第13話 密室看病、隠しきれない独占欲
深夜のダンススタジオ。
空調の音だけが低く響く空間で、新曲の激しいリハーサルが続いていた。
「――はい、そこまで! 五分休憩!」
振付師の声が響いた瞬間、桐島美玖は即座に呼吸を整え、氷の姫らしい凛とした佇まいでタオルを手に取った。
だが、その瞳は鏡越しに、隣で肩を激しく上下させている早乙女梨乃を捉えて離さない。
(……おかしいわ。梨乃のステップが、後半からわずかに乱れていた。普段ならありえないミスよ。それに、あの顔色……)
美玖は内心で激しく動揺していた。
だが、ここはスタッフも他のダンサーもいる現場だ。不用意に駆け寄れば「ビジネスパートナー」の範疇を超えてしまう。美玖は鉄の意志でポーカーフェイスを維持し、優雅な足取りで梨乃に近づいた。
「梨乃。……少し、動きが硬いようね。プロとして、体調管理も仕事のうちよ」
「……あ、えへへ。ごめんなさい、美玖先輩……。ちょっと、気合が入りすぎちゃったかなぁ……っ」
梨乃が無理に笑おうとするが、その大きな瞳は潤み、頬は不自然なほど赤く上気している。
ふらりと梨乃の身体が揺れた。
「――梨乃!?」
美玖は反射的に、倒れそうになった梨乃の身体を抱き止めた。
腕の中に伝わってくる、驚くほどの熱。
「……熱い。あなた、ひどい熱じゃない!」
「大丈夫……ですよぉ……。あと、一回、通せば……」
梨乃の声は弱々しく、意識が朦朧としているのが見て取れた。
美玖の「氷の姫」という仮面が、音を立てて砕け散る。
「スタッフ! 誰か、すぐに氷嚢と体温計を! リハーサルは中止よ! 梨乃に何かあったらどうするの!? 私の……私の梨乃に!!」
美玖の絶叫がスタジオに響き渡った。
周囲のスタッフは一瞬呆気にとられたが、即座に「お、おう、パートナー愛だな!」という空気を察して動き出す。
その光景を、スタジオの隅で見ていたマネージャーの佐々木恵は、静かに胃薬を二錠、口に放り込んだ。
「(……美玖さん。今、はっきり『私の』って言ったわね。しかも声のボリュームが最大級だったわよ。隠す気が一ミリも感じられないんだけど……)」
佐々木は溜息をつき、パニック状態の美玖に歩み寄った。
「桐島さん、落ち着きなさい。……奥の救護室へ運びましょう。今日はもう解散よ」
「恵さん! 私も行きます! 私が看病します!」
「……ええ、そう言うと思ったわ。……二人きりになれるように、スタッフには私が指示を出しておくから」
佐々木の「配慮」という名の公認。
だが、美玖はそれに気づく余裕もなく、梨乃を抱きかかえるようにして救護室へと急いだ。
***
救護室のベッドに、梨乃を横たえる。
美玖は震える手で梨乃の額に冷たいタオルを当てた。
「……っ、梨乃。ごめんなさい。私がもっと早く気づいていれば……」
美玖は梨乃の手をぎゅっと握りしめ、ベッドの横に座り込んだ。
今は誰もいない。鍵も(佐々木が気を利かせて)閉まっている。
美玖は、溢れ出しそうな独占欲と心配を隠す必要がなかった。
「……んん……、みく、ねえ……?」
熱にうなされる梨乃が、うっすらと目を開けた。
その瞳は焦点が合っていないが、美玖の姿を捉えた瞬間に、安心したように細められた。
「梨乃! 気分はどう? 何か飲みたいものは?」
「……みく姉の、手が……つめたくて、きもちいい……。……ずっと、そばにいて……」
「ええ、いるわ。ずっとここにいるわ。……バカね。あんなに無理をして。……もしあなたに何かあったら、私はもうアイドルなんて続けられないわ……」
美玖は、梨乃の指先を愛おしそうに自分の頬に寄せた。
普段のクールな美玖からは想像もつかない、甘やかで、切実な声。
だが、熱のせいで梨乃のブレーキは完全に壊れていた。
「……ねえ、みく姉……。……すき。だいすき……。……お仕事なんて、もう、いいよ。……私、みく姉の『奥さん』に、なりたい……」
美玖の心臓が、ドクンと跳ね上がった。
あまりにも直球な、あまりにも純粋な愛の告白。
しかも、ここはまだ仕事場だ。
「り、梨乃! なんてことを……っ。……でも、ええ。私もよ。私も、あなたを誰にも渡したくない。……一生、私の隣で笑っていてほしい」
美玖は、梨乃の額にそっと唇を寄せた。
看病という名目の、深い求愛の儀式。
その時だった。
「……失礼します。体温計を持っ……」
ドアがわずかに開き、空気を読めない新人スタッフ、佐藤くんが顔を出した。
佐々木が「入るな」と言い含めていたはずなのだが、佐藤くんの「純粋な心配」が、マネージャーの防波堤を突破してしまったらしい。
佐藤くんの目に映ったのは――。
後輩の額に愛おしそうに口づけし、その手を恋人繋ぎで握りしめながら、「一生、私の隣にいて」と囁く、氷の姫の崩れ落ちた姿。
「…………えっ?」
佐藤くんの時が止まる。
美玖は、電撃に打たれたように梨乃から飛び離れた。
「――ち、違うのよ! これは、その……高度な冷却法よ!」
美玖は、真っ赤な顔で意味不明な叫びをあげた。
「冷却法……ですか?」
「え、ええ! 額の熱を、私の……その、唇の冷気で吸収して、体外に放出するという……アイドルの伝統的な応急処置よ! あまりの高度な技術に、驚くのも無理はないわ!」
「わあ……! 唇で吸熱するなんて、美玖さん、まるで聖者みたいです! 僕、ますます尊敬しました!」
佐藤くんが、キラキラとした瞳でメモを取り始める。
美玖は、再び罪悪感と羞恥心で死にたくなったが、今は『隠蔽』が最優先だ。
「そ、そうでしょう? これはあくまで『ビジネス』としてのケアよ。……梨乃を早く復帰させるための、合理的な判断だわ。……わかったら、あなたはもう行きなさい」
「はい! 邪魔してすみませんでした!」
佐藤くんは深々と頭を下げて退出した。
救護室に再び静寂が訪れる。
美玖は、魂が抜けたような顔で椅子に座り込んだ。
「(……終わった。今の言い訳は、さすがに無理があったわ。……でも、佐藤くんは信じてくれたみたいだし。……完璧だわ。私たちは、今日も完璧に隠し通したわ……)」
美玖は、自分を無理やり納得させて、再び梨乃の手を握った。
だが、梨乃は熱のせいで、さらにとんでもない追い打ちをかけてきた。
「……みく、ねえ……。……けっこん、しよ……? ……披露宴は、ドームがいいな……♡」
「――り、梨乃ぉ!! 声が大きいわ!!」
美玖は慌てて梨乃の口を塞いだが、既に手遅れだった。
***
救護室のドアの外。
そこには、佐藤くんを回収しに来た佐々木マネージャーと、数人のベテランスタッフが立ち尽くしていた。
「……佐藤くん。今の、聞いた?」
佐々木が、感情の死んだ声で尋ねる。
「はい! 梨乃さん、熱で『結婚』という名のビジネスプランを提案してました! ドームでのイベント企画なんて、病気の間も仕事のことを考えてるなんて、プロの鑑ですね!」
「…………そう。そうね。……ええ、そう解釈しましょう。……そうじゃないと、私の胃に穴が五つくらい増えるわ」
佐々木は、震える手で新品の胃薬の箱を開けた。
その背後で、スタッフたちがヒソヒソと話し合う。
「ドームで披露宴……。チケット代、いくらまでなら出せる?」
「ご祝儀込みで五万までは出すぞ。……いや、十万だな」
「引き出物は、二人の生写真か? 最高だな……」
スタッフたちの間では、既に「二人の結婚式」という名の新プロジェクトが、暗黙の了解として動き始めていた。
佐々木は、天を仰いで呟いた。
「(……もう、誰も隠そうとしてないじゃない。……美玖さんが必死に『吸熱冷却』なんて言ってる横で、みんなお祝儀の金額相談してるのよ……。これが『完璧な隠蔽』だなんて、どの口が言うのよ……)」
佐々木のスマホには、既にファンコミュニティからの情報が届いていた。
『【速報】梨乃ちゃん、リハ中に倒れる。美玖様が姫抱きで救護室へ』
『救護室の鍵が閉まった。これは「看病」という名の「聖戦」だ』
『「冷却法」という名のキスが執り行われた模様(ソースは俺の妄想)』
『#みくりの結婚しろ #というかもはや看病婚』
ファンの考察班は、佐藤くんよりも遥かに鋭い精度で、救護室内の出来事を予測し、お祭り騒ぎになっていた。
***
数時間後。熱が少し下がり、落ち着いた梨乃が目を覚ます。
「……あ。みく姉。……私、変なこと言わなかった?」
少し正気を取り戻した梨乃が、不安そうに尋ねる。
美玖は、凛とした表情で(顔はまだ少し赤いまま)、優雅に紅茶を啜りながら答えた。
「ええ。何も問題なかったわ。……あなたは、私と一緒にドームを制覇するという『ビジネスプラン』を熱心に語っていただけよ。……佐藤くんも、感心していたわ」
「ビジネスプラン……? あ、あはは。……そっか。よかった、バレてないんだねっ♡」
梨乃は、胸を撫で下ろして美玖の腕に抱きついた。
二人は、自分たちの絆がまた一段と深まったことを喜び合い、同時に「今回も完璧に隠し通した」という全能感に酔いしれていた。
その救護室を出る際、廊下に並んでいたスタッフ全員が、二人に深々と頭を下げた。
「お疲れ様でした! ……披露宴、楽しみにしてます!(小声)」
「ええ。……次回の『ドーム公演』のことね? 任せておきなさい、プロとして最高のステージを見せるわ!」
美玖は、誇らしげに胸を張って答えた。
「披露宴」と「公演」という単語の致命的な食い違いに、彼女が気づくことはない。
隠しきれない独占欲は、熱に浮かされてさらに加速し、周囲の「知ってた」という確信を盤石なものにしていく。
「ねえ、みく姉。……本当に、ドームでやってくれる?」
「……ええ。あなたが望むなら、世界で一番豪華な『ビジネス・イベント』を用意してあげるわ」
二人の秘密は、今日もこうして、公然の事実という名のベールに包まれ、糖度を増し続けていく。
佐々木マネージャーの胃袋の平穏が訪れる日は、まだ、遥か彼方であった。
次回、普通じゃない日常。明日18:30。




