第3話
夜会の喧騒は、まるで別世界の出来事のように遠ざかっていく。
わたくしはリアム様に手を引かれるまま、王城の裏口から待機していた簡素ながらも頑丈そうな馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると、外のざわめきは完全に遮断され、車内には静寂が訪れる。
向かいの席に腰を下ろしたリアム様が、御者に短い指示を出すと、馬車はすぐに石畳の上を滑り出した。
(これから、どうなってしまうのかしら……)
窓の外を流れる王都の景色は、もう二度と戻れない場所のように見えた。
公爵家、学園、そしてアルフォンス殿下。
わたくしがこれまで築き上げてきた全てが、音を立てて崩れ去っていく。
不安に唇を噛んでいると、不意にリアム様が口を開いた。
「クライン公爵令嬢。……いや、セレスティナ嬢。まずは、無理をさせたことを詫びる」
「……いいえ。わたくしは、リアム様に救っていただいたのですわ」
顔を上げると、彼の黒曜石の瞳が、車内のランプの光を受けて静かに揺れていた。
戦場を駆ける将軍の顔ではなく、一人の男性としての穏やかな表情。
「君の魔力については、以前から噂で聞いていた。だが、実際に間近で感じた力は、噂のような邪悪なものではなかった。ただ、あまりに純粋で、行き場をなくしているように見えた」
「……誰も、そんなことは言ってくれませんでしたわ。家族でさえ、わたくしの力を『忌まわしいもの』だと」
自嘲気味に呟くと、喉の奥がツンと痛んだ。
こらえなければ。
この方の前で、これ以上みっともない姿は見せられない。
「辺境は、王都とは何もかもが違う」
リアム様は、わたくしの内心を見透かしたように、静かに話題を変えた。
「冬は長く、厳しい。土地は痩せ、魔物も頻繁に現れる。だが、そこには王都の貴族社会のような、陰湿な駆け引きも、根拠のない噂話もない。人々は皆、互いに助け合い、己の力で明日を切り拓いている」
彼の言葉には、自らの領地と領民に対する深い誇りと愛情が滲んでいた。
「君の力は、そんな辺境の地でこそ、正しく活かされるはずだ。俺が保証する」
力強い、断言だった。
何の根拠もないはずなのに、彼の言葉には、不思議な説得力があった。
この人なら、本当に……。
そんな淡い期待が、凍てついた心に小さな灯火をともした。
馬車が王都の門を抜けた頃、後方から一頭の馬が追いつき、御者がリアム様に一枚の封書を渡した。
差出人は、我がクライン公爵家の紋章。
(お父様から……!)
きっと、こんな夜更けに娘が男と出奔したと聞いて、心配して……。
一縷の望みを抱いたわたくしに、リアム様は静かにその封書を差し出した。
「……読んでおいた方がいいだろう」
彼の声には、かすかな同情の色が混じっていた。
嫌な予感が、胸をよぎる。
震える手で封を開くと、そこには、父の格調高い、けれど氷のように冷たい筆跡で、こう記されていた。
『――我がクライン公爵家の名を汚した愚かな娘、セレスティナ。もはやお前を娘とは思わぬ。これより勘当とする。二度と我が家の敷居を跨ぐことは許さん』
はらり、と手から書状が滑り落ちる。
息が、できない。
頭が真っ白になり、視界がぐにゃりと歪んだ。
ああ、そうか。
お父様にとって、わたくしはアルフォンス殿下の婚約者であるという価値しかなかったのだ。
その価値がなくなれば、もはや何の興味もない、ただの「呪われた娘」でしかない。
捨てられた。
婚約者にも、そして実の父親にも。
この広い世界のどこにも、わたくしの居場所なんて、もうない。
「……っ、う……」
嗚咽が漏れるのを、両手で必死に口を塞いでこらえる。
涙が、ぼろぼろとドレスの上に染みを作っていく。
もう、淑女の仮面を被っていることなんてできなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
不意に、ごつごつとした大きな手が、わたくしの頭にそっと置かれた。
驚いて顔を上げると、いつの間にか隣に移動していたリアム様が、困ったような、それでいて優しい目でわたくしを見下ろしていた。
「泣きたい時は、泣けばいい」
子供をあやすような不器用な手つきで、彼はわたくしの頭を優しく撫でた。
「君を捨てた者たちのために、涙をこらえる必要はない。……だが、これだけは覚えておけ」
リアム様は、わたくしの濡れた頬を親指でそっと拭うと、まっすぐに目を見つめて言った。
「君の居場所なら、ここにある。俺が、君の新しい居場所になる」
その言葉は、どんな慰めよりも、どんな甘い言葉よりも、深く、強く、わたくしの魂に響いた。
馬車は夜道を走り続け、やがて空が白み始める頃、目の前に壮大な山脈が姿を現した。
ヴォルフェン辺境伯領。
王都の華やかさとは無縁の、厳しくも美しい、わたくしの新しい始まりの地だった。




