第2話 #みくりの結婚しろ(※本人たちは秘密のつもり)
※この物語の秘密は、本人たちだけが秘密だと思っています。
深夜、静まり返った都内の高級マンションの一室。
桐島美玖は、キングサイズのベッドの上で一人、スマートフォンの画面と格闘していた。
ふわり、と寝返りを打つと、シーツから微かに甘い香りがした。今日のライブ後、楽屋で抱き着いてきた梨乃の残り香だ。それだけで胸の奥がキュンと疼き、美玖は思わず枕に顔を埋める。
「……梨乃。会いたい……。さっき別れたばかりなのに、もう足りないわ」
クールで知られる『氷の姫』の面影は、この部屋には微塵も存在しない。
しかし、彼女はプロだ。寂しさに身を任せて、夜中に恋人へ電話をかけるような無軌道な真似はしない。代わりに彼女がすべきことは、アイドルとしての「完璧な虚像」を維持するための、日々の情報発信である。
「よし。今日の投稿はこれね」
美玖が選んだのは、先ほど撮ったばかりの自撮り写真だった。
お気に入りのハーブティーを片手に、少しだけ物憂げな表情でカメラを見つめる一枚。メイクは落としているが、肌の透明感は損なわれていない。まさに「一人の夜を静かに楽しむ、気高き聖女」そのもののビジュアルだ。
(完璧だわ。背景には梨乃の荷物も写っていないし、照明の反射も計算済み。これならファンのみんなは、私がストイックに自分を磨いていると信じるはず。梨乃との関係を疑う余地なんて、一ミリも無いはずよ)
美玖は自信満々に、短いテキストを添えて投稿ボタンを押した。
>『ライブお疲れ様。余韻がまだ胸に残っているわ。今夜はハーブティーで整えて、明日に備えます。みんなもよく眠ってね。おやすみなさい。#みくりの #感謝』
投稿完了。
美玖は満足げに溜息をつき、スマホを枕元に置いた。
だが、彼女は知らなかった。
そのわずか数秒後、SNSという名の戦場では、ある「異常事態」が観測されていたことを。
***
深夜のSNS。アイドルの投稿を監視……もとい、温かく見守るファンのタイムラインに激震が走った。
【悲報】美玖様の自撮り、確定演出が写り込む。
『ねえ、みんな。美玖様のハーブティーのカップを見て……。これ、先週の梨乃ちゃんの生配信で後ろに置いてあった「限定版リスさんマグカップ」じゃない?』
『それだけじゃない。美玖様の瞳に映ってるスマホ……ケースの色、梨乃ちゃんの私物と同じビビットピンクなんだけど』
『ちょwww待てwww背景のソファに、梨乃ちゃんがよく着てるブランドのパーカーが半分埋まってないか?』
『結論:美玖様の部屋に梨乃ちゃんがいる。あるいは住んでいる。あるいは今さっきまでいた』
瞬く間に拡散される「検証画像」。
ファンたちは阿鼻叫喚……などせず、むしろ熟練の観測者の如き手つきで、それらの証拠を「尊い供物」として愛で始めた。
『はい、みくりの。今日も安定のみくりの。』
『本人たちは必死に「一人ですよ」感を演出してるのがまた愛おしい。』
『もはやこれは隠蔽工作じゃなくて、俺たちへの挑戦状だろ。』
『#みくりの結婚しろ』
トレンドにそのハッシュタグが躍り出た瞬間、一人の女性が絶叫した。
***
「……ぎっ、ぎにっ、胃が……っ!」
事務所のマネージャー、佐々木恵は、自宅のソファでのたうち回っていた。
深夜の通知音。何事かと思えば、担当アイドルの「失態」が世界中に晒されているではないか。
「桐島さん……! あれほど私物は写すなって言ったのに! 梨乃のパーカーがソファの隙間から『こんにちは』してるじゃないのよ……!」
佐々木は震える手で胃薬を飲み下し、即座に美玖へメッセージを送ろうとした。
だが、その指が止まる。
今ここで「バレてるわよ」と教えれば、美玖はパニックになり、さらに不自然な釈明をして傷口を広げるだろう。彼女の性格上、「嘘が下手なのを自覚していない」のが一番のネックなのだ。
その時だった。
もう一人の当事者、早乙女梨乃のアカウントが動いた。
『みく姉の投稿見た? お揃いのマグカップ使ってくれてて嬉しいなぉ♡ この前、私の部屋に遊びに来た時に間違えて持って帰っちゃったやつだ! お返しに行くから、また泊まらせてね、みく姉っ♡ #ビジネスパートナー #仲良し』
佐々木は目を見開いた。
「……梨乃っ、あんたって子は……!」
爆発によって生じる衝撃波で炎を吹き飛ばし、同時に周囲の酸素を一時的に押しのけることで燃焼を止めることを「爆風消火」という。
梨乃の天才的な「火消し」はまさにそれだった。
あえて自分から「間違えて持っていった」というエピソードを提示し、さらに「ビジネスパートナー」というタグを付けることで、すべての「ガチ要素」を「仲の良い営業用エピソード」へと強制的に上書き(?)したのだ。
SNSの反応は、一瞬で変わる。
『梨乃ちゃん、ナイスフォローwww』
『「間違えて持っていった」wwwどんな状況で間違えるんだよwww』
『ビジネスパートナー(意味深)。はいはい、ビジネスビジネス。』
『公式が今日も燃料投下。ごちそうさまです。』
ファンたちは、梨乃の「嘘」を「高度なサービス」として受け入れ、ニヤニヤしながらそれを楽しむ方向にシフトした。スキャンダルという火種は、梨乃の手によって「良質なエンターテインメント」へと昇華されたのだ。
「……梨乃、あんたは全部分かってるのよね。自分がフォローしないと、美玖さんがボロを出すって。そして、ファンも全部わかってる。わかってて、二人を傷つけないように、その『嘘』に乗っかってあげてる……」
佐々木は深い溜息をつき、ソファに沈み込んだ。
「この世界、優しすぎない?」
唯一、事情を知らない……というか、自分の「完璧な隠蔽」が成功したと信じ込んでいるのが、張本人の桐島美玖だけであるという事実を除いては。
***
翌朝、仕事に向かう移動車の中。
美玖はスマホを確認し、ふふっ、と優雅に微笑んだ。
「梨乃、昨日のあなたの投稿、助かったわ。あなたが上手く『営業』としてフォローしてくれたおかげで、私のミスが帳消しになったわね」
「えへへ、そうでしょ? みく姉がうっかりさんだから、私がしっかりしなきゃって思って♡」
梨乃は隣に座る美玖の肩に頭を乗せ、甘えた声を出す。
車内には、当然のように佐々木マネージャーも同乗しているのだが、二人は「完全に隠せている」と思い込んでいるため、ブランケットの下でこっそり手を繋いでいた。
「ええ。あなたの機転のおかげで、ファンのみんなも『あ、これはビジネスなんだな』って納得したみたい。トレンドに私の名前が入っていたけれど、不名誉な内容じゃなくて安心したわ」
「うんうん! みんな、私たちのこと『最高のビジネスパートナー』だと思ってるよ、絶対!」
美玖は満足げに頷き、窓の外を流れる景色を見つめた。
(やっぱり、梨乃は私の運命のパートナーだわ。こんなに息が合うんですもの。私たちの完璧な隠蔽工作を破れる者なんて、この世に一人もいない……!)
そんな美玖の横顔を見ながら、梨乃は心の内で舌を出した。
(みく姉、本当に可愛いなぁ。私がわざとパーカーを置いていったことも、マグカップをすり替えたことも、全部気づいてないんだもん。それに、ファンのみんなが「知ってた」って顔でリプライしてくるのも、きっとみく姉には見えてないんだろうな……)
二人の空気は、どこまでも甘く、糖分が飽和している。
その背後で、佐々木マネージャーが「……ううっ」と小さく呻きながら胃薬を噛み砕く音が聞こえたが、幸せの絶頂にいる二人の耳には、一毫も届くことはなかった。
今日もトップアイドル二人は、世界中の「観測者」たちに温かく守られながら、完璧(だと思い込んでいる)な秘密の恋を続けていく。
「ねえ、梨乃。今夜は私の部屋で、『ビジネス会議』をしましょうか?」
「あはっ、いいね! 徹夜でたっぷり、話し合おうね、美玖先輩♡」
二人の会話が車内の密閉空間に溶けていく。
その「会議」の内容が、決して仕事の話ではないことを、車内の全員……いや、世界中のファンが確信していた。
#みくりの結婚しろ。
その願いが叶うのは、まだ少しだけ、先の話。
なお、この件で一番ダメージを受けたのは、マネージャーである。
第3話は本日18:30公開




