第39話 一通目
お茶を一口飲むと、少しだけ、冷静になれた。
もう、逃げるのは、やめよう。
私は、深く、息を吸った。そして、もう一度、スマホの画面に向き直る。今度は、迷わなかった。ポケットの中で、祖父の絵筆を強く握りしめる。嘘のない言葉を紡ぐためのお守りだった。
『ユカリ、連絡ありがとう。私も、ずっと謝りたかった。見えすぎることで、あなたを傷つけてしまったから』
見えすぎる、という言葉。それは、彼女には理解できないかもしれない。けれど、もう嘘はつきたくなかった。これが、私の真実なのだから。
『でも今は、誰かと分かかち合うことを、少しだけ、学んだの。もし良かったら、また会えないかな。あなたと、もう一度、話をしたい』
そこまで打ち終えて、私は、送信ボタンを、じっと見つめた。この、小さなアイコンを押すだけで、私の止まっていた時間が、再び動き出すかもしれない。
ミナトさんの気配が、すぐそばにある。彼の藍色が、私の背中を、そっと、押してくれている。
私は、目を閉じて、そのボタンを押した。
ぽん、という、気の抜けたような、軽い送信音。その小さな音が、雨音に濡れる印刷所の中に、やけに大きく、そして決定的に、響き渡った。
■既読
メッセージを送ってからの数分間は、永遠のように長く感じられた。私は、自分の心臓の音を聞きながら、ただ画面を見つめていた。私のメッセージの下に、小さな「既読」の文字が現れる。心臓が、大きく跳ねた。薄青の緊張が、最高潮に達する。
彼女は、これを読んで、どう思うだろう。気味悪がられるだろうか。それとも、無視されるだろうか。
その時、画面の上部に、新しいメッセージを知らせるバナーが表示された。
『返信、ありがとう。私も、ずっと後悔してた』
ユカリからの、返事だった。私は、震える指で、そのメッセージの全文を開いた。
『あの頃の私、ハルの才能に、すごく嫉妬してたんだと思う。だから、ハルが苦しそうな顔をするたびに、自分の醜い心を見透かされているような気がして、怖かった。あなたを傷つけないように、自分が傷つく方を選んだんだね。ごめん』
涙が、溢れてきた。
濁った緑色は、彼女だけのせいではなかった。私の恐怖が、私の沈黙が、その色を、さらに濃く、醜くしてしまっていたのだ。彼女もまた、一人で苦しんでいた。
そして、メッセージは、こう結ばれていた。
『うん、会いたい。あなたの本当の色が、やっと見られる気がする』
その最後の言葉を読んだ瞬間、私の脳裏にこびりついていた、あのヘドロのような緑色が、すうっと、浄化されていくのが分かった。雨上がりの光に洗われた若葉のように、その色は、透明で、清らかな緑へと姿を変えていく。緑の浄化。過去は変えられない。けれど、その色に、新しい意味を与えることはできるのだ。
私の周りを覆っていた薄青の緊張は、いつの間にか消え去っていた。代わりに、胸の中心から、温かい光が、広がっていく。それは、夜明けの空のような、淡い金色の光。和解への、確かな希望の色だった。
私は、顔を上げた。窓の外では、いつの間にか雨が上がり、雲の切れ間から、柔らかな陽の光が、濡れた路地を照らし始めていた。




