第2話
リアム・フォン・ヴォルフェエン辺境伯。
それが、騒ぎの中心へと歩みを進めてくる男の名だった。
夜会に集う華やかな貴公子たちとは一線を画す、鍛え上げられた体躯。
煌びやかな装飾などなくとも、その存在感は他の誰よりも際立っていた。
陽に焼けた肌と、数多の戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ、鋭い眼光。
彼が動いた瞬間、ホールの空気が再び張り詰める。
アルフォンス殿下ですら、その威圧感にたじろいだように見えた。
(なぜ、この方が……?)
学園では、ほとんど言葉を交わしたことのない相手。
彼はいつも一人で、馴れ合いを嫌う孤高の人という印象だった。
そんな彼が、なぜ、この茶番劇に割って入ってきたのか、わたくしには皆目見当もつかなかった。
リアム様は、わたくしの目の前で歩みを止めると、その黒曜石の瞳でアルフォンス殿下を睥睨した。
「王子殿下。今のお言葉、聞き捨てなりませんな」
「な、なんだ、辺境伯。これは私とセレスティナの問題だ。貴様が口を挟むことではない」
アルフォンス殿下は虚勢を張るように胸を反らすが、その声はわずかに上ずっている。
リアム様は、そんな王子の動揺など意にも介さず、淡々と続けた。
「クライン公爵令嬢の魔力が、呪いだと仰いましたな。……それは大きな間違いだ」
「間違いだと? 何を根拠に!」
「根拠は、この目にあります」
リアム様はそう言うと、視線をわたくしへと移した。
その瞳は、他の者たちが向ける好奇や侮蔑の色とは全く違う、どこまでも真摯な光を宿していた。
まるで、魂の奥底まで見透かされているような感覚に、思わず息を呑む。
「殿下や、ここにいる皆さんの目には、彼女の魔力は制御不能の暴力に見えるのかもしれない。だが、俺の目には違うものが見える」
彼は一度言葉を切り、静かだが、ホール全体に響き渡る声で言った。
「あれは、あまりに純粋で、あまりに強大すぎるがゆえに、器から溢れ出しているだけの力。決して、悪意ある呪いなどではない」
しん、とホールが静まり返る。
誰もが、リアム様の言葉に度肝を抜かれていた。
そして、誰よりも驚いていたのは、わたくし自身だった。
(この人は、今、なんて……?)
呪いではない。
ずっと、そう言われ続けてきたこの力を。
父にも母にも、恐れられ、疎まれてきた、この力を。
溢れ出した感情が、魔力となって体内で渦を巻くのが分かった。
だめ、抑えないと。
ここでまた力を暴走させたら、彼の言葉すら嘘になってしまう。
ぎゅっ、と拳を握りしめる。
爪が食い込む痛みで、どうにか理性を保とうとする。
けれど、一度揺さぶられた感情は、そう簡単には静まってくれない。
足元の床に、白い霜が薄く張り始めているのが見えた。
ドレスの裾に触れた冷気が、きらきらと凍りついていく。
「見ろ! やはり呪われた力ではないか!」
アルフォンス殿下が、鬼の首を取ったように叫ぶ。
周囲の貴族たちも、恐怖に顔を引きつらせて後ずさった。
エリザ様は、「ひっ」と悲鳴をあげて王子の影に隠れる。
ああ、終わった。
せっかく庇ってくれたのに、わたくしは、また……。
絶望が心を支配しかけた、その時。
すっ、とリアム様がわたくしの前に立ち、震える拳を、彼のごつごつとした大きな手で優しく包み込んだ。
ひんやりとしたわたくしの手とは対照的な、温かい感触。
その温もりが、荒れ狂う魔力の奔流を、まるで堰き止めるかのように、すっと鎮めていくのを感じた。
「これは……」
リアム様は、驚いたように目を見開くわたくしに構わず、アルフォンス殿下に向き直る。
「殿下。これが呪いならば、なぜ俺の手で触れただけで鎮まるのです? これは、持ち主の心に呼応する、ただ純粋な力だからだ。……彼女がこれほど力を乱しているのは、他でもない、あなたの心無い言葉が、彼女の心を深く傷つけているからに他ならない」
「なっ……!」
アルフォンス殿下は、顔を真っ赤にして絶句している。
ぐうの音も出ない、とはこのことだろう。
わたくしは、自分の手を包む大きな手を見つめていた。
不思議だった。
今まで、誰かに触れられることさえ怖かったのに。
わたくしの魔力に触れれば、相手を傷つけてしまうかもしれないから。
けれど、リアム様の手は温かいままだった。
彼の手から伝わる温もりが、凍てついた心の奥底まで、じんわりと溶かしていくようだった。
「……過去に、何かあったのか」
リアム様が、わたくしにしか聞こえないような低い声で尋ねる。
その問いに、忘れたはずの記憶の扉が、軋みを立てて開いた。
――あれは、十歳の誕生日。
初めて、高位魔術の制御を学ぶ授業でのことだった。
わたくしの魔力は、教本の何倍もの威力で発動してしまった。
ほんの少し、水を出すだけの魔法だったはずなのに。
教室の窓ガラスはすべて砕け散り、止めようとした家庭教師の腕を、深い切り傷が走った。
あの時の、先生の恐怖に歪んだ顔。
両親の、失望しきった目。
そして、「お前は呪われている」と、そう言い放った父の声。
それ以来、わたくしは自分の力を心の奥底に封じ込めた。
人になるべく触れないように。感情をなるべく動かさないように。
完璧な淑女の仮面を被って、ただ息を潜めて生きてきた。
「……っ」
声にならない嗚咽が、喉から漏れる。
涙が、次から次へと溢れて止まらない。
こんな、大勢の前で、なんてみっともない。
けれど、リアム様は何も言わず、ただ静かに、わたくしの隣に立ち続けてくれていた。
その存在が、嵐の中の灯台のように、ひどく心強かった。
「……もう、いいだろう。セレスティナ。立て」
不意に、リアム様が静かに言った。
促されるままに顔を上げると、彼の黒曜石の瞳が、強い光を宿してわたくしを見つめていた。
「こんな場所に、君がいる必要はない。行こう」
「え……? どこへ……」
「俺の領地だ。そこなら、君の力を正しく理解し、導ける者たちがいる」
リアム様は、わたくしの手を引いて、唖然とする人々の中を歩き始めた。
アルフォンス殿下も、エリザ様も、ただ呆然と、わたくしたちの後ろ姿を見送るだけだった。
夜会の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
大きな扉が開かれ、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。
繋がれた手から伝わる確かな温もりだけが、この悪夢のような現実の中で、唯一の真実のように感じられた。




