第34話 揺り返し
紙と街を巡る旅から印刷所に戻った私たちは、再び祖父の肖像画と向き合う日々を送っていた。旅で得たものは、最高の和紙だけではなかった。職人たちの哲学、自然のリズム、そして、私自身の内側に灯った、淡い紫色の光。私の世界は、確実に広がり、その色彩を豊かにしていた。けれど、光が強くなれば、影もまた濃くなる。穏やかな日々の中で、私は、心の奥底に固く封じ込めていた、最も見たくない色の記憶と、対峙することになる。
■揺り返し
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。印刷所のトタン屋根を、雨粒が乾いたチョークで黒板を叩くような、神経質な音で叩き続けている。私たちは、旅で手に入れた楮紙に、祖父の人生を再現したインクを試し刷りする、最終段階の作業に入っていた。
ミナトさんが印刷機を動かし、私が刷り上がった紙を受け取って、乾き待ちの棚に並べていく。順調だった。あまりにも、順調すぎた。心は穏やかで、ミナトさんの藍色に包まれていると、世界はこんなにも安全で、優しい場所なのだとさえ思える。
その、油断が、引き金を引いたのかもしれない。
一枚の試し刷りを受け取った瞬間、私の脳裏に、ある記憶が、何の脈絡もなく、鮮烈な色となって蘇ったのだ。
それは、高校二年生の、同じような雨の日の記憶だった。文化祭のクラス展示で、私は中心になって、大きな共同制作の絵画に取り組んでいた。クラスメイトたちと夜遅くまで残り、一つのものを作り上げる。それは、ユカリを失って以来、私が初めて得た、温かい繋がりだった。
しかし、文化祭の当日、私たちの絵は、何者かによって、カッターナイフで無残に引き裂かれていた。犯人はすぐには分からなかった。けれど、私は見てしまったのだ。クラスの中心的なグループの女子生徒たちが、物陰で顔を見合わせ、ほくそ笑む瞬間を。彼女たちの周りには、他人の不幸を喜ぶ、醜い黄土色の粒子が、煙のように立ち上っていた。
私が犯人を知っていると感づいた彼女たちは、次の日から、私を巧妙に孤立させた。根も葉もない噂を流し、私の持ち物を隠し、聞こえよがしに悪口を叩く。一番堪えたのは、昨日まで一緒に笑い合っていたクラスメイトたちが、誰も私を助けてくれなかったことだ。彼らの周りには、面倒事に関わりたくないという、臆病な灰色の靄が漂っていただけだった。
そして、雨が強く降る放課後、私は主犯格の女子生徒に、体育館裏で問い詰めた。「どうして、あんなことしたの」彼女は、悪びれもせずに、鼻で笑った。「あんたが、いっつも一人で先生に気に入られてるのが、ムカついただけ。ちょっとしたイタズラじゃん」
その瞬間、私の内側で、何かが焼き切れた。
視界が、真紅に染まった。
それは、今まで見たどんな赤とも違う、純粋な「怒り」の色だった。憎しみや悲しみさえも焼き尽くす、マグマのような深紅。その粒子は、私の体から炎のように噴き出し、周りの空間を焦がしていく。雨音も、自分の心臓の音も、何も聞こえない。ただ、目の前の相手を、この世界から消し去ってしまいたいという、破壊的な衝動だけが、私のすべてを支配していた。
■支え
「――ハルさん!」
ミナトさんの、切迫した声。はっと我に返ると、私は、手に持っていた試し刷りの紙を、くしゃくしゃに握りしめていた。指先が、白くなるほど力が入っている。全身が、怒りの記憶に呼応して、小刻みに震えていた。
「大丈夫ですか。顔色が……」
ミナトさんが、心配そうに私の顔を覗き込む。彼の深い藍色が、私の視界に映る。けれど、今の私には、その穏やかな色でさえ、苛立ちの対象でしかなかった。私の内側で荒れ狂う真紅の炎が、彼の藍色を拒絶する。
「……触らないで!」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。けれど、一度口から出てしまった拒絶の言葉は、取り消せない。ミナトさんは、傷ついたように、一瞬だけ目を見開いた。そして、何も言わずに、私から一歩、距離を取る。
頭が、割れるように痛い。あの高校生の時に感じた、破壊衝動が、再び私を飲み込もうとしていた。どうして今ごろ、こんな記憶が。せっかく、穏やかな場所を見つけたのに。
私は、その場にうずくまり、頭を抱えた。真紅の粒子が、私の視界で火花のように散っている。熱い。痛い。苦しい。
すると、ふと、冷たい何かが、私の手に触れた。
驚いて顔を上げると、ミナトさんが、私の足元に、インキナイフをそっと置いていた。彼自身は、私に触れることなく、ただ、その冷たい金属の道具を、介在させたのだ。
ひんやりとした、金属の感触。その無機質な冷たさが、怒りで燃え盛る私の肌に、確かな境界線を引いてくれる。私は、導かれるように、そのインキナイフを握りしめた。すると、ミナトさんは、今度は一枚の、分厚いコットン紙を私の前に差し出した。
「そのインク、紙に移してみてください」
彼の声は、静かだった。けれど、その奥には、揺るぎない信頼があった。彼は、私の怒りを否定しない。ただ、その行き場を、示してくれている。
私は、言われるがままに、インキナイフの先に、見えない「真紅のインク」を乗せるイメージをした。そして、それを、真っ白なコットン紙の上に、叩きつける。何度も、何度も。紙の表面が、私の怒りを受け止めて、わずかに震える。
不思議なことに、紙に怒りを移していくうちに、私の内側で燃え盛っていた炎が、少しずつ温度を下げていくのが分かった。ミナトさんの深い藍が、直接的ではないやり方で、私の真紅を、鎮めてくれている。彼は、私の感情を、その手触りで、確かに理解していた。




