第43話 小さな祈り
「……ごめん」
最初に謝ったのは、私だった。
「言い過ぎた」 「ううん、私こそ」
ユカリも、俯いた。
重たい沈黙の中、ミナトさんが、そっと、一つのものをテーブルの上に置いた。ずしりとした重みを持つ、一個の鉛の活字。そこに刻まれているのは、たった一つの文字。
『愛』
「きっと、僕の祖父が、画伯のために組んだ、最後の言葉だ」
ミナトさんは、その活字を、慈しむように、手のひらで転がした。言葉の人と、色の人が、友情の最後に交わした、声なき言葉の亡骸。その重みに、私たちは、しばし言葉を失った。
「額装、しましょうか」
ミナトさんが言った。それは、この長い旅の、一つの区切りをつけるための、儀式のように思えた。
彼は、店の奥から、祖父が遺したものであろう、古いが、がっしりとした木製の額縁を持ってきた。三人で、肖像画をそっと持ち上げ、慎重に額縁にはめ込んでいく。
ユカリが、額縁の裏板をはめ、小さなドライバーで留め金を固定していく。カチリ、カチリ、という、金具の音。その無機質な音が、私たちの小さな祈りのように、静かな室内に響き渡った。それは、祖父と、ミナトさんの祖父、二人の魂への、感謝の音だった。
すべての金具を留め終え、私たちは、完成した額装を、壁に立てかけた。射し込む光が、ガラスの表面を滑り、中の絵を照らし出す。祖父の赤金と、ミナトさんの藍が重なり合った、継承の色。その色が、私たちの淡い紫を、優しく、そして力強く、抱きしめているように見えた。
■三人の始まり
額装された肖像画を前に、私たちは、しばらくの間、ただ黙って、その絵を眺めていた。それは、もう、ただの絵ではなかった。いくつもの人生と、出会いと、物語が織り込まれた、一つの宇宙だった。
「ねえ」
沈黙を破ったのは、ユカリだった。彼女の目は、いつものように、未来を見つめて、きらきらと輝いていた。
「この絵、ただ飾っておくだけじゃ、もったいないよ。この絵が生まれた物語ごと、作品にしない?」
彼女は、インスタレーション作家としての顔で、私たちに語りかける。
「この印刷所全体を、一つの展示空間にするの。ハルが見た色の世界を、プロジェクターで壁に投影して。ミナトさんが印刷する音を、空間に響かせて。そして、その中心に、この絵を置く。見る人が、この余白の意味を、自分で感じ取れるような、体験型の作品に。来月末の、アートフェスティバルに出品しない?」
来月末。突然提示されたタイムリミットに、私は息を呑んだ。けれど、その緊張感は、不思議と心地よかった。
私が見る、感情の「色」。
ミナトさんが紡ぐ、物質の「手触り」。
そして、ユカリが創り出す、物語の「空間」。
三人いれば、もっと、新しい何かが創れる。一人では決して見ることのできない、景色が見られる。
私は、ミナトさんを見た。彼は、いつものように静かに、けれど、その藍色の瞳の奥に、確かな喜びの光を灯して、深く、頷いた。
完成とは、終わりではない。次の始まりのための、扉なのだ。私たちは、顔を見合わせ、どちらからともなく、小さく笑い合った。窓から射し込む光が、私たちの未来を祝福するように、壁の肖像画と、私たちの足元を、明るく、照らし出していた。




