第16話 情熱のパリ、鍵をかけ忘れた夜
石畳の街路に、歴史の重みを感じさせるオレンジ色の街灯が灯り始める。
エッフェル塔が黄金色に輝き、セーヌ川の川面にその光を溶かしている。
花の都、パリ。
初の海外単独ライブを大成功に収めた『みくりの』の二人は、その夜、最高級ホテルのスイートルームにいた。
「……ふぅ。信じられないわ、梨乃。パリの人たちまで、あんなに熱狂的に私たちを迎え入れてくれるなんて」
桐島美玖は、バルコニーの欄干に手をかけ、夜風に吹かれながら呟いた。
ドレスから着替えた、ゆったりとしたシルクの寝衣。
異国の開放感のせいか、その表情には普段の『氷の姫』らしい鋭さはなく、どこか夢見心地な柔らかさが漂っている。
「本当だね、美玖先輩! 言葉は違っても、みんな『みくりのはガチ』って叫んでたよぉ♡」
「……えっ? そうなの? 私の聞き間違いじゃなくて?」
「あはは、きっとそうだよ! 『私たちの絆は本物だ』って意味だよ、きっと。やっぱり、私たちの完璧なビジネスとしての愛は、国境を越えるんだねっ!」
梨乃が美玖の隣に並び、その肩に頭を預ける。
パリの夜。
誰も自分たちの本当の関係を知らない(と信じている)異郷の地。
美玖の自制心という名の防壁は、エトランゼの解放感によって、驚くほど脆くなっていた。
「……ねえ、梨乃。ここなら、誰も見ていないわよね」
「うん。スタッフさんもみんな、打ち上げに行っちゃったし。恵さんも『胃が痛いから寝る』って言ってたよ?」
「……そう。……なら、いいのね」
美玖は、梨乃の腰に腕を回した。
引き寄せられた梨乃の体温が、夜風に冷えた美玖の身体を甘く焦がす。
美玖は、梨乃の耳元に唇を寄せ、誰にも聞かせたことのないような、蕩けるような囁きを落とした。
「……梨乃。……愛してるわ。……お仕事でも、ビジネスでもなく。……私だけの、梨乃」
「……っ、美玖……」
梨乃の瞳が、一瞬で熱を帯びる。
二人は、吸い寄せられるように唇を重ねた。
エッフェル塔の輝きを背景にした、完璧すぎるラブシーン。
だが、二人は完全に失念していた。
興奮のあまり、バルコニーへ繋がる重厚な扉を、わずかに開けたままにしていたことを。
そして、その背後にある客室のメインドアもまた――オートロックが作動する寸前で、美玖の脱ぎ捨てたハイヒールが挟まり、数センチの隙間を作ったままであったことを。
***
「……あ。すみませ……。桐島さん、忘れ物……っ」
マネージャーの佐々木恵は、美玖から預かっていたパスポートを届けに、スペアキー(という名の非常用特権)を使うまでもなく、わずかに開いていたドアを押し開けてしまった。
そして、彼女の視線の先に飛び込んできたのは。
月光に照らされたバルコニーで、この世の終わりかと思うほど情熱的に、むさぼるように唇を重ね合う、トップアイドル二人の姿。
美玖の手は、梨乃の寝衣の裾を掴んで引き寄せ、梨乃は美玖の首筋に指を絡め、恍惚とした表情を浮かべている。
「(…………あ)」
佐々木は、音もなく立ち尽くした。
手にしたパスポートが、床に落ちそうになるのを必死で耐える。
胃。
胃が、燃えている。
「(鍵……鍵をかけなさいよ、このお馬鹿さんたち……! ここ、五つ星ホテルなのよ! スタッフがワインを運んでくるかもしれないでしょうが……!)」
佐々木は、今すぐ叫び出したい衝動を抑え込み、忍者のような足取りで部屋を退散した。
ドアを、今度はしっかりと、音を立てずに閉める。
廊下の冷たい空気を吸い込み、彼女は震える手で胃薬を三錠、水なしで飲み込んだ。
「(……もう無理。パリまで来て、私は何を観測させられているの。……しかも、バルコニーの角度! 向かいのビルから誰か見てたらどうするのよ……!)」
佐々木は慌ててスマホを取り出し、現地のSNSをチェックした。
案の定、フランスの『観測者』たちのネットワークは、既に異常な熱気を帯びていた。
『【C'est la vie】エッフェル塔の近くのホテル、最上階のバルコニーに天使と姫が降臨』
『不鮮明だけど、あれ、絶対にキスしてるよね? フランス流の挨拶にしては濃厚すぎる。最高。』
『みくりの、パリの夜に散る。もはや公式発表なしでも「結婚」で辞書登録した。』
『Miku et Rino, je les kiffe trop, c’est sérieux.(みくとりのマジで好き、レベルが違う。)』
『Miku et Rino, c’est du love hardcore ! (みくりのはマジ恋)』
『#MikuRinoParis #Mariage』
佐々木は、天を仰いだ。
「(フランス人……! あなたたち、粋すぎるのよ……! 『愛の街だから当然ね』みたいな顔で、なぜ誰も通報もせずに祝福のリポストばかりしてるのよ……!)」
佐々木は、もはやスキャンダルという概念が、この二人に関しては「祝福されるべき神話」に変換されている現実に絶望した。
***
翌朝。ホテルのカフェテラス。
美玖は、何事もなかったかのように大きなサングラスをかけ、優雅にクロワッサンを口に運んでいた。
「恵さん。おはようございます。……昨夜はぐっすり眠れたわ。パリの空気は、私たちの『ビジネス』にとても良い刺激を与えてくれるわね」
「……そう。それは良かったわね、桐島さん。……刺激が強すぎて、心臓が止まらなかったかしら?」
「ええ。プロとして、常に高揚感を保つことが重要よ。……梨乃、あなたもそう思うでしょう?」
美玖が、隣でカフェオレを飲む梨乃に視線を送る。
梨乃は、少しだけ赤い唇をペロリと舐め、悪戯っぽく微笑んだ。
「うん! 昨夜の『反省会』は、過去最高に充実してたよね、美玖先輩っ♡」
「ええ。完璧な隠密作戦だったわ。……誰にも見られず、異国の夜を満喫できた。これこそ、トップアイドルの真髄ね」
美玖は、満足げに鼻を鳴らした。
佐々木は、目の前の二人の「完璧な隠蔽」という名の完全な露出を前に、もはや胃を通り越して精神が悟りの境地に達していた。
「……いい、二人とも。今日の午後は自由時間だけど……。……頼むから、人目のある場所で『フランス流の挨拶』は禁止よ。わかった?」
「……? 恵さん、何のことかしら。私たちは常に、清廉潔白なビジネスパートナーとして振舞っているわ。……ねえ、梨乃」
「そうだよぉ、恵さん。心配しすぎ! 私たちは完璧に隠せてるもん!」
二人は、堂々と手を繋いで、カフェテラスからパリの街へと消えていった。
その背中を見送りながら、佐々木は現地のファンから送られてきた一枚の画像を開いた。
それは、昨夜のバルコニー。
エッフェル塔の光を背負い、映画の一場面のように美しく重なり合う二人のシルエット。
画像の下には、一言こう添えられていた。
『Merci, MikuRino.(ありがとう、みくりの)』
「(…………メルシー、じゃないわよ。……誰か、私の胃に新しい壁を作って……)」
佐々木恵は、三杯目のエスプレッソを飲み干し、二人の「完璧な秘密」が世界中で最も有名な「愛の伝説」へと書き換えられていくのを、ただ無力に見守るしかなかった。
情熱のパリ。
鍵をかけ忘れたのは、ドアではなく、彼女たちの剥き出しの心そのものだったのだ。




