最終話 未来の予感
「おはよー!」
携帯電話のスピーカーから、ユカリの弾むような声が響いた。彼女は一度自宅に戻り、大学の課題を片付けてから、再びこちらへ向かっているところだった。
「いいアイデアが浮かんだから、聞いて!私たちの展示が終わったら、今度は私に、個展をやらせてほしいな。タイトルは、もう決めてるんだ」
電話の向こうで、彼女は、少しだけ間を置いた。
「『見えない色展』」
見えない色展。その言葉に、私とミナトさんは、顔を見合わせた。「ハルは『見える』天才だから。私は、凡人なりに『見せる』方法を考え抜かないと、同じ土俵にさえ立てないからね。これが、私の戦う場所だから」
彼女は、もう、私の能力に嫉妬したりはしない。むしろ、それをインスピレーションの源として、自分自身の表現へと、昇華させている。それでも、彼女の言葉の端々には、私の才能への健全なライバル意識と、微かなコンプレックスの残滓が、きらりと光っていた。それが、彼女をさらに前に進ませる原動力になっているのだと、私には分かった。
電話を切った後、私は、自分の左手を、そっと見つめた。薬指の、爪の生え際。そこに、小さな、小さな、インクの染みが、残っていた。何度洗っても、決して落ちない、深い藍色の染み。それは、ミナトさんと初めて交わした、握手の代わりの、あの指紋のインク。
それは、まるで、彼と、この場所と、私が、決して離れることのない絆で結ばれていることを示す、指輪のようだった。この先、何年、何十年経っても、私はきっと、この場所で、この仲間たちと、何かを創り続けていくのだろう。
その数日後、工房に一つの小包が届いた。差出人は、山奥の製紙所の、あの老人からだった。中には、一枚だけ、非の打ち所のない完璧な和紙と、一本の万年筆で書かれた、短い手紙が入っていた。
『水が、あんたたちの色を、祝福しとる』
その無骨な文字からは、紙の魂を知り尽くした職人の、静かで温かい心が、確かに伝わってきた。私たちはその手紙を、工房の壁に、大切に飾った。
■継続
季節は巡り、私たちの最初の展示会は、多くの人々の心に、静かな感動を残して、幕を閉じた。最終日、会場の片隅に、一本のタンポポが、そっと置かれているのをユカリが見つけた。誰が置いていったのかは分からない。けれど、私は、あの旅先で見た親子の母親が、来てくれたのかもしれないと思った。私たちの創造が、あのどうしようもない現実を生きていた誰かの心にも、ささやかな光を届けられたのかもしれない。そう、祈るような気持ちになった。
そして今、私たちは、次の季節のための、新しい創作に取り組んでいる。
創造は、孤独な行為ではない。それは、繋がりそのものだ。私が見る色、ミナトさんが感じる手触り、ユカリが創る空間。それらが一つになり、そして、それを受け取ってくれる誰かがいて、初めて、作品は本当の命を宿す。
印刷所の扉は、いつも少しだけ開けられている。近所の子供たちが、時々「こんにちはー!」と、中を覗き込んでいく。作業台の隅には、そんな子供の一人が描いたのであろう、クレヨンの落書きが、大切に飾られていた。太陽と、花と、三人の人間。その拙い絵が、私たちが創り出すどんな作品よりも、雄弁に、未来への希望を物語っていた。
窓の外では、季節が、その色をゆっくりと変えている。夏には生命力に満ちた新緑が、秋には燃えるような紅葉が、冬にはすべてを浄化する白が、私たちの周りの世界を彩る。そして、その季節の色の余白の中に、私たちは、まだ誰も見たことのない、新しい色を探し続けるのだ。
カシャン、という金属音。インクの匂い。朝の埃の光。街の目覚めの音。 そのすべてが、私たちの日常であり、私たちの創造そのもの。
私の胸の中心で静かに灯る紫色の光が、ミナトの藍とユカリの透明な光に照らされ、ただ、その輝きを深く、そして豊かに、変え続けていた。
窓辺に置かれた、一杯の白湯。その湯気から立ち上る、何色でもない、ただ温かいだけの透明な粒子を眺めながら、私は静かに思う。 色は、やはり、重さだ。 そして、その愛おしい重さを分かち合える誰かが隣にいること。それこそが、生きるということなのだと。




