第37話 命名
私は、その淡い紫色から、目を離すことができなかった。
自分の色は、自分では見えない。ずっと、そう思っていた。私の体は、いつも色のない、透明な靄に包まれているだけだと。けれど、それは間違いだった。色は、確かに、そこにあったのだ。ただ、私自身が、それを見て見ぬふりをしていただけ。他者の目と、他者の手を借りることで、私は初めて、自分自身の内側にあった色と、向き合うことができた。
自分の色は、他者にしか見えないのか?違う。他者という鏡に映すことで、初めて、自分でもその色を「見る」ことができるのだ。
「……きれい」
か細い声が、私の唇から、無意識に漏れた。それは、私が私の色に与えた、最初の言葉だった。
ミナトさんは、刷り上がった紙を、大切そうに乾き待ちの棚に置いた。そして、私のほうに向き直る。私は彼の目を見ることができず、視線を彼の足元に落とした。彼は一度、窓の外の暗闇に目をやってから、私の目を見ずに言った。
「これが」
その声に、私はゆっくりと顔を上げた。彼は、今まで見たこともないような、優しい、穏やかな顔で、微笑んでいた。
「今の君の色、じゃないかな」
その言葉は、何の変哲もない、静かな響きだった。けれど、私の心には、どんな大音量の音楽よりも、どんな賞賛の言葉よりも、深く、そして確かに、届いた。
今の、私の、色。
その瞬間、私の目から、一筋だけ、涙がこぼれ落ちた。それは、熱い涙ではなかった。赦しによって生まれた、あの淡黄緑の光が、浄化されて、透明な一滴の雫となって、流れ落ちたかのようだった。その涙は、私の頬を伝い、床に落ちて、何の染みも残さずに、静かに消えていった。
■沈黙の抱擁
その時だった。印刷所の、東向きの小さな窓の縁に、一筋の光が差し込んだのは。
夜が、明けたのだ。
朝焼けの、燃えるような橙色の光が、薄暗かった室内に、生命の息吹を吹き込んでいく。その光は、私たちの隣に立つミナトさんの全身を、優しく照らし出した。
そして、私は見た。
彼の、あの深海の藍が、朝焼けの橙色を浴びて、その色を、ゆっくりと変えていくのを。藍色の奥から、温かい橙色が滲み出し、二つの色が溶け合っていく。それは、祖父が放っていた、あの赤金の色によく似ていた。包容力の藍と、希望の橙が融合した、継承の色。祖父の魂が、ミナトさんを通して、今、確かに、私を見守ってくれている。
もう、言葉は、必要なかった。
私は、一歩、前に進み出た。そして、インクの匂いが染み付いた、ミナトさんの胸に、自分の額をそっと押し当てた。それは、抱擁と呼ぶには、あまりにもささやかで、静かな行為だった。
ミナトさんの体が、一瞬だけ、こわばった。けれど、すぐに、その力が抜け、彼の大きな手が、私の背中に、そっと、置かれた。彼の深い藍色が、朝焼けの橙を帯びた温かい色が、私を、完全に、包み込む。
そこは、世界で一番、安全な場所だった。
私たちは、何も言わずに、ただ、そうしていた。窓の縁の光が、どんどんその輝きを増していく。印刷機の上で、生まれたばかりの淡い紫色が、朝の光を浴びて、誇らしげに、そして静かに、輝いていた。




