第32話 出発
祖父の肖像画に使うインクの色が決まってから、ミナトさんは一つの提案をした。
「最高のインクには、最高の紙が必要です。画伯もきっと、そう望んでいるはず。少し、旅に出ませんか」。
その言葉に、私は迷わず頷いた。SNSと数字に追われ、都会のコンクリートの中で縮こまっていた私にとって、その響きはあまりにも魅力的だった。
■出発
私たちは、週末の早朝、都心を離れる電車に乗っていた。ガタンゴトン、という規則正しい揺れが、心地よい眠気を誘う。満員電車とは違う、ゆったりとした時間が流れる車内。窓の外の景色が、灰色だったビル群から、少しずつ緑の色を増やしていく。
私の隣に座るミナトさんは、分厚い本を静かに読んでいる。時折、ページをめくる乾いた音だけが、私たちの間の沈黙を破った。無理に話す必要はない。ただ隣にいるだけで、彼の深い藍色が、私を安心させてくれる。私たちは、もう言葉を交わなくても、多くのことを共有できる関係になっていた。
車窓を流れる風景を見ていると、私の目には、様々な「生命の色」が飛び込んできた。山の木々が放つ、力強い深緑。実りの季節を迎えた田んぼの、輝くような黄金色。その中でも、ひときわ私の心を捉えたのは、芽吹いたばかりの若草のような、鮮やかな黄緑色だった。
それは、新しい始まりと、未知への期待に満ちた色。見ているだけで、胸の奥がくすぐったくなるような、生命力に溢れたピクセル。私の体からも、その色に呼応するように、同じ黄緑色の粒子が、ふわりと一つ、生まれては消えた。
「きれいな色ですね」
不意に、隣のミナトさんが、本から顔を上げずに言った。
「え?」
「あなたの、今の心の色。窓の外の景色と、同じ色をしている」
驚いて彼を見ると、彼は悪戯っぽく笑って、本のページに視線を戻した。彼には色が見えないはずなのに。どうして。けれど、すぐに分かった。彼は、私の心の動きを、その変化を、彼自身のやり方で「感じて」いるのだ。
私たちは、山間の小さな駅で電車を降りた。空気が、東京とは比べ物にならないほど、澄み切っている。深呼吸をすると、肺が湿った土と植物の匂いで満たされた。ここから、私たちの本当の旅が始まる。
■製紙所と不協和音
駅からバスに揺られて三十分。山奥の、清流の音が絶えず聞こえる場所に、その製紙所はあった。築百年は超えているであろう、黒光りする梁が印象的な、古い木造の工房。そこで私たちを迎えてくれたのは、日に焼けた、皺の深い顔の老人だった。この道六十年の、和紙職人だ。
「よく来たな。水が、一番冷たくて気持ちのいい季節だ」
老人はそう言って、私たちを工房の中へと案内してくれた。中には、巨大な水槽がいくつも並び、その中には、楮の白い繊維が、ゆらゆらと漂っている。そして、工房全体を包み込んでいるのは、澄み切った、透明な水色のオーラだった。
それは、不純物を一切含まない、清らかな水だけが放つことのできる、聖なる色。見ているだけで、心が洗われていくようだ。
「紙の命は、水だ」
老人は、水槽の水を両手ですくい上げながら言った。その手からこぼれ落ちる水滴が、光を反射してきらきらと輝く。
「この山の湧き水じゃなきゃ、うちの紙はできん。水が紙の魂を決めるんじゃ」
彼は、簀桁と呼ばれる木枠の道具を使い、水槽の中から繊維をすくい上げる。彼の熟練した手の中で、水と繊維が巧みに絡み合い、みるみるうちに薄い膜を形成していく。それは、まるで魔法のようだった。一枚の紙が、この世界に生まれ落ちる、奇跡の瞬間。
「都会の連中は、何でも早く、簡単に手に入れようとする」
老人は、漉き上げたばかりの湿った紙を板に貼り付けながら、私たちに問いかけた。
「じゃがな、本当にいいものは、時間が作るんじゃ。この紙も、この水も、太陽も、全部、急ぐことを知らん」
その言葉は、SNSの数字に一喜一憂していた私の胸に、ずしりと重く響いた。
バスを待つ間、私たちは駅前のベンチに座っていた。目の前を、ゲームセンターのけばけばしい看板を背負った、痩せた母親と、小さな子供が通り過ぎていく。母親の体からは、疲労と苛立ちが混じった、濁った灰色の煙が立ち上っていた。子供は、母親の服の裾を掴み、何かを訴えている。母親は、その手を乱暴に振り払い、子供の頭を、感情のこもらない手つきで、ぽかりと叩いた。
子供の体から、困惑と恐怖が混じり合った、震えるような薄紫の粒子が、シャボン玉のように生まれては、消えた。
私は、何もできなかった。声をかけることも、その色を拭ってあげることも。
「……何の意味があるんだろうね」
不意に、自分の唇から、乾いた言葉がこぼれ落ちた。ミナトさんが、怪訝な顔でこちらを見る。
「こんなに美しい紙を作っても、魂を込めてインクを練っても、あの親子には、届かない。私たちのやってることって、ただの自己満足なんじゃないかな」
私の言葉は、棘となって、美しい旅の空気を切り裂いた。ミナトさんは、その棘から身を守るように、少しだけ目を伏せた。
「……僕たちに、すべての人を救うことはできない」
彼の声は、静かだった。けれど、その正しさが、今の私には、ひどく冷たく、残酷に響いた。彼の藍色の中に、私を理解できないことへの、もどかしさを示す灰色の靄が、わずかに混じる。私たちの間に、初めて、冷たい溝が生まれた気がした。




