第10話 絶体絶命! 社長室の審判
社長室。
事務所の最上階。重厚なマホガニーの扉が、死刑台への入り口のように美玖と梨乃の前に立ちはだかっていた。
普段なら輝かしい栄光の報告に訪れる場所だが、今日の空気は鉛のように重い。
「……梨乃。準備はいいかしら」
美玖の声は、かつてないほど低く、震えていた。
その指先は氷のように冷たい。誕生日の楽屋での一件、そして相次ぐSNSでの『特定』。ついに事務所のトップである響社長から「二人だけで話がある」と呼び出しを食らったのだ。
「……うん。美玖先輩。何があっても、私は先輩の味方だから」
梨乃もまた、いつもの『天使』の微笑みを封印し、悲壮な決意を瞳に宿している。
二人は、誰にも見えない位置で、最後になるかもしれない指を絡めた。
(バレた。間違いなく、バレたわ。クビを宣告されるか、あるいは強制的にユニットを解散させられるか……。でも、私は後悔していない。梨乃を愛したことは、アイドルとしての私の唯一の『真実』だから)
美玖は覚悟を決め、扉をノックした。
***
社長室の中は、異様な静寂に包まれていた。
巨大なデスクの向こう側に座る響社長は、鋭い眼光を二人に向けている。その傍らには、既に魂が半分抜けたような顔をしたマネージャーの佐々木恵が、胃薬の袋を握りしめて立っていた。
「……座りなさい、二人とも」
社長の短い、重みのある言葉。
美玖と梨乃は、針のむしろに座るような心地でソファに腰を下ろした。
「さて。呼び出した理由は分かっているね?」
響社長が、机の上に一束の資料を叩きつけた。
それは、ここ数ヶ月のSNSでのトレンド、隠し撮りされた疑惑の写真、そしてネット上の『みくりのガチ恋検証まとめサイト』をプリントアウトしたものだった。
美玖は、心臓の鼓動が耳元で鳴り響くのを感じた。
もう、誤魔化しは効かない。
彼女は深く息を吸い込み、立ち上がって深々と頭を下げた。
「社長……。申し訳ありません。全て……全て私の責任です。梨乃は、梨乃は何も悪くありません! 私が……私が彼女を誘い、強引に……!」
「ち、違うんです社長! 誘ったのは私です! 私が美玖先輩をたぶらかしたんです! だから、お仕置きするなら私だけにしてください!」
梨乃もまた、叫ぶように美玖を庇った。
二人の瞳には涙が浮かび、お互いの手を握りしめ、世界を敵に回す覚悟を露わにしている。
沈黙。
佐々木マネージャーが、見ていられないとばかりに顔を覆う。
響社長は、じっと二人を見つめ……やがて、深く、深いため息をついた。
「……素晴らしい。素晴らしいぞ、君たち!」
「…………えっ?」
美玖の思考が停止した。
顔を上げると、響社長が満面の笑みで拍手を送っていた。その瞳は、厳しい経営者のものではなく、獲物を見つけた狩人のような、あるいは――熱狂的なオタクのような輝きを放っている。
「今、この瞬間の『お互いを庇い合う、悲劇の恋人』の表情! 完璧だ! これこそ、私が求めていた『究極のリアリズム』だ!」
「あの……社長? おっしゃっている意味が……」
「美玖、梨乃。君たちの『百合営業』のクオリティは、もはや私の想像を遥かに超えている。SNSの検証班すらも味方につけ、あたかも『本当に付き合っているのではないか』と全世界に錯覚させるその演技力……。これぞトップアイドルの極みだ!」
美玖は、呆然と隣の梨乃を見た。
梨乃もまた、口を半開きにして社長を見つめている。
「君たちの戦略は見事だ。誕生日での『独占欲』の演出、ウェディング撮影での『本気の体温』。全て計算通りだったんだろう? おかげで『みくりの』の市場価値は以前の三倍に跳ね上がった!」
「せ、戦略……。計算……?」
美玖の口から、掠れた声が漏れる。
社長は興奮した様子で、デスクから一枚の企画書を取り出した。
「これを見ろ! 『みくりの』次期プロジェクトのコンセプトだ。タイトルは『Secret Wedding ―秘めたる真実の愛―』。ビジネス百合の枠を超え、あたかも『ガチである』ことを公然の事実として売り出す、前代未聞のコンセプトだ!」
美玖はその企画書を、震える手で受け取った。
そこには、これまで自分たちが必死に隠してきた『ガチ恋人』としての要素が、全て『最高の演出』として網羅されていた。
「社長……。つまり、私たちがこうして……その、深い関係に見えることは……」
「ああ! 最高だ!最高の宣材だよ! これからもどんどんやってくれ。楽屋の鍵を閉めるのもいい。カメラの前で耳打ちするのもいい。ファンが『これはガチだ……!』と確信するたびに、事務所の株価が上がるんだ!」
響社長は満足げに頷き、傍らの佐々木に向けた。
「佐々木、君も大変だろうが、彼女たちのこの『高度な芝居』をしっかりサポートしてやってくれ。いやあ、あんなに必死に庇い合うなんて、本気で騙されるところだったよ、ははは!」
「……はぁ。承知いたしました、社長。精一杯……彼女たちの『完璧な芝居』を、お守りいたします……」
佐々木は、もはや諦めの境地で胃薬を飲み下した。
***
社長室を出た後の、長い廊下。
美玖と梨乃は、しばらくの間、一言も発することができなかった。
窓の外には、都会の夕景が広がっている。
死刑判決を受けるつもりが、まさかの『国家予算レベルの支援』を約束されたのだ。
「……梨乃。どうやら、私たちの隠蔽工作は……あまりにも完璧すぎて、社長にすら『営業の最高傑作』だと思われてしまったみたいね」
美玖は、複雑な感情を押し殺し、震える声でそう言った。
安堵、混乱、そして――少しの空虚感。自分たちの本気の愛が、ビジネスの最高峰として評価されるという、皮肉な結末。
「あ、あはは……。そうだね、美玖先輩。社長まで騙せちゃったんだもん。やっぱり私たち、世界一のアイドルだよ」
梨乃が力なく笑う。
だが、その瞳には再び、悪戯っぽい光が宿り始めていた。
「でも、これってチャンスじゃない? だって、社長が『もっとやっていい』って言ったんだよ? これからは、堂々と……ビジネスのフリをして、本当のデートができちゃうねっ♡」
「……っ。あ、あなた、こんな時によくそんなことを……」
美玖は赤面しつつも、心の中では密かに納得していた。
隠せていると思い込みたい自分たちと、営業だと信じて疑わない社長。
この歪な構造がある限り、自分たちは最強の盾を手に入れたことになる。
「ええ。そうね。……社長の期待に応えるのが、プロの仕事だわ。これからも……完璧な『隠密営業』を続けましょうか」
「うん! 私たちの愛が、ビジネスを支配しちゃうくらい、もっともっと、糖度を上げちゃおうね、美玖ねえ!」
二人は、誰もいない廊下の影で、深く、長いキスを交わした。
それが『ビジネスとしての確認』などではないことを、今やこの事務所の誰もが、見て見ぬふりをして確信している。
***
二人が去った後の社長室。
響社長は、一人でパソコンの画面を見つめていた。
画面に映っているのは、非公開設定のウェブサイト『みくりのWiki ―公式には言えない真実の観測記録―』。
社長は、誰も見ていないところで、慣れた手つきで新しい記事を投稿し始めた。
【速報:第十話】社長室での密談を確認。二人は「クビ」を覚悟して互いを庇い合った。
その際、美玖の手の震えは12Hz。梨乃の心拍数は推定140。
これはビジネスでは不可能な、本物の「ガチ恋」特有の揺らぎである。
プロジェクト『Secret Wedding』は、彼女たちへの福利厚生としての結婚資金調達が真の目的である。
……みくりの、一生結婚しろ。
「……ふふ。いい芝居だったよ。本当に、いい芝居だった……」
響社長の眼鏡の奥で、純粋すぎる『観測者』の瞳が、多幸感に浸って細められた。
自分たちが「完璧に隠せている」と信じ込んでいる二人のアイドル。
それを「完璧な営業」だと思い込もうとしている、という『高度な芝居』をしている社長。
そして、その中心で一人、胃痛に耐えながら真実に立ち向かうマネージャー。
秘密の恋は、いよいよビジネスという名の大義名分を手に入れ、加速していく。
新曲『Secret Wedding』の制作開始。
それは、世界を巻き込んだ壮大な「勘違い」という名の、祝福の始まりに過ぎなかった。
「梨乃。次回の打ち合わせ……その後の予定は?」
「もちろん、美玖先輩。……誰にもバレないように、私の家で『反省会』だよ♡」
二人の声が、華やかな夜の街へと溶けていく。
隠蔽作戦、第1フェーズ。
結果――完全勝利(という名の完全公認)。
彼女たちの恋を遮るものは、もう、何一つ存在しなかった。
次回、新曲披露。明日18:30。




