第38話 通知
私自身の「色」である淡い紫が生まれてから、印刷所での日々は、穏やかな光に満ちていた。ミナトさんと共に祖父の肖像画を完成させる作業は、もはや苦痛な追体験ではなく、失われた時間を取り戻し、新しい物語を紡いでいく、喜びに満ちた創造の営みとなっていた。過去は変えられない。一度壊れてしまったものは、元には戻らない。ずっとそう信じてきた。けれど、もし、過去の意味そのものを、未来に向かって変えていくことができるとしたら?その問いは、思いがけない形で、私のスマホの画面に、一つの通知として現れた。
■通知
その日も、外は静かな雨が降っていた。私たちは、刷り上がった肖像画のインクが完全に乾くのを、ただ静かに待っていた。壁際にずらりと並べられた、淡い紫色を宿した和紙。その一枚一枚が、私自身の分身のように、愛おしく思えた。ミナトさんが淹れてくれた温かいお茶をすすりながら、私たちは、特に言葉を交わすこともなく、雨音に耳を澄ませていた。
その、穏やかな沈黙を破ったのは、ポケットの中で震えた、スマホの短いバイブレーションだった。
何ヶ月も放置していたSNSのアカウント。その通知音に、私の心臓は、一瞬だけ、嫌な音を立てて跳ねた。もう、あの数字の波に心を乱されることはない。そう思っていたはずなのに、体はまだ、あの頃の条件反射を覚えていた。喉の奥が、乾いたようにひりつく。
ミナトさんに「すみません」と小さく会釈し、私はおそるおそる画面を覗き込む。そこに表示されていたのは、見慣れた「いいね」やコメントの通知ではなかった。
ダイレクトメッセージ。一件。
そして、その送り主の名前に、私は息を呑んだ。
『ユカリ』
たった三文字の名前が、私の視界の中で、じわりと滲む。時間が、止まった。雨音が、遠のいていく。私の周りの空気が、張り詰めた緊張を示す、薄青色の粒子で、ゆっくりと満たされていくのが見えた。
ユカリ。私がこの能力のせいで傷つけ、そして失ってしまった、たった一人の親友。彼女の名前を見ることさえ、ここ何年も避けてきた。それなのに、なぜ、今。
震える指で、メッセージを開く。そこには、短く、けれど、無視するにはあまりにも重い言葉が、記されていた。
『ハル、久しぶり。ユカリです。あなたの展示会の記事を、ネットで見ました』
展示会。あの、私が倒れた、悪夢のような記憶。彼女は、あの虚構に満ちた私の成功を、どんな思いで見ていたのだろう。私の指先が、氷のように冷たくなっていく。
■逡巡
メッセージを読んだまま、私は動けなかった。返信をしなければ。でも、なんて返せばいい?「久しぶり」と当たり障りなく返すのか。「ごめんなさい」と、今さら謝るのか。それとも、気づかないふりをして、このままアプリを閉じてしまうのか。
私は、無意識のうちに、返信画面を開いていた。真っ白な入力欄と、点滅するカーソル。それは、祖父の肖像画の、あの白い余白によく似ていた。何を書き込むかで、未来が大きく変わってしまう、運命のスペース。
書いては消し、消しては書く。その繰り返し。スマホを握る手のひらに、じっとりと汗が滲む。画面の青白い光が、乾いた目を刺す。私の脳裏には、あの日のユカリの姿が、鮮明に蘇っていた。傷ついたように見開かれた瞳。そして、彼女の全身から立ち上っていた、あのヘドロのような、濁った緑色。あの色が、私の指を縛り付け、前に進むことを許さない。
過去は、変えられない。私が彼女の心に、あの醜い色を生んでしまった事実は、決して消えないのだ。
「……ハルさん」
ミナトさんの静かな声に、はっと我に返る。いつの間にか、彼が私の隣に立ち、新しいお茶を淹れてくれていた。彼は、私のスマホの画面を覗き込むような、無粋なことはしない。ただ、私の周りに漂う薄青の緊張の色を、その深い藍色で、静かに受け止めてくれていた。
「雨が、強くなってきましたね」
彼は、窓の外に目をやりながら、ぽつりと言った。雨のガラス。そこに映る、歪んだ印刷所の風景が、私の心のようだと思った。ミナトさんは、何も言わずに、ただ、そこにいてくれる。その沈黙の優しさが、私の頑なな心を、少しずつ溶かしていった。




