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ピクセルに散りばめられた心の色  作者: 大西さん
第12章 怒りと赦しの色
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第35話 虹色の悲しみ

どれくらいの時間が経っただろうか。気づくと、私の震えは止まっていた。目の前のコットン紙には、もちろん何の傷もついていない。けれど、私の中の嵐は、確かに過ぎ去っていた。


その時、印刷所の扉が開く、からん、という音がした。一人の若い女性が、小さな段ボール箱を抱えて、おずおずと入ってくる。


「あの……ご相談が、ありまして」


彼女の周りには、今まで見たことのない、複雑な色が漂っていた。それは、悲しみの藍色を基調としながらも、その中に、愛情の赤金、思い出の緑、そして希望の黄色が、いくつも、いくつも、虹のように混じり合った、美しい光だった。


ミナトさんは、私に目配せをすると、穏やかな表情で彼女を迎えた。彼女は、先日亡くなった五歳の息子さんが描いた絵を、何か形にして残したいのだと、涙ながらに語った。


「この子が遺した絵なんです」


彼女が段ボールから取り出したのは、クレヨンで描かれた、拙いけれど生命力に溢れた絵だった。


「ただ綺麗に複製したいんじゃないんです。この絵には、あの子を失った私の悲しみと、それでもあの子と過ごした日々の喜びが、全部詰まっている。この、虹色みたいな悲しみの質感を、何か、手で触れられるものとして、残したくて……」


彼女は、単なる依頼主ではなかった。私たちと同じ、表現者だった。


「でも、時々、思うんです」


彼女の声が、ふと、憎しみの色を帯びた。


「どうしてうちの子だけが!って。もっと悪いことをしている人間が、たくさんいるのに……」


その瞬間、彼女の言葉から、棘のある赤い粒子が、ちりりと一つ、こぼれ落ちた。けれど、それはすぐに、息子への愛情を示す、巨大な虹色の光の中に、溶けて消えていった。


彼女は、怒りを、憎しみを、愛情で乗り越えようとしていた。


その姿を見て、私は、自分の心のなんと矮小なことかと思い知らされた。私は、たった数年前の、ちっぽけな裏切りを、ずっと許せずに、心の奥底で燃やし続けていたのだ。


赦すことで、何が生まれるのだろうか。


■解放


若い母親が帰った後、私は、ミナトさんに言った。


「私……あの子たちのこと、許そうと思います」


ミナトさんは、何も聞かずに、ただ静かに頷いた。


私は、目を閉じた。高校時代の、あの憎い顔を思い浮かべる。そして、その顔に向かって、心の中で、そっと呟いた。「もう、いいよ」と。


その瞬間、私の内側で、新しい色が生まれるのを感じた。


それは、固く凍った冬の土を、こじ開けて芽吹く、若草のような色。淡く、けれど、力強い生命力に満ちた、黄緑色。それは、「赦し」の色だった。真紅の怒りが焼き尽くした荒野に、初めて生まれた、新しい命の光。


赦しは、連鎖した。


他者を赦した瞬間、私は、自分自身のことも、赦すことができたような気がした。親友を傷つけてしまった、臆病な自分。SNSの数字に溺れた、空っぽの自分。そんな、過去のすべての自分を、新しく生まれた淡黄緑の光が、優しく包み込んでいく。


夜が更け、雨音だけが響く印刷所の中で、私は、窓ガラスに映る自分の姿を見ていた。夜明け前の、深い青に染まったガラス。そこに映る私の胸の中心に、確かに、光が灯っていた。


それは、旅の夜の夢で見た、あの淡い紫色の光ではなかった。もっと小さく、もっと確かで、そして、温かい光。赦しによって生まれた、淡黄緑の光が、凝縮されて、小さな灯火となっているのだ。


それは、まだ、部屋の明かりを消さなければ見えないほどの、ささやかな光だった。けれど、それは、誰かに与えられたものではない。私自身の内側から、痛みと、赦しを経て、生まれた、本物の光。


水面の震えが、静かに収まっていくように、私の心は、凪いでいた。


赦すことで生まれるもの。それは、新しい色であり、新しい命であり、そして、自分自身を取り戻すための、最初の小さな光なのだ。


私は、窓に映る自分の胸の光を、そっと、右手で覆った。その温かさが、失っていた私自身の輪郭を、ゆっくりと、そして確かに、取り戻してくれていた。


夜明け前の印刷所に、インクの匂いだけが満ちている。主のいない印刷機は、巨大な鉄の獣のように、静かに息を潜めていた。作業台の上に置かれた一枚の楮紙が、裸電球の光を吸い込んで、ただ、白く光っていた。

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