第1話
シャンデリアの放つ光が、磨き上げられた大理石の床に幾千もの星屑を散りばめている。
ここは王立魔法学園の卒業記念夜会。
未来を嘱望された若き貴族たちが、着飾った姿で最後の学生生活を謳歌する華やかな場所。
その輪の中心で、わたくし、セレスティナ・フォン・クライン公爵令嬢は、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けて立っていた。
(……退屈だわ)
内心でため息をつく。
聞こえてくるのは、当たり障りのないお世辞と、中身のない噂話ばかり。
金の刺繍が施された豪奢なドレスは肌を締め付け、編み上げられた髪は鉛のように重い。
すべては、この国の第一王子であり、わたくしの婚約者であるアルフォンス殿下の隣に立つにふさわしい存在であるための装飾。
「セレスティナ、君のその澄ました顔も今日で見納めだな」
すぐ隣から、聞き慣れた声が氷の刃のように突き刺さる。
見れば、アルフォンス殿下が、わたくしではない別の女性の腰を抱き、嘲るような笑みを浮かべていた。
彼の腕の中にいるのは、桜色の髪をふわりと揺らす、庇護欲をそそる小柄な令嬢。
男爵家のエリザ様。
近頃、微弱ながらも希少な治癒魔法が使えることから、「学園の聖女」などと呼ばれている方だ。
周囲のざわめきが、さざ波のように引いていくのを感じる。
音楽が止まり、すべての視線が、面白い見世物を見つけたかのように、この一点に集中していた。
じり、と肌を焼くような好奇の視線。ひそひそと交わされる囁き声が、悪意となって空気を満たしていく。
「アルフォンス殿下、それはどういう……」
「言葉通りの意味だ。セレスティナ・フォン・クライン! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
びん、と張り詰めた弦が切れるように、殿下の声が高らかにホールに響き渡った。
(……ああ、やっぱり)
頭の片隅で、妙に冷静な自分がそう呟いた。
最近の殿下の態度、エリザ様へのご執心ぶり。こうなる予感は、確かにあったのだ。
けれど、心の奥底で凍りついていくような冷たい感覚は、予感があったからといって和らぐものではなかった。
「理由をお聞かせいただけますか、殿下。わたくし、公爵家の娘として、次期王妃としての教育もすべて完璧に修めてまいりました。何か至らぬ点があったとは思えませんけれど」
背筋を伸ばし、声が震えないよう、細心の注意を払って問いかける。
動揺を見せれば、彼らの思う壺だ。
アルフォンス殿下は、まるで心底うんざりしたというように眉を顰め、エリザ様の肩を強く抱き寄せた。
「至らぬ点だと? 貴様の存在そのものが欠陥品だ! その身に宿る、強大すぎる魔力……それは祝福などではない! 人の心を凍らせ、周囲に災いをもたらす、忌まわしき呪いだ!」
呪い。
その言葉は、わたくしの心の壁に深々と亀裂を入れた。
周囲が大きくどよめく。
「呪われた令嬢……」
「やはり噂は本当だったのね」
「近づくだけで寒気がするもの」
ああ、まただ。
幼い頃から、ずっと向けられてきた言葉。
わたくしには、生まれつき強大な魔力が宿っていた。けれど、その力はあまりに繊細で、あまりに強大すぎた。
感情の昂ぶりに呼応して溢れ出す魔力は、触れるものを凍てつかせ、時に破壊した。
お気に入りのティーカップを粉々に砕いた日。
庭園の花を、一瞬で氷の彫刻に変えてしまった日。
そして……。
過去の記憶が、黒い靄となって思考を覆いそうになるのを、必死で振り払う。
「それに引き換え、ここにいるエリザは違う!」
殿下は、うっとりとした表情で腕の中の少女を見つめる。
「彼女の力は、人々を癒す聖なる光! この国に必要なのは、貴様のような呪われた力ではなく、エリザのような真の聖女なのだ! 彼女こそが、私の隣に立つべき唯一人の女性だ!」
高らかな宣言に、エリザ様はか弱い子鹿のように震え、潤んだ瞳でわたくしを見上げた。
「ご、ごめんなさい、セレスティナ様……! わたくし、アルフォンス様のお気持ちを止められなくて……っ」
(よく言うわ)
心の中で、冷たく吐き捨てる。
その涙も、その震えも、すべてが計算ずくの演技であることくらい、手に取るように分かった。
けれど、わたくしには、それを証明するすべがない。
「どうだ、セレスティナ! 嫉妬か? それとも、己の罪を悔いているのか? 聖女エリザはな、貴様にその魔力で脅されていたと、私に涙ながらに打ち明けてくれたのだ!」
「……脅した、ですって?」
思わず、声が低くなる。
事実無根。彼女とは、必要最低限の会話しか交わしたことがない。
「ええ……っ。セレスティナ様は、いつもわたくしに……『王子に近づくな、その程度の力で思い上がるな』と……。逆らえば、あの恐ろしい力でどうなるか分からないと……!」
エリザ様はそう言うと、わなわなと震え、アルフォンス殿下の胸に顔を埋めた。
完璧な悲劇のヒロイン。
周囲からは、同情的なため息が漏れている。
(ああ、もう、めちゃくちゃだわ)
怒りを通り越して、もはや呆れてしまう。
こんな茶番に、誰が付き合うものか。
わたくしはゆっくりと背筋を伸ばし、唇の端に、かすかな笑みを乗せた。
「承知いたしました。そこまで仰るのでしたら、この婚約、謹んでお受けいたします」
「……なんだと?」
予想外の反応だったのだろう。
アルフォンス殿下の眉が、驚きに跳ね上がった。
もっと取り乱し、泣き喚き、見苦しく縋り付いてくるとでも思っていたのかもしれない。
「ですが、一つだけ。クライン公爵家への正式な説明は、殿下ご自身の口からお願いできますわね? このような公の場で、一方的に婚約を破棄されたとなれば、王家と公爵家の間にどのような亀裂が入るか、お分かりのはずです」
これは脅しではない。事実だ。
我がクライン公爵家は、王家を支える筆頭貴族。
その娘を、根拠の曖昧な理由で、公衆の面前で辱める。
これがどれほど愚かな行いか、目の前の王子は理解しているのだろうか。
「ぐっ……!」
アルフォンス殿下は言葉に詰まり、顔を赤くさせた。
彼のプライドを、真正面から打ち砕いた一言だったのだろう。
これでいい。
あとはこの場を静かに立ち去るだけ。
これ以上、醜態を晒す必要はない。
そう思った、その時だった。
「待った」
低く、けれど芯の通った声が、静まり返ったホールに響いた。
声のした方へ視線を向けると、そこにいたのは、予想だにしない人物だった。
壁際に、他の誰とも交わることなく、一人で静かに佇んでいた男。
北の辺境を守る、ヴォルフェン辺境伯、リアム様。
戦場で狼のように戦うことから「氷狼将軍」とあだ名される、無骨で近寄りがたい人。
彼が、ゆっくりとこちらへ歩みを進めてくる。
その黒曜石のような瞳が、まっすぐにわたくしを射抜いていた。




