、最新鋭の配信スタジオ。
無機質なカメラレンズの向こう側には、既に待機者数が三〇万人を突破しているという数字が踊っている。
桐島美玖は、漆黒のドレスの裾を一度だけ強く握りしめ、隣に立つ早乙女梨乃を見た。
梨乃は、いつもと変わらない『天使』の微笑みを湛えているが、その指先がわずかに美玖の衣装に触れている。それは、二人だけにしかわからない、決意の合図だった。
(――いいわ。ついにこの時が来たのね。五年間、私たちはプロのアイドルとして、この世で最も甘美でスキャンダラスな秘密を、完璧に隠し通してきた)
美玖は、自らの内に構築された『完璧なアイドル・桐島美玖』の仮面を、今一度強固に固定する。
(ファンは私たちのことを『最高のビジネスパートナー』だと信じて疑っていない。これから私たちが放つ『引退』という言葉は、彼らにとって青天の霹靂。そして、その後に続く『真実の告白』は、世界を崩壊させるほどの衝撃を与えるはずよ)
美玖の脳内では、驚愕で失神するファン、泣き崩れるスタッフ、そして歴史が動く瞬間に立ち会った高揚感で震えるジャーナリストたちの姿が、鮮明にシミュレーションされていた。
「……梨乃。準備はいいかしら。私たちの、最後にして最大の『隠蔽工作』の答え合わせよ」
「うん、美玖先輩。……ううん、美玖。……世界をびっくりさせちゃおうね」
梨乃の瞳に宿る、ゾッとするほど深い独占欲。
美玖はそれを最高の悦びとして飲み込み、ディレクターの合図とともに、配信開始のボタンが押された。
「――ファンの皆様、そして関係者の皆様。本日は急な告知にもかかわらず、お集まりいただきありがとうございます」
美玖の声は、冬の夜の静寂のように澄み渡っていた。
画面を流れるコメントは、秒間数千件。
『何事!?』『まさか新曲!?』『結婚発表だったらどうしよう(笑)』といった言葉が高速で流れていく。
(ふふ……『結婚』なんて冗談を言えるのも、今のうちよ。あなたたちが今から聞くのは、そんな生易しいファンサービスではないのだから)
美玖は、隣の梨乃と視線を交わした。台本通り、一秒だけの、完璧に計算された「ビジネス」のアイコンタクト。
「私たち『みくりの』は……次回のワールドツアー最終公演をもちまして、アイドルを引退することを決意いたしました」
その瞬間、スタジオの空気が凍りついた。
モニターの中のコメント欄が、ピタリと止まった。
(……来たわね。この沈黙こそが、絶望の証。みんな、私たちの引退が受け入れられなくて、言葉を失っているんだわ)
美玖は胸を痛めつつも、ある種の全能感に酔いしれていた。
自分たちがこれほどまでに愛されていたこと、そしてその活動に終止符を打つことが、どれほどの影響を及ぼすか。すべては計算通り。
だが、彼女は気づいていなかった。
コメント欄が止まったのは「驚き」のせいではなく、全世界の観測者たちが一斉に
「……で、結婚の詳細は?」
と、次の言葉を待つためにタイピングの手を止めただけだということに。
「引退の理由は、私たちが……『一人の人間としての幸福』を追求するためです。……最後まで、最高のステージをお届けすることを約束します」
美玖が凛とした態度で締めくくる。
梨乃もまた、潤んだ瞳でカメラを見つめ、深々と頭を下げた。
「みんな、今まで応援してくれてありがとう……っ。……最後の最後まで、私たちを『観測』しててね?」
配信終了。
カメラが落ちた瞬間、美玖は椅子に崩れ落ち、激しく肩を上下させた。
「……やったわ。……梨乃、やったわ。……世界が、静まり返っていたわ。……私たちの引退が、これほどまでの衝撃を与えるなんて……」
「そうだね、美玖先輩。……みんな、言葉も出ないみたいだったね」
二人は抱き合い、自分たちの「完璧な幕引き」の第一歩を祝った。
スタジオの隅。
マネージャーの佐々木恵は、もはや胃を通り越して、背中の方まで突き抜けるような痛みに耐えていた。
彼女のスマホは、配信終了直後から、壊れたおもちゃのように振動し続け、熱を帯びている。
「(……違うの。美玖さん、梨乃。……あの沈黙は『絶望』じゃないわ。……全ファンが『いよいよ、スタジアムで結婚披露宴をする準備に入ったな』って確信して、震えてるだけよ……)」
佐々木は震える手で、SNSの反応をチェックした。
そこには、美玖の予想とは真逆の、「狂乱に近い祝祭」が広がっていた。
* 『【悲報】みくりの、ついに「ビジネス」の看板を捨てて「ガチ」に専念することを決定』
* 『引退理由:「一人の人間としての幸福」=「梨乃との生活」ってことで確定?』
* 『美玖様が言った「最高の隠蔽工作」って、もしかしてまだ自分たちがバレてないと思ってるの? 無理すぎて尊い』
* 『スタジアム千秋楽のチケット、これ倍率一〇〇〇倍じゃ済まないぞ。実質の結婚式参列席だもん』
* 「私はこの服で参列します #みくりの参列コーデ」
* 『#みくりの結婚しろ ではなく #みくりの結婚おめでとう への移行期間開始』
「(……美玖さん。……あなたが『完璧に隠し通してきた』と誇っているあの五年間、ファンはみんな、二人の婚姻届の証人になる練習をしてきたのよ……)」
佐々木は、もはや何も言えなかった。
事務所の電話は鳴り止まず、スポンサーからは「祝儀……ではなく、引退記念広告の枠を広げたい」という問い合わせが殺到している。
配信の数時間後。送迎車の中。
美玖はスマホでニュースサイトのヘッドラインを眺め、満足げに微笑んでいた。
「見て、梨乃。『みくりの引退、世界中に衝撃』という見出しよ。……ふふ、やっぱり私たちの存在は、それほどまでに大きかったのね」
「うん、みく姉。……でも、掲示板のみんな、なんだか『おめでとう』って言ってる人が多いみたい。……引退するのに、おめでたいなんて、不思議だね?」
「……。……きっと、私たちが『伝説』になることを祝福してくれているのよ。……あるいは、私たちの『ビジネス百合』としての完成度があまりに高すぎて、最後は笑顔で見送ろうと決めたのかしら。素晴らしいファンに恵まれて幸せね、私たち」
美玖は、自らの都合の良いように解釈を捻じ曲げた。
彼女にとって、自分たちの愛がバレているなどという可能性は、万に一つも存在しない。
「……いいわ、梨乃。千秋楽まで、あと三ヶ月。……その最後のステージで、私たちはすべてを明かす。……世界中が、腰を抜かすような『真実』をね」
「あはっ、楽しみだね、美玖先輩。……全人類を、私たちの愛で『絶望』させてあげようね♡」
二人は、車内の暗がりで深く指を絡ませた。
自分たちがこれから向かう場所が「ロスの嵐」ではなく「全人類からのスタンディングオベーション」であることを知らないまま。
秘密の恋は、いよいよ「公式」へと姿を変える準備を始めた。
隠蔽という名の、最高に甘くて不器用な聖戦。
千秋楽、国立スタジアム。
そこが、世界で一番幸せな「答え合わせ」の場所になることを、彼女たちはまだ知らない。
「……梨乃。引退したら、何をしましょうか」
「まずは、二人で新しいお家を選ぼうよ。……誰にもバレないように、完璧な変装をしてね♡」
「ええ。……それが、私たちの新しい『ビジネス』ね」
窓の外を流れる夜景は、いつになく輝いて見えた。




