第20話 終わりの始まり、最高の隠蔽を求めて
五周年記念コンサートの熱狂から一夜明けた、午前四時。
都心の高級マンション、その広すぎるリビングの窓からは、薄紫色の夜明けが街を飲み込んでいくのが見えた。
桐島美玖は、ソファに深く身体を沈め、自分の左手薬指で鈍く光るプラチナの輪を、うっとりと見つめていた。
指先でなぞれば、刻印された互いのイニシャルが指先に触れる。
「……ふふ。完璧だわ。完璧すぎるわ、梨乃」
独り言が、静かな部屋に溶ける。
昨夜、五万人の観衆の前で行った「指輪の交換」。
世界トレンド一位を独占し、全人類を「みくりの尊い」という狂乱に叩き込んだあの「演出」。
(ファンもスタッフも、あれを『五周年を記念した究極のファンサービス』だと思い込んでいる。……まさか、あれが本物の愛の誓いだったなんて、誰一人として気づいていない。これこそが、アイドル史に残る最高難度の隠蔽工作……!)
美玖は、自らの知略に陶酔していた。
隠せば隠すほど、人々は「もっと見せろ」と飢える。ならば、あえてすべてをさらけ出し、それを「営業」というラベルで定義してしまえばいい。
そうすれば、どれほど深く愛し合おうとも、世間はそれを「最高のビジネス」だと称賛してくれる。
「……でも」
美玖の指先が、わずかに震えた。
「このまま一生、嘘をつき続けることは……梨乃にとって、本当に幸せなのかしら」
氷の姫の仮面の下にある、二十一歳の本音が漏れ出す。
アイドルである限り、自分たちは「みんなの偶像」でなければならない。
どれほど愛し合っていても、公式には「独身」を貫き、仮想の恋を提供し続けなければならない。
(……私は、梨乃と、本物の家族になりたい)
その思いが、プロとしての矜持を上回ろうとしていた。
***
数時間後。事務所の打ち合わせスペース。
そこには、昨夜の興奮で目が血走ったスタッフたちと、相変わらず胃のあたりをさすっているマネージャー、佐々木恵がいた。
「昨夜の指輪交換の反響、過去最大級よ。新曲の予約もパンク状態。社長も『これでもう十年は安泰だ』って、朝からシャンパンを開けていたわ」
佐々木は、感情の死んだ声で報告した。
彼女の手元の資料には、ファンの熱狂的なコメントが並んでいる。
『【伝説】あの指輪、小道具じゃなくて本物だったってマ?』
『美玖様のあの時の「一生私のもの」って囁き、読唇術で解析したらガチすぎて震えた』
『ビジネスを極めると、本物よりも真実味が出るんだな……』
佐々木は、空になった胃薬の袋を握りつぶした。
「(……演出素材? 真実味? ……バカ言わないで。あれ、ただの私情よ。ガチのプロポーズなのよ。事務所に黙って区役所に婚姻届を出しに行く途中のイベントに過ぎないのよ……)」
佐々木は、目の前で「完璧なビジネスパートナー」の顔をして座っている美玖と梨乃を睨みつけた。
「それで? これからのプロモーションだけど、社長は『みくりの新婚旅行ツアー』とかいう、ふざけた企画をぶち上げてきたわ。……二人とも、どうする?」
梨乃が、目を輝かせて美玖を見た。
「新婚旅行! いいなぁ! 美玖先輩、私たち、もっともっと営業を頑張らなきゃですねっ♡」
梨乃のその言葉に、美玖は、静かに首を振った。
「……いいえ、梨乃。私は、もう……『営業』は、十分だと思っているわ」
室内が、凍りついた。
梨乃の笑顔が固まり、佐々木が胃薬を飲む手を止めた。
「み、美玖先輩……? それって、どういう……?」
「恵さん。……事務所に、そしてファンの皆さんに、お伝えしたいことがあるの。……私たち『みくりの』は、次回のワールドツアーの千秋楽をもって――」
美玖は、一呼吸置き、かつてないほど気高く、かつてないほど優しい声で言った。
「――アイドルを、引退します」
ガシャン、と佐々木のティーカップが床に落ちた。
***
「……な、なんてことを言い出すのよ、桐島さん!!」
スタッフたちが慌てて退室した後の密室で、佐々木が絶叫した。
「今が絶頂期なのよ!? 世界中があなたたちに跪いているのよ!? 引退なんてしたら、経済損失がどれくらいになると思ってるの!?」
「経済なんて、私には関係ありません。……恵さん。私は、桐島美玖として、一人の女性として、早乙女梨乃を幸せにしたい」
「だ、だったら!」
「同時に、梨乃と二人、静かに暮らしたい。誰にはばかることなく、誰にも偽ることなく。……これが私、桐島美玖の幸せなんです」
美玖の目は、冗談を言っているようには見えなかった。
「……この五年間、私たちは完璧に隠し通してきました。……でも、アイドルという光の中にいる限り、梨乃を『私の妻』として世界に誇ることはできない。……だから、私はアイドルをやめます」
佐々木は、目を見開いたまま、美玖を見つめた。
「(……隠し通してきた? 完璧に? ……宇宙規模の勘違いを、この期に及んでまだ続けているの!? 世界中が『結婚おめでとう』って言ってるこの状況で、なぜ『静かに暮らすために引退する』なんていう悲劇のヒロインみたいな決断になるのよ……!)」
佐々木は、込み上げてくるツッコミを必死で胃の奥に押し込んだ。
だが、美玖の瞳に宿る、梨乃への深すぎる愛――その純粋さだけは、否定できなかった。
「……本気なのね」
「ええ。……引退コンサートで、私たちはすべてを明かします。……私たちが本当の恋人同士であったことを。……そして、それを隠し通してきたことをファンに謝罪して……最高のサプライズを贈るのです。……素敵だと思いませんか?」
美玖は、恍惚とした表情で語った。
彼女の中では、「引退と同時に公表する」ことが、ファンへの最大のプレゼントであり、自分たちの愛を「永遠に隠蔽された聖域」へと昇華させる唯一の方法なのだ。
佐々木は、深いため息をついた。
そして、胸元から予備の胃薬を取り出し、飲み干した。
「……恵さん?」
「……分かったわ。そこまで言うなら、事務所は全力で『最高の幕引き』を用意する。……ただし、桐島さん。いいえ、美玖。一つだけ言わせて」
佐々木は、慈愛に満ちた、でも少しだけ呆れた目で言った。
「……幸せになりなさい、二人で。……これからは、もう『隠す』必要なんてないんだから」
「……ありがとう、恵さん。……でも、私たちはプロですから。……最後の瞬間まで、完璧に『秘密』を守り抜いてみせますわ」
美玖は、どこまでも自信満々に微笑んだ。
***
佐々木が去った後、楽屋には二人だけが残された。
「……美玖。本当に、いいの?」
梨乃が、不安そうに美玖の服の裾を掴んだ。
「梨乃。……あなたは、後悔するかしら」
「ううん。全然! ……私、美玖と一緒にいられるなら、アイドルじゃなくなっても、何だっていいよ。……ただ、ファンのみんなが、びっくりしちゃうかなって」
「いいのよ。……みんな、私たちのことを『最高のビジネスパートナー』だと信じている。……その信頼を、最後に心地よく裏切ってあげるのが、私たちの最後のお仕事よ」
美玖は、梨乃の腰を引き寄せ、その額に優しく唇を寄せた。
「……最高の最後を、見せてあげましょう。……引退という名の、完全なる逃避行を」
「あははっ! さすが美玖先輩。……世界一の嘘つきで、世界一の旦那様だねっ♡」
彼女は、自分たちがこれから行う「カミングアウト」が、世界中から「やっと言ったか!」「知ってたわ!」と爆笑と祝福で迎えられることなど、微塵も想像していなかった。
彼女たちにとって、これは世界を相手取った最後の、そして最大の「秘密の共有」なのだ。
(ああ、梨乃。……引退したら、毎日あなたと手を繋いで、サングラスもかけずに外を歩けるわ。……その時、人々は『あのみくりのが、プライベートでも仲良くしている! 完璧なビジネスの継続だ!』と驚くでしょうね)
美玖の勘違いは、もはや神の領域に達していた。
***
その後。
事務所の社長室では、響社長が「引退コンサート」のプロットを読み、鼻血を出して倒れていた。
「……これだ! これだよ! 『最後の告白』という名の演出! 全ファンが涙し、納得し、そして『これからも二人を見守ろう』と誓う、究極のエンディングだ! ……よし、結婚式会場は、スタジアムの真ん中でいいな!?」
社長の「隠蔽(という名の全面公認)」作戦もまた、美玖たちの想像を遥かに超えるスピードで進行していた。
一方、SNSでは。
「みくりの、重大発表か?」という予感めいた噂が駆け巡っていた。
『昨日のみくりのの顔、あれは「成し遂げた」者の顔だよ』
『もうアイドルを超えて、概念になろうとしてるよね』
『引退してもいいから、結婚式だけは生中継してくれ。投げ銭で国宝を建てるから』
『#みくりの結婚 #というかもはや神話の始まり』
ファンたちは、絶望するどころか、来るべき「答え合わせ」の瞬間に向けて、銘々が全力で準備を始めていた。
誰もが知っている真実。
誰もが守りたい秘密。
そして、自分たちだけが隠せていると信じている、愛しき嘘つきたち。
終わりの始まり。
それは、世界で一番甘くて、世界で一番バレバレな、祝福のカウントダウンだった。
「梨乃……愛してるわ。……世界がひっくり返るような『秘密』を、届けましょう」
「うん! 私たちの愛で、全人類を驚かせちゃおうね、美玖先輩!」
楽屋から漏れる、糖度過剰な誓いの言葉。
二人の最後にして最大の隠蔽作戦が、今、静かに幕を開けた。
次回。
物語は、全人類への「重大発表」へと突き進む。




